第一話 裏切りと怒り(1)
ベルウッドは虫の息であった。
黄金の輝きを放つ髪はどろどろに血塗れていた。着込んだ鎧も返り血で輝きが曇っていた。それどころか、全身についた無数の引っかき傷と胸に大きく開いた穴から、だくだくと喪われる己の血で、黄金は朱色へと染まっていた。吐息は荒い。吸っても吸っても胸にあいた穴から、ひゅうひゅうと漏れ出る息。それどころか、吸った時に血泡が口端からあふれ出る。血に溺れるとはこういう事かと、咳き込み思う。
どんな怪我も指一本振るだけで癒す力は既に枯れ果て、階段を下りるように沈み逝く意識。膝立ちのベルウッドは、戦棍を支えに、立ち上がろうとした。ドミノ倒しで崩れていく意識に、無理やり歯止めをかける。
サイハテの街の街路は、化け物達の体液でべっとりと濡れ、生温い異臭を放つ。
周囲を埋め尽くす、無数の蜘蛛の、六本腕の、甲冑の、翼を持つ獣の、鬼の、蛇の、訳のわからない者達の夥しい死骸。全てベルウッドが殺った。戦棍で丸盾で、時には足で蹴り踏みにじって、群れ寄る輩を奇跡の力で吹き飛ばし――殺した。
この場に居る人間は、今や彼だけである。赤盾は蜘蛛にたかられて死んだ。ネクロンは死竜の召喚の隙を付かれて、六本腕数匹に叩き潰されて死んだ。ギンスズは白蛇と大立ち回りを繰り広げて、ばらばらになって死んだ。死んだ仲間の体は魔物の群れに呑まれて、回収も出来ない。
数を数える事が馬鹿馬鹿しいほどの化け物達が取り囲むこのサイハテの街で、ベルウッド達が殺した数など――どう少なく見積もっても、千は下らないが。それでも、屁のようなものだ。今のベルウッドに、巨大な邪神と、無数の眷属を前にして、逃れる術など無い。
"十字"が喪われていないのであれば、話はまた別であった。しかし、"十字"は喪われた。全て油断が招いたことだと、朦朧とする意識の中でベルウッドは聞いた。
周囲の化け物達の声が聞こえた。言葉が通じなくても、伝えたい意思ははっきりとしている。
怒りだ。同胞を無残に虐殺した男への怒りだ。
同じだ。ベルウッドも怒りで動いていた。
ベルウッドの大穴の開いた胸中に、なお渦巻くどろどろとしたやり場の無い感情は、化け物達が発する物と同じ怒りだ。同胞に裏切られた怒りだ。
「まさか、アレに裏切られるとは思わなかった」
ベルウッドは震える手で血泡を拭う。掠れた怨嗟の声が、不思議と響いた。
対峙する、巨大な影は、ベルウッドを見下ろしながら、六対十二本の腕を振り上げ、落とした。
怒りに塗りつぶされたベルウッドの精神は恐れは感じない。ただ走馬灯の様に数時間前の事を思い出していた。
サイハテの街に、灯りがぽつぽつと灯る。
八十六名の"英雄"達が、サイハテの地から去って一ヶ月が経った。そして、また会う日と定めた日にサイハテに集まったのは、十六名。
「おう、ベル、集合したのは十五人だぞい」
「意外と多いな」
"会議"の参加面子は"レゾナンスペイン"、"ネクロマンサーズ"、そして"じゃんぬ†だるく"の三大ギルドと、後はソロでの活動をしていた者達。合わせて十五名。
出席面子を見て、ベルウッドは更に意外に感じた。
十日前の"クロスクラッシュ"で、都市間の移動には大きく制限がかけられ、帝国方面への交通の手段はほとんど無い。そんな中、フェネク帝国を根城にする"じゃんぬ†だるく"の面子が一番出席をしていたのは意外である。ギルマス不在というだけに、少しでも話を聞いておきたいという事らしい。
「そういやベル、メシの時間はまだかいの?」
オジジがおどけたように言う。最近のオジジは、老人どもの相手をしているせいか、言い出す事まで爺むさい。その程度の遊びはあっても良い、とベルウッドは笑いながら思う。
「時間も時間だ、食べながら話しても良いだろう」
「じゃあ俺っち、ちょいと呼んで来るわ」
議場をぷらぷらと手を振りながら後にするオジジを見送りながら、ベルウッドは第二回目の会場の扉をあける。全員の視線が自身に一斉に注がれるのを見て、やはり、注目を浴びる事は気分が良い、とベルウッドは思う。
「それじゃあ、始めようか、会議を」
ざわめく議場は、ベルウッドが想定していたよりも一オクターブ高い音が響く。女性陣が多いな、とベルウッドは議場を眺めて思う。
「議題は、そうだな。我々の"なすべき事"の優先順位の変更に関して、だ」
議場は、水を打ったように静まり返った。
「現状、"レゾナンスペイン"では、王国内部に食い込み、様々な文献、伝承、口伝に触れ、調査を行ったが、戻る手段はさっぱりと見つかっていない。そして自分は、諸兄らに問いたい、画期的な発見があったものは居るか?」
ベルウッドは全員の反応を待った。誰も、何も口にしない。
「一ヶ月間、我々が捜し求めて、特に収穫が無かった訳だ。ある意味当然かもしれん。大体、異界から此の世に着た、などという与太話、いい年をこいたものなら信用など出来る訳がない」
確かに、ベルウッドもこちらに来た当初なら、まだ帰還などという与太事を捜し求めたやもしれない。しかし、既に一ヶ月だ。こちらで生活するうちに、慣れてしまったのである。"英雄"という立場に。
「そして今、知りうる中で世界に変化があるとするならば、"十字"の機能が制限されている事ぐらいだ。確かに我々の貯蓄が脅かされているという点においては重大な事件である。しかし、だ。この事件は、帰還するという事にはあまり関係が無いように思える」
同時にベルウッドは、帰還することに対しての興味が、すっかりと失せてしまっていた。
例えばどれだけ好きなゲームでも、一ヶ月ほど放置した後、再度やりこむだろうか。ベルウッドにとって現実とは、その程度の代物であった。
「……このまま、無為な探索に時間を使うべきであろうか? いや、それこそ、時間の無駄である。今や戻る手段の探索に関しての優先順位は、限りなく低い。それぐらいならば、"十字"の不調の原因を探る方がよほど有意義ではなかろうか?」
確かに、という声が一部から上がる。使えたものが使えなくなる事は不便だ。
「しかし、不調とは言え、使えない訳ではない。原因究明を行うならば、多くの時間を浪費する。よって、今すべき事の順位としては低いであろう」
聴衆からは不満げな声が漏れた。生活する為の金がスムーズに取り出せないのは、困る。
「我々が今ここで話し合うべき事は、どうすれば我々が今ここで、より豊かに暮らせるか。つまりは、この世界で、どういう仕事をなすべきかだ……」
朗々とした声で、ベルウッドは自分の考えを述べる。巧妙に、戻る手段を探索する事よりも、この世界で豊かな生活を送った方が良いのではないかと言う論調へ、どうしたら豊かな生活が送れるかへの具体的な方法論へ。そして、自分達の傘下に下れば、それらの方法よりも、より容易に、より豊かになれるという提案へ。
聴衆の半数は、熱心にベルウッドの話を聞き始めた。
サイハテ領主アイロン=モルゲンは、"英雄"達の要請を忘れずに、館の部屋を確保しておいた自分を褒めてやりたいと思う。何しろ、アイロンにとって彼らはまさしく天上の存在だ。不興があれば下手な王族の怒りを買うよりも、よっぽど不味い。
「おい、料理の準備は整っているのか!」
貴族だろうが、下民だろうが、"英雄"だろうが魔物だろうが、腹が空いているモノは苛立つ。アイロンの人生経験はそう語る。少なくとも、飢えているより、満たされている者の方が怒りは覚えないものだ。拠って、中年の小男は、館の炊事場にまで来て怒鳴り声を上げる。
「はぁ、お館さま、本日のお客様がそんなに大事な物なので?」
雇われ料理人には、主人の焦りは理解できない。大概、日々彼にとっては理不尽な事(料理の味が濃いだの薄いだの)で、怒鳴りつける領主にはうんざりだが、今日は特に酷い。怒鳴れば怒鳴るだけ、準備の手が止まるというのに。
「大事も大事だッ!」
なんだかんだで、小男の声は鋭い。命令をすることに慣れた者の気配が周囲を威圧する。
「あの」
「うるさい、今取り込んでいるのが判らんのか!」
「そのー……」
「うるさいと言っている!」
アイロンは、背後から聞こえる声に舌打ちをしながら振り向く。この館の主人が、忙しいと言っている時に続けて話す使用人は居ない。
「ごめんなさい!」
アイロンの視界に入ったのは、泣きぼくろが印象的な女であった。全身ぴったりとした皮鎧に身をつつんだその女は、猛烈な勢いで頭を下げた。アイロンの鼻っぱしらと、硬い頭蓋がぶつかる、鈍い音。たまらず転がるアイロンと、ぶつけた頭を抑えながら痛そうに抑える女。
「あのー、そろそろ料理の方、お願いします……」
そんな状況で、女は言った。随分と痛そうであった。
「料理の方は、既に出来てやす。後は盛り付けが少々、と」
出来の悪いコメディに苦笑しながら、料理人がちらりと自信作に目をやる。鳥に、魚に、豚に牛。巨大苺をくり貫いた中に盛り込んだ自信作。どうだい、と得意げに女を見ようとした彼の背中に、いつの間にか冷たい刃が差し込まれていた。
声すら上げる事が出来ずに、混濁する意識の中、首に刃を差し込まれ血を吹く領主が見えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
泣きながら謝る女が居た。
「でも、アタシは必ず帰らなきゃいけないの、だから」
泣きぼくろが印象的な女であった。そこで料理人の意識は途切れた。
「俺っち、別に善人ぶるつもりは無いけどよ。何も殺る事は無かったんじゃないかい」
「そんな事無い。アタシは殺ったから、戻る手段が見つかったの、だから」
酷い光景であった。厨房は派手に飛び散った真っ赤な液体で汚れていた。"絶望の迷宮"で死んだはずの暗殺者の女が佇んで居るのを見て、オジジの深い皺が、更に深くなった。
「そんな事言ってもよ、俺っち思うんだ。あんまり迷惑かけるのも、寝覚めが悪いかなぁって」
「だって、そうしないと!!」
「ああ、声がでかいよ。シルキーさん」
オジジは人差し指を口元に持っていき、しぃ、と擬音を発した。メンヘラの相手はしんどいが、今回ばかりは身内を頼るわけには行かないのだ。
オジジの身内で――反響痛の中で、積極的に『戻ろう』と思う者は殆ど居ない様に思える。
大体身内は皆、生き生きと暮らしている。
比べてオジジはどうだ。
"英雄"になった後、関節痛が酷い。動く事がしんどい。息が切れる。夜尿も漏れる。もしかしたら、呆けも始まっているかもしれない。本来の高校生活が、一気に老後になってしまった。今はまだ、それでも"英雄"の立場を楽しめるかもしれない。だが、十年、二十年後、オジジは此の世で生き続けることが出来るだろうか。いや、出来そうに無い。
何故、自分だけがこんなに恵まれていないのか。
何故、他の奴らは幸せそうな日々を送っているのか。
何故、自分だけが日々近寄る死の恐怖に脅えなければならないのか。
――此の世が、悪い。
だから、オジジは乗った。死んだはずのシルキーの言葉に、"十字"を全部ぶっ壊せば戻れる可能性があるという言葉に全力で乗った。
「で、準備は整っているのかい。俺っち、最近物覚えが悪くてさ」
昔は良かった。すっかり年を取ったオジジは、どうしても過去の事を思い出す。キーボードとマウスで自分を操っていた時の感覚を。だから、今に上手く適応できない。
「出来てる、出来てるよ。全部出来てる。私のやる事は間違って無いから。皆死んだのも間違ってなかったから。でも、私が間違ってる? 間違ってるのかな。やっぱり……」
「ああ、いいや。俺っち、大体思い出した」
確かに泣きぼくろが綺麗なお姉さんだ、とオジジは思う。でも、コレは良くない。非常に良くない。色々と歯車が狂ってしまっている。
横着をして彼女に説明させなくとも、単純な話だった。
<眠りの粉>を食事に混ぜて、ベルウッド達、主要メンバーを眠らせる。その後、サイハテの"十字"を破壊する。ここまで来て他のプレイヤーと関わりを持とうとするガチ勢を物理的に分断してしまえば、後は計画に賛同する人たちで十分"十字"は破壊できるという話だ。"戦争"を使った大掛かりな計画も実行している様だが、こういう策略は何個あっても困らない。
「大体ここからでも聞こえるでしょ、聞こえるでしょう? あの男、ぜんぜん戻る気が無いんだ。私に罪を着せて、死んだままここに放置して、それで良いと思ってたの? 許せない許せない許せな…………許して、許して欲しい。欲しいの、あああああああ……」
「……まぁ、俺っちも悪いとは思ってたけれど、なぁ」
確かに、オジジも気にかかってはいた。結果論だが、あの場で"復活"させておけばここまで悩んだり、こじれたりする事もなかったろう。
「とりあえずシルキーさん、早く料理を運んで、やる事をやっちゃおう。俺っち、最近夜も早くて辛いんだ」
手にした没薬をざらざらと振りかける。裏切りだ、という良心の咎めにオジジの手は小刻みに震える。だが、これを裏切りと言うならば。現実に戻るという、ベルウッドの言葉を信じたオジジも当の昔に裏切られている。
ベルウッドは料理と酒を嗜みながら、本日の"会議"のある程度の成功に満足を隠し切れない。内心はどうあれ、大手同士は表向きの協力体制は継続する事が決まっていた。加えるなら、何処にも所属していないソロや、弱小ギルドの面子は大概、この世界に上手く馴染めていない様であった。そこで、共鳴痛の傘下に加われば、相応の社会的地位や、日々の仕事の確保に協力する、という流れの話に自然と持っていけたのは僥倖である。会食の時間を一旦取ったベルウッドは、一人満足げに頷く。
「マスター?」
「いや。グっさんには幾ら感謝してもしたりないと思ってな」
ベルウッドは経済がわからない。しかし、足らない部分を良い感じに埋めてくれる腹心の存在は、非常に心強いものがあった。この手の拡大事業に関しての一案を聞いた時にはなるほど、と思ったものだ。
「少なくとも、手足となって使える者が増えることは、悪い事ではない。自分達の将来の敵が減ることも間違いが無い。まだ、我々の資金に余裕があるうちに、効率的に金を集める手段を整える。その一環として……」
「つまり、マスター凄い!! って話ですね」
ギンスズの子犬のような、きらきらとした視線を受けながら、ベルウッドは調子に乗っていた。今日一番の収穫はこの視線と言っても良い。詰まるところ、ベルウッドもまた男で、いい所を見せたいと言う欲望には逆らえない。
良い酒だ、と杯を傾けながらベルウッドはほろ酔い加減を味わっていた。バルコニーから眺める空は、昼間の霧雨は止み、うって変わった満天の星空。
「……あれ、マスター、あれ何でしょう?」
ギンスズは空を指差した。
「ああ、綺麗な星……だ?」
不意に襲いかかる猛烈な睡魔。横のギンスズが電源が切れたように倒れる様を、ベルウッドは見た。彼女が指差す先に見えるのは、空に舞う人影。
「ろぅいうこと……ら?」
かすむ目を擦りながら、ベルウッドが見たものは、<飛行>をしながら十字へと向かうオジジの姿。朦朧とした頭を振りながら、室内へと戻る。ネクロンが豪快ないびきを立てて寝ていた。赤盾は椅子に座り込んで寝ていた。名前を思い出せない野良が三人、杯をだらしなく地面に転がして、ぐうぐうと安楽に眠りこける。何故か殆どが、野郎達だけである。
何故だ? という疑問を抱きながらベルウッドは意識を手放した。
ふらふらと空を飛ぶオジジの視界には、常に巨大な十字が入っていた。首都に居る時も、こちらに居る時も、空を飛ぶ時には必ず"十字"が目に入る。非常に疎ましいと思う。
オジジは別段、十字架に何かを感じる訳ではない。クリスチャンと言う訳でもないし、仏教徒と言う訳でもない。無宗教、と言うやつだ。だが、毎度毎度、空を飛ぶたびに『なんでぇ、偉そうに』と訳もなくイライラとした気分にさせられる。何故かは判らない。
「まぁ、俺っち、エラソーにしてるのを見ると、ついやっちゃいたくなるんだ……よな」
もう既に"十字"は、協力者達の手によって半壊させられている。彼女ら……いや、彼らは"十字"を削るだけ削って、その後にまた別の都市へと飛んだ。今日だけで、ここ近辺の十字は全部へし折るらしい。
このサイハテの十字への、最後の一手、それがオジジに任された仕事だ。
「噴ッ!」
下腹、おおよそ丹田と呼ばれる箇所に力を入れ、廻す。左手は手刀に、右手は奇跡を導く杖を握り、目標とする"十字"に向ける。オジジの"スキル"の発動は、このように成される。ベルウッドやギンスズなどは、単に何かを押し込む感覚だけでこれを成す、という事を聞いたときには、嫉妬すらオジジは感じた。
存分に集まった魔力を杖に移し、オジジは手持ちの最強の単体撃滅"スキル"を選択、脳裏に描くのは、<凍結の脈動>。急激に乱降下する周辺大気。物理現象を上書きする奇跡が、十字本体を直撃する。
「喝ッ!」
破断音が連続して響く。極低温と常温の狭間で周辺の大気に含まれた水分が、十字に霜となってべったりとへばりつく。秒間数千回に及ぶ急激な熱変化サイクルに襲われた"十字"は、いともあっさりと本来の強度を失い、自重を支えきれずに崩壊。
蒸し暑いサイハテの夜、重い十字が崩れ落ち、霜が舞い散った。