第十一話 僕らの黄金郷
気がつけば、八木は自分が創り上げた世界に居た。自分が創った異形達に囲まれて、求められるがままにそれらしい振る舞いを行った。成り行き任せに異形たちの群れを率いて、自分で創り上げた世界の、自分で創った街を一つ壊滅させた。
八木の行った事を要約すると、ただそれだけである。
そして、また気がつくと――
「僕もまぁ、よくよく唐突に巻き込まれる人生なんだろうか?」
やれやれ、と横たわる体を主観で起こた八木は、前後左右と首を動かした。白と黒、そして灰色。天地の境のない、三百六十度全周囲を見渡しても、何も無い――いや、遥か彼方にごま粒のような、星、太陽、月。
異形の体に慣れきっていたせいか、少々の違和感が付きまとう。今は、八木は単なる人であった。耳元でゴチャゴチャと"邪神"がわめいているが、気にならない。
「……あっちかな」
足元に地面がない空間を歩くのは、非常にふわふわとした、スプリングの利いたベッドの上を歩くような異感覚。どういう状況に置かれているか、邪神であった八木には何となく判る。
これは恐らく、自分の魂と体が切り離された状態である。そして、邪神の体は遥か遠くのごま粒にある。たどり着くには、歩くしかないのだろう。少なくとも、この場に居ても何も変わらず、八木がやりたい事は成されない。
「随分遠くに飛ばされたものだなぁ……」
遥か彼方を目指して、歩み始める。
歩み始めて判ったのは、八木の主観時間が当てにならない事であった。
ごま粒は相当の速度でスピンし、光るごま粒の周りを等速円運動を行っている。スケール感が相当に曖昧な、灰色の空間。宇宙なのかもしれないが、そうでないのかもしれない世界。自分がどういう状態に置かれているか、誰かが自分を定義づける事もなく、自分を自分で定義するしかない世界。
そんな虚無にたった一人浮かぶ八木を孤独が磨り減らす。
歩く。
星を目指して、八木は歩く。
どれほど歩いたか八木には判らない。道半ばか、ほんの一歩か、それとも、もうたどり着く直前か。
ただ無心に歩く八木の道中に人影。
ここ数年間で、一番話した、信用と信頼の置ける、先輩で後輩で同僚。八木と35センチの身長の差のある……どうにも野暮ったい女。初見の人には上手く説明出来ない自信が有るが、こういうときに居てくれたらどれだけ助かるか判らない友。
それが、藤田八重だ。
「先輩、もう帰りましょう。いく必要は無いッスよ」
開口一番。八重は言った。
「センパイ、何言ってるんですか」
なぜこんな事を八重が言い出すのかが、八木には判らない。自分達の大事な、子供のような箱庭なのだ。あの時、あの場で終わったならまだしも。こんな中度半端な状態で戻れと言うのか。戻れるというのか。
「もう良いじゃないっスか。今戻れば、全部終わり際に見た妄想で済ませれるッスよ」
今まで歩いてきた方向とは逆方向に、八重は八木の手を掴んで引きずろうとして、引きずられる。
「センパイだって言ったじゃないか、こんなゲームがやってみたい、作ってみたいって……そんな、僕らの夢見た、理想のゲームがあそこにあるじゃないか」
あれこそが――八木の黄金郷。
ポリゴンで形作られテクスチャで彩られた、仮想でしかなかった世界が……限られた予算、短い開発期間、頻出するバグ、離れる顧客、矛盾した設定、資金の回収の為の無理やりなアップデート、不正ツール対処のいたちごっこ……これらに悩まされない、血と肉を持った現実な圧倒的な存在感を放つ、この世界が。
空の青さと海の生臭い潮風、白い雲を切り裂く山脈の鋭い頂、深い森の緑と湖沼の膿んだ藻、鬱蒼と茂る野山にぽっかりと開いた洞穴。踏み込めば迷宮のむせ返る様な血の赤さと臭いに。泣いて、笑って、怒って、苦しんで、悩んで、閃いて、楽しんで――
誰もが本気で遊ぶ。そんな世界を提供できる。
八木にとっての黄金郷が、これだ。この星だ。
「どうしても、ダメッスか?」
「うん、僕は……どうしても、やらなきゃいけない」
大体、もう既に話は始まっている。動き出したメインストリームを止めるのは、馬鹿のすることだ。
「これを手放すのは惜しい」
そう、惜しいのだ。恐らく、この機を逃したら、絶対に叶う事がない夢。
八木の創る世界を待ち望む者達が居る。それを捨てる事はできない。
八木は創作者だ。
なった経緯は流れでも、なんでも。今は創作者だ。
そんな理想郷を、ほいほいと誰が捨てれよう。
八重の言葉一つで、止めるわけにはいかないのだ。
「それは……傲慢ッスよ」
「傲慢かな」
「ええ、傲慢ッス。ゲームは……プレイヤーあっての、ゲームじゃあ無いっスか」
「それでも、僕は」
八木は――この機会を、逃したくは無い。
「戻れば、ウチと殺し合いになりますよ」
「……そうだね」
確かにそういう事にもなるだろう。八木の認識する限り、八重はヒゲダルマで、ヒゲダルマが八重で、センファイが八重で、八重がセンファイだ。
八木が"邪神"である限り、敵対する事になるだろう。
「そうだね、敵だな」
「敵ッスよ、敵。一片の曇りなく、命のやり取りとかしちゃう仲ッスよ」
「そうだね、まぁ、ある程度手を抜いてくれると楽かなぁ」
「何言ってるんスか……」
八重の泣き笑いを見て、八木は困ったように微笑んだ。
「夢を見るなら、今しかないんだ」
醒めない夢を、八木は求める。
確かに、黄金郷だ。エル・ドラドだ。
あちらで叶わぬ事が、こちらでは叶う。
チャカにとって、この地は確かに、かっては黄金郷であった。
深夜早朝、何時ログインしても、馬鹿な奴らはいつでもいた。
いつだって楽しい冒険が待っていたし、いつだって馬鹿馬鹿しいやり取りがあったし、辛い現実で削れた心を、癒せる力がここにはあると信じてた。
今では、どうだ?
『もう帰ってよ。心残りなんて無いでしょ』
全身を締めつける影が、チャカの両手を無理やり窓枠にかけさせた。
『酷い目に会ったじゃない。痛い目に会ったじゃない。苦しい目に会ったじゃない』
抗う手は、震えながらも窓枠を掴む。確かにチャカは、酷い目にあった。
『もうどうでもいいじゃない所詮、ここは常世で、隔世。あんたにとって、現世じゃない』
――そうなのか?
『ヒゲダルマだって、あんたにとっては――ほんと、名前だけ知ってたような間柄だったし』
確かに、チャカとヒゲダルマは、そんなに深い間柄ではなかった。一月ほど前までは。
『タイタンだって、あんたにとってはモニタ挟んだ間柄でしかないし』
確かに、タイタンとチャカは、モニタを挟んだ間柄だ。
『ナイトウだって、あんたにとっては仮想の存在でしょ』
確かに、かってのチャカの主観から見たら、ナイトウは仮想の存在だ。画面の中にしか居ない、仮想の友人だ。
『だから、ここでの記憶は、あんたにとっては――まがいもので、大事じゃない』
窓枠を掴む手に一層の力が入る。
『だから、後はわたしがやる。わたしの方が、皆ををよく知ってる。わたしの方が、あいつらの仲間だ。わたしの方が、あいつの相棒に相応しい』
チャカの耳元で囁く声が、一層の熱を帯びる。
「ちがう」
チャカが自由になるのは首だけだった、だから、首を横に振った。目から涙をこぼした。
「全然、違う!」
違う。違う。違う。違う。違う。
よく知らないからなんだ。出あったばかりだからって、なんだ。モニタ一枚隔てたからってなんだ。モニタの向こうにゃそいつが居た。仮想だからって、なんだ。仮想現実も、現実だ。
画面の中は仮想でも、画面の向こう側は、そこに在る意思は、現実だ。
「にせものなんかじゃない!」
けして、まがいものではない。仮想は、偽物じゃない。
『でも、あんたは演技してた』
「してた! けれど違う!」
確かに、チャカは演技をしていた。仮面を被って、別の人格を演じていた。
だが、人格とはたった一つだろうか。それは、けして揺らがないものだろうか。
――素顔は、たった一つか?
違う。
色々な側面を、人は持っている。
ナイトウだって、頼りになる面だってあれば、ろくでもない面だってある。糞みたいなことを言い出す事もあるし、ヘタれる事も多い。
チャカだって、そうだ。
人間だから。色々な面を持っている。演技も突き詰めていくと、一つの面になっていく、なっていた。そうなってしまった。
「あんたも、私なんだ!!」
そこに、"仮"の面は無い。良い面も悪い面も、単にチャカであっただけだ。
チャカの一面であっただけなのだ。
そう、確かにこの"自分"は――チャカと"チャカ"は、別の人格だ。
だが、同じ人物の別の一面だ。
「あんたは私で、私はあんただ!!」
ここが現実になって、黄金郷じゃなくなって、理想郷じゃなくなったから。だから、帰る。帰ると決めた。でも、結局の所――チャカ一人で帰れば、ここに"心"を残してしまう。この、"チャカ"の心を、置き忘れてしまう。長い時間を費やして、そこに居た人達と創り上げた自分も、置き忘れてしまう。
「皆で帰るって決めたんだ、そうじゃなきゃ、嫌だ!」
『……帰れなくてもいいの?』
「私一人だけで、帰れっこない。帰る意味がない」
チャカは、自分一人でこの世界を生きてきた訳じゃない。取り巻く環境全てが、チャカを形作ってきたのだ。
自身だけがよければ、全てよし。そういう生き方は、チャカはしてこなかった。
『こんな機会、もう無いかもしれないよ?』
「……それでも、帰れない」
チャカは首を横に振る。この胸の痛みだけを抱えて、あちらに戻る事などチャカには出来ない。
『……ねぇ、わたしに譲ってよ、お願いだよ』
「それも、できない」
『なんでよ……こんなにお願いしてるのに……返してよ、元々はわたしのだよ?』
「違うよ……"わたし"と私の、二人のものだよ」
あの体は、"チャカ"だけのものじゃない。チャカのものでもある。
「独り占めなんてさせない。これは、"私達"の物語だよ」
『…………そっか』
影のように纏わり付いていたもう一人は、チャカとよく似た顔を、いつの間にか取り戻していた。何となくだが、チャカには感じ取れた。
此の世が彼の世と相似な様に、"英雄"の魂も、また、相似。本当によく似た、双子のような存在だ。
『……じゃあ、今は"私"に譲る。上手くやりなよ、"私"』
「うん」
『上手く行かなかったら承知しないから。絶対許さないから』
「……うん」
チャカの歯切れの悪い返答に、"チャカ"は苦笑を浮かべて。
『自信持ちなよ、私』
「そりゃ、そうは言うけどさ……」
自信なんて、チャカにはない。"チャカ"のような『自分なら絶対に出来る』という自信は、無い。
『それこそ、出来なきゃ"わたし"が出張るだけね』
ずぶずぶと沈む、魂。
堅く握っていた"窓枠"は、今は遥か遠く。チャカはシロクロで構成された混沌の泥濘に飲まれ始めていた。
チャカと"チャカ"は重なりあいながら、沈む。二人の人影は一つの影に。
『……それじゃあ、また、どこかで。会えるといいね』
「次あった時は――」
『上手く行った報告しか、聞かないからね!』
沈む。ずぶずぶと泥のような暗闇に飲み込まれる。
溶け合い、混ざり合い、眠りに似た心地よい暖かさがチャカの全身を覆った。
チャカが目を覚ました時には、一面の夕焼けが世界を覆っていた。
黄昏前の赤い空に、黄金の雲が浮かび、黒い鴉が追いかける。
ぱちくり、と瞬き一つと、大あくび。ぼやけた世界にピントがあった。
「夕方……?」
長く寝すぎた時のけだるさが、チャカの全身を覆っていた。
「お、おぉう、チャカが起きたぞー」
「起きたッスか」
「……やっぱり、帰れなかったのか」
重い頭を振りながら、チャカが目を覚ました時には、馬鹿な奴らが三人。鉄鍋を囲み、麦粥を食いながら、何ともいえない微妙な表情を浮かべる馬鹿が、三人。
「ま、まぁ、食え。飯できてっぞ」
湯気を上げる椀を、ナイトウが突き出しながら言った。暖かいどろりと粥に、ぐぅ、とチャカの胃が鳴った。もう何日も食事を取っていないかの様な空腹であった。
「もしかしたら、帰れたのかもって話をしてた所ッスよ」
「……残念だったな」
沈む太陽が真っ赤に燃える。黄金の時間は、瞬く間に過ぎ去る。
馬鹿達は皆、各人、どこかで踏ん切りをつけたような微笑を浮かべていた。
「な、なぁに。邪神を倒せば、きっと皆戻れるかも知れないべ、それをがんばりゃいい話だべ」
「そうッスね」
「どっちにしても、俺達が出来ることは少ないからな」
穏やかで、騒がしい夕餉の時間が過ぎてゆく。全員が全員、穏やかに笑っていた。
「あ……う」
「ん、どうしたべ? な、何か腹でも痛いのか?」
「うん……なんでもない」
なぜだか、チャカは涙が止まらなかった。