第三話 裏切りと怒り(3)
「こ、ここは、どこだ」
オジジが全力で飛んで、走って、もう二日。藪に飛び込み、流れる川に飛び込み、また森の中に入り、街道に出て、どこをどう移動したのか、最早オジジの記憶に無い。水も何も碌に飲む暇も無い。意識は朦朧としていた。太陽が黄色かった。心臓は太鼓のように、どくんどくん所か、どんどどんどんどどどん、破裂寸前であった。小便には血が混じる。舌は喉にへばりつく。それでもべルウッドは後ろから追いかけてくる。
追いかけてくるのは間違いが無い。こればかりはオジジの妄想ではない。現に、背後から、飛び掛ってくる影が、
「待ぁああああてえええええええええ!!」
「ひぎゃああああああああああ!!」
叫び声をあげながらオジジを追跡してくるのだ。引き剥がしたと思ったら、いつの間にか追いついてくる。自分が苦しいなら相手も苦しいはずだという、常識的な判断を、オジジは早々のうちに切り捨てなければならなかった。
何しろ相手はべルウッド。アイツならやりかねない。
"伝説"はこう伝える。メンテナンスからメンテナンスまで、一週間。ベルウッドは、ギルドでNMに張り付いて粘着した廃人グループの長だ、と。
伝説は大概誇張される。だが、逆に、真実を知るオジジは戦慄する。
寝ずに、という文言が抜かれている事に戦慄する。
ソロで、という文言が抜かれている事に戦慄する。
ギルドは関係が無い。たった一人で、四六時中、一週間、湧く時間がランダムなNMをずっと粘着する――その狂気が省略されている事に戦慄する!
兎にも角にも、何をやらかしてもベルウッドならオジジは驚かない。オジジの知る限り、最も強く、何事も可能にするきちがいだ。
「も、もう、俺っちが……悪かった、勘弁してくれぇ……」
叫んだつもりで、かすれた声。もつれる足に、街が見える。邪神領と呼ばれる辺境の、サイハテから最も近い街、エンペン。"十字"は既に見えぬ。変わりに見えるのは、白煙と、街の外に立ち並ぶ天幕の群れ。
人が居れば、もしかしたら――粛清も、やわいものになるやも知らぬ。混濁した意識の中、オジジは最後の力を振り絞り、叫んだ。
「たす、助けてくれぇー!」
人の気配がする。暗転する意識の中、オジジは背後に迫る気配を感じ――倒れた。
――ベルウッドは敗北したはずである。
敗北したからには死んだはずである。いや、むしろ死んでいないとおかしい。ベルウッドは記憶している。"邪神"の十二本の腕が縦横無尽に振り下ろされ、ベルウッドの体は十二×二のN乗の断片に裁断されたはずである。加えるなら、眼窩から飛び出した眼球が、己が最後を見届けたはずである。
(しかし、おかしい)
ベルウッドは、己が知識の中で、今がどういう状態なのかを探る。
死とは、このように明確な意識を持った状態なのであろうか。例えば、ギリシア神話では、眠りの神と死の神は双子である。眠りと死は密接に絡み合った、似た存在として描かれる。眠りは目覚めるが、死は目覚めない。ただ、どちらの状態も、明確に意識を持って動く事などは無い。
ならば、この様な覚醒した状態は死でもなく、眠りですらない。
(どういう事だ)
ベルウッドの体は動かない。視界も無い。声も出す事が出来ない。ただ、猛烈な怒りは覚えている。裏切りの代償は、支払ってもらわねばならない。
『目が醒めたようだね』
脳蓋と、耳朶に直接響く声。日本語では無い、謎の言語。苦々しい響き。
(何者だ)
ベルウッドが疑問を浮かべた瞬間、すぐさまに回答は寄こされた。
『僕は、ヤ・ヴィ。邪神だ』
思ったよりも、威厳が無い、憔悴した声。
『レッドシールド、ネクロン、ギンスズ、そして、ベルウッド……君達四人は、僕の子供を沢山殺したんだ。喜べよ』
自嘲するように、邪神は続ける。
『ギンスズ、君と戦って、白蛇は喉と左腕を潰された。ネクロン。君が<骨の剣>で叩き割った、地獄甲冑の隊長は、ヘルメットが真っ二つで、もう動かない。六本腕達なんて、散々だ。誰が三本腕を量産した、レッドシールド。君の盾で股の顔が潰されて死んだのも居る。僕の背中の織物を作った小蜘蛛達は、ベルウッド、君が足蹴にした蜘蛛だ。わざわざ逃げようとした子まで容赦なく、容赦なく、叩き潰した』
静かな怒り。震える声。嗚咽が混じる声。
(恨み言を言うのは筋違いだ。襲ってきたのは貴様らだ)
だけど。けれども。それでも。ベルウッドは、そこに在る"邪神"が、何度も口ごもり、言い直すのを聞く。
『ただ――僕も、これが逆恨みだという事も判っている。知っている。そんな事は百も承知だ。先に手を出したのは僕だ。だが、先に手を出さねば、僕らに勝ち目はない。僕はたった一人を相手に、殺された。そして、今度こそはと挑んだ戦いでは、君達四人の連携によって、僕の大切な子供達が死んだ。一割死んだ。なら、君達に組織的に反抗されては、僕らが狩り尽くされるのも時間の問題だ。ちくしょう。糞、何が神だ。君らの方が強いじゃないか。躊躇しないじゃないか。僕のやり口は甘かったのか』
(勝者が何を言う。大体、貴様が本当に邪神ならば、生き返せば良いではないか)
聞きながら、ベルウッドは思う。何故、"邪神"はこんなにも恨みがましく言うのか理解が出来ない。ベルウッドですら"蘇生"が行えるのだ。"英雄"が出来るのなら、"邪神"が出来てもおかしくないだろう。検証ぐらいはやっておけば良い。だいたい、喧嘩を吹っかけて来て、殴った拳が痛いとわめかれるのは正直――不愉快であった。お互いに掛札を掛けたなら、それで良いでは無いか。
『何度も試したさ……蘇らないんだ!! 奪われた命は、僕の手によっても蘇らない!!』
返せよ。返せよ、僕の大切なものを返せよ。八木は嘆く。千路に乱れる思考に、ベルウッドは耳を押さえた。
『だから、僕は蘇る君達に対して、呪いの一つも掛けなきゃ気がすまない』
八木は自分でも、女々しいと思う。誰に聞いても、理不尽だと思う。だが、そんな事は判りきっている。判りきっていて、納得が出来ないだけだ。感情が許さないだけだ。何度でも殺したい。殺せない。意味が無い。ならば、八木の感情を理解して貰うだけだ。
判らぬベルウッドに、判ってもらえるように、八木は呪う。
『君達は今日から、僕とおなじものになる。ヒトが操り、ヒトの手で動く、魔物になる。君達の肉体に記されたフラグを一つ、反転させる』
がちり、と歯車が反転。"英雄"の心臓に記されたしるしが、一つ裏返る。
『――僕の仲間に、なってもらう』
急激に開ける視界。ベルウッドはばらばらに吹き飛んだはずの己が肉体が、すっかりと気持ちよく整理されていることに気がついた。
サイハテであった。ベルウッドが散ったはずの路端であった。血塗れた道端は既に渇き、赤黒いものと、青黒いものと、よく判らない肉片のカスがこびりついていた。
祭壇らしきものと、その前に佇む偉大なる神《GOD》。いや、ベルウッドに神は居ない。居ないはずだが、偉大な存在である事は理解させられる。
崇めねば。
『違う』
――ナニがチガウ?
ナニもチガワナイヨ?――
口から出る言葉が、今まで発していたものと異なることに気がつく。美味しそうな、甘い香りを放つ、バレーボール大の愛らしい蜘蛛達が、ベルウッドの背中に上る。くすぐったい。
『……違う、違う』
『ぶれい だぞ しんいり?』
遠巻きに眺めていた六本腕達が、嗜めるようにベルウッドに向かって、おそるおそる声をかける。
『しんいりつよい から えらい。おまえがぶれい』
『みこ様 と どっちがえらい?』
『……わからない』
周りでざわめく、六本腕達。いかつい声、素朴な口調で話す、ベルウッドの愉快な仲間である。そう、ベルウッドの仲間は、共鳴痛で、ギルドで、英雄で、敵で、排除しなければならなくて。
『違う、違う、違う……』
横を見ると、褐色のギンスズがごろごろと蜘蛛達と戯れ、齧りついていた。ベルウッドが起きたのをみて、口の端から蜘蛛の足をたらしながら、ころころと駆け寄ってきた。真っ青な赤盾は地獄甲冑となにやら議論をしていた。伝線の二重化をして、冗長化構成をするべきだ、いや、今まで通りでもいける、新入りは黙ってろ、誰が新入りだ、等々。
そして、ベルウッドの目の前に鎮座しますは、我らが偉大なる神、ヤ・ヴィ。
『これ……は……、暴れたりしない……ですか』
『彼は、君の喉と腕を潰した奴よりも二段強い、非常に危険な存在だった。だけど、もう、新しい仲間だよ、白蛇。僕らに危害を与える事は、絶対にできない』
上半身と蛇の下半身を持つ、大きな蛇巫女は、神に巻きつき、おびえたように此方をみる。
ベルウッドは己の手を見る。紫色であった。金色に輝く己の装備も、深い紫色に彩られ、ほの暗い闇を放っていた。
『違う!!』
『何にも、違わねーよ。ベルウッド』
ぽん、とベルウッドの肩を叩く、漆黒の人影。"白骨王"の名をほしいままにした、白い"死霊使い"は、漆黒をまとう。その肌も真っ黒。
『意外と、なってみると悪くないぜ、これもよ』
お調子者のネクロンが、真っ黒な顔に、にぃっと笑みを浮かべた。
(そうだ、自分の、自分の戦棍は――)
+15の唯一神器。"打ち砕くもの"。ベルウッドがベルウッドである象徴が、無い。折れた。邪神、いや、不遜にも神と一騎打ちをした際に真っ二つになった、そんな記憶がおぼろげにある。
(だが、無ければ、自分は何者だ?)
ベルウッドは目の前が真っ暗になった。己の人生を掛けた逸品は失われたのか。じゃあ、己の人生とはなんだったのか?
『探し物はコレかい、ベルウッド』
神が何かを投げた。ぐるぐると空を舞い、ベルウッドの前に落ちたそれは、轟音を上げ、地面をえぐり突き刺さる。
『受け取るといい。これが必要なら、存分に使うといい』
ベルウッドが、よく見慣れた武器であった。恐る恐る手に持つと、自分専用にあつらえたかのように、馴染む戦棍であった。以前より、より力強く、より強靭に、より強化された――+16"打ち砕くもの"。唯一神器を超えた、人外|の超越神器。ベルウッドの漆黒の瞳が丸く見開かれた。
『かっての"英雄"の頂点、元、共鳴痛のギルドマスター、ベルウッド。神の国へようこそ』
大きな手。六対十二本の巨大な手が、ベルウッドに伸ばされた。
『だが、自分は――』
ベルウッドは"英雄"だ。人間だ。だが、何故こんなに奴らがいとおしいのだ。何故こんなに人間外の彼らに、友情を感じられるのだ。
単なるMOB、"経験値"の供給源に、どうして此処まで親近感を抱けるのだ。そう、虐殺しても屁とも思わない奴らを、殺した事に対して、どうして此処まで罪悪感を感じるのだ。
『君は、生まれ変わった。"英雄"ではない、新たな種族――月並みな言い方だが"魔人"とでも言うべき存在に、僕が変えた』
奇跡がまた一つ起きたことに、まず、腕が欠けた三本腕が歓喜に手を上げた。体が半分になった蜘蛛達がキュイキュイと鳴いた。凹んだ装甲の甲冑が、手を打ち鳴らした。鱗が剥げた、地面を泳ぐ蛇が、首だけ出して鳴いた。ヤ・ヴィの首に巻きついた白蛇の巫女は、熱っぽく己が神を見る。
『僕、ヤ・ヴィは、君を、新たな仲間達を歓迎する』
その言葉を皮切りに、わぁっ、と一斉に、奈落蜘蛛が、六本腕が、地獄甲冑が、空を飛ぶ化鳥が、巨大な瞳が、諸々の化け物達が、騒ぎ出す。
歓迎の宴が始まり、月を背負って、踊り、歌い、狂う化け物達。
一歩一歩、彼らの環に踏み出すベルウッド。ギンスズに手を引かれ、ネクロンが肩を組み、赤盾と笑いながら、――この日、新たな種族のオサが生まれた。
深夜。月が照らす、人の全て絶えたサイハテで、邪神を讃える、人外どもの宴は騒々しく続く。緒戦の犠牲は大きかったが、偉大な、新たな一歩が、"邪神"の王国に刻まれる事であろう、と、大概の化け物達は思ったに違いない。そう、これは栄闇の一歩なのだ。新たに加わった『魔人』は、数は少ないが恐ろしい手練の猛者揃い。
流石は邪神様だ、と、神を讃える歌を皆が歌う。ベルウッドも、ギンスズも、ネクロンも、赤盾も、釣られて歌い始めた。
そんなベルウッドを、虫の様な目でヤ・ヴィは見ていた。
仲間を、友を、存分に虐殺した事を、する事を、これから苦しむがいいさ――ヤ・ヴィの思考は、静かに漏れた。