第十三話 戦の終わり (1)
創世暦1226年 二の月、九の日、深夜。千年樹海、外周部。晴れ。
その日八木の体は、重かった。
『……これは、肩こりか?』
八木の発した思考は、朝の祈りを乱した。今まで一糸乱れぬ統制を発揮していた化け物達が、拝む手をひと時休めて、ざわつき始める。
護摩の炎がパチリと揺れる。
――カミサマ、肩痛いって。ずっと首にミコサマがくっついてるもんね!
ミコサマ、ずっとくっついてるもんね、ズルイよね――
「ずっと、みこさま くっついてる。つかれる しかたない」
「一度〆られた時には、鎧が歪んだからなぁ……おお、こわやこわや」
ちきり、ちきりり、きちちりり。
体をざわめかせ、わななかせ、言葉を発する機関があるものは言葉に出し、ないものは意を体で表す。彼らの日常である。八木の日常である。
『……ッ申し訳ございません!』
『ああいや、降りなくていい。謳ってくれ。何も問題はないから』
首に巻きつく白蛇を、あやす様に撫でながら、邪神たるものが何を馬鹿なことを、と八木は思う。しかし、現実に八木の肩は重い。
日が昇ったら眠り、日が沈んだら起きる。規則正しい生活を送っている八木の体調は、基本的にはすこぶる良い。全くといって問題がない。頭痛の原因が、職業病的な眼精疲労によるものから、念仏をBGM代わりに毎日聞かされる事に変わった程度である。
しかし、今日は肩が重い。
具体的に言うならば、体重が二倍になったような、特に腕が重いような感覚である。
背負ったものの重さで、ついに体の方にまで変調を来たしたのか、と軽く表層意識に世迷い事を放り込む。そんな馬鹿な。
八木は、首を振りながら、自らの使命を思う。
いつの間にか、祈りの時間は終わっていた。
『この世を制圧しなければならない』
これは、八木の"勝利条件"である。しかし、正直、この世の制圧というものの途方のなさに呆れ返る。どこまで行けば良いのか。
『――どうすれば成功するのだろうか?』
ふと、八木が漏らした思考に、全ての魔物達が思考を始める。
我らがニンゲンどもを全て駆逐すれば、解決する事ではないか?
――ニンゲンは、非常に危険である。対策が必要である。
数を頼みに掛かれば、我らのほうが有利ではないか?
――生息数が不明である。常なら五個体前後で、"神殿"表層部まで到達する奴らである。我々が単純に束になったところで、勝ち目があるとは思えない。況や、百名が束になった昨今最大の侵略は、神の顕現で怖気づいた奴らが引き返さなければ、我らが絶滅する所であった。
怖気づいたか。冷静な思考を返せ。解決法を返せ。
――思考。
解決法は?
――切断。
「おで、にんげん こわい。おやじ くわれた」
「さいきんの にんげん は やばんだ」
もぐもぐと、奈落蜘蛛をほおばりながら六本腕達も会話する。紫の体液を啜りながら、げふぅ、とだらしなくげっぷ。ぱちぱちと燃える焚き火。一休みと一仕事が終われば、次の土地へ移動だ、と、軽く体操を始める六本腕達。畑となる遺骸の採集を森で行い、適当な大型動物の遺骸を見繕い、菌を撒くのだ。その過程で、千年樹海は、淡々と異界へと変わって行くが、彼らの歩みは遅々として進まない。
――接続。
湖底都市との接続開始。構築せよ。
――伝話構築。応答。
"都市"はどうなっている?
――現状に問題無し。快適である。
"神殿"との連絡は?
――伝話構築中。繋ぐ。
"神殿"はどうなっている?
――しんでん、じゅんちょうに、くも、ぞうか。
明瞭な思考を返せ。
――ちせい種の発現数、げんしょう。もんだい。ろうみコサマの、たくせん、減少。
大丈夫なのか?
――是。もんだいは、おおきいが、ねっとわーくは維持かのう。
…………。
――おうとう、せよ。
切断。
シャリ。と、林檎を齧るような音。ひくひくと蠢く八本の足。垂れ下がる糸。白蛇の唇から毀れた紫の体液は、喉元を通り豊かな胸元へと流れ落ちた。
「我が神よ、我らの力では、ニンゲンに抗し得ないと仰いますか?」
『いや、そういうことじゃない。君達は強い。僕がそう創ったんだから、間違いなく強い。ニンゲン相手に、敗北などはありえない』
モンスター《MOB》は確かに強い。一般的な人《NPC》と比較するならば、雲泥の差だ。
例えば、絶望の迷宮の個体としては最下層の奈落蜘蛛でも、凡百の人間相手になら、無双の如くの振る舞いができることだろう。
これだけの数が存在すれば、恐らく間違いなく、どんな人間を相手にしても負ける事はないはずだ。
――だが、彼らは倒される為に調整されている。八木も、最終的に"英雄"に倒される調整をされている。弱点も多い。
なぜなら、そういう風に八木が創ったのだからだ。
目下の問題は"英雄"だ。
最初に、百人の英雄に八木は倒された。
次に、たった一人の"英雄"に、八木は倒された。
次の次があるかどうか、八木にも判らない。この体を倒されたら、次があるのだろうか。
「では、何を恐れる必要があるのでしょうか、神よ」
『"英雄"だ。僕と同種の力を振るう、化け物達だ』
「ニンゲンと"英雄"とは、そんなに違うものなのでしょうか」
『奴らは、違う。ニンゲンとは、異なるモノだ』
間違いなく、厄介な奴らが揃っている。八木の作った箱庭に蠢く、異物だ。
単なる異物なら許容しても構わないだろう。
だが――
『……何かが、システムを超えた――か?』
微細な波が、八木の思考を割った気がした。同時に体に掛かる肩こりが消えた。
震源は、遠く、遠く――
――真紅の光だ。
光に支配された、真昼のようなバイカで、更に光が走った。大多数の人間は、そうとしか見えなかった。
鷹の目を持っていた者は、消え逝く意識の中、不死鳥を見た。
赤く燃え盛る不死鳥を見た。
不死鳥は、鉛色の肌の蟹を貫き――
「金髪ッ!」
「サムライ!」
焼け爛れた半身を晒しながら、二人の"英雄"が立ち上がり、駆け出す。
鉛色の泥水を跳ね上げながら、ぶるぶると九本の腕を痙攣させる"蟹"は性懲りもなく、再び天に拳を振り上げようとする。
土手ッ腹に大穴をあけた"蟹"の鉄の外皮が捲れ上がり、鉛の心臓を剥き出しにした。脈打つ心臓は、光に照らされて鈍い輝きを放つ。
狙う箇所など、もう、言う必要もない。
二人の"英雄"、金髪は正面から、隻眼は背面から。
"蟹"の懐に潜り込み、金の内臓掻き分けて、鉛の心臓を二本の剣が交差し、貫いた。
震える"蟹"の体が、動きを止めた。
握り締められた"蟹"の拳が、解ける。重力に引かれた、金属がこすれる不協和音をあげながら、徐々に崩れる。
瘴気がはれてゆく。勝った、と誰かが呟いた。
"蟹"の体が、溶ける。鉛が、鉄が、水銀が、金が、得体の知れない何かに腐食される。原型を持った箇所がぶつかり合う度に、ざらざらと錆が粉末となり、徐々に、徐々に崩れ落ちる。
虫の息の騎士が、万歳と呟いた。
地から吹き出した、真昼の光を放つたいまつは衰え、緩やかな暖色となり、風に吹かれる金属粉末を金色にきらきらと照らす。
半身が焼け焦げもはや助かる見込みのない、魔術師の青年が、やった、と呟いた。
砂に染み込む水の様に、密やかに広がる熱狂。邪悪は倒れた、倒された。最早、おぞましい化け物は排除されたのだ。人の勝利だ。やった、やった、やった、やった、やった、やったぞ!
命を永らえたものは、ごくごく僅か。それも"蟹"の残した<水銀の毒>で、間も無く逝く事であろう。"蟹"に立ち向かった英雄達は、最後の力を振り絞り、見た。
"邪神"を倒した、真の"英雄"はどのような男であったのか?
――そして、絶望した。
黄金の風に吹かれながら、剣をお互いの首筋に突きつけあう二人の男。
「アンタの所の大将に、伝えろよ。軍を引けってな」
「まさか、お断りだ。此処で引けば俺達の目的は達成出来ん」
己の命を託して、人の共通の敵を倒した"英雄"達が、人同士の争いをやめていない事に、絶望した。
そうか、俺達は、戦っていたんだなぁと、バイカの弓手が泣いた。目から、鼻から、口から血の泡を吹いて、死んだ。
もういいじゃないか、と帝国兵が思った。脳に毒が回って、糞を垂れ流しながら死んだ。
「お前も戻りたいなら、こちら側に来い。こんなデストラップが仕掛けられているなら、尚更だ。お前も、一度見て判っただろう」
「畜生が、糞が、何度同じ問答を繰り返させやがる!」
「何度でも言おう。それともお前は、まだ此の世に魅入られているのか。確かにこちらの方が強く、賢く、得がたいものが得られる。闘争も又、此方のほうが楽しいな。なんでも思い通りに行く、楽園だ。此処は確かに、俺にとっても楽園だ。お前にとっても楽園かも知れん」
地獄であった。辺りにいた者は、皆、力尽きた。
死屍累々の、倒壊した街並み。
まさしく荒れ野。ここは、確かに地獄であった。
「理解できねぇ……」
タイタンにとっては、地獄である。目前にいるこの男の言う事が、何一つ理解できなかった。冷たい鋼を喉下に突きつけあったまま、お互いに一歩も動けない。全身が、先ほど食らった水銀の毒で、軋む。
「あの世をぶっ壊すまで、俺は諦めるわけには行かない。こんなおままごとみたいな世界に居続ける訳にはいかん。ここに居ると、俺の心が憎しみを失っちまう」
ムショの一つ目が、タイタンの二つ目を睨んだ。憤怒の視線が、タイタンを貫く。
「何が"英雄"だ。何が"神"だ。所詮遊戯だ。俺は、殺らなきゃならん」
ムショは、タイタンを貫き、遥かに遠い空を睨み付けていた。
「タイタン、お前がお前の意思を通したければ、今ここで、俺の首を貫けばいい。その程度の意地で、俺の前に立つな。俺の邪魔をするな――――それ位なら、黙って俺について来い」
「……ッ」
突きつけられた鋭い鉄を、意にも介さず、ムショは一歩踏み出す。
焼け焦げた半身、喉下に食い込む鉄、全身を苛む<水銀の毒>、タイタンの手が揺れる。
条件は、同じ。ムショの剣は揺らがない。
「――答えを、出せ」
二人だけが支配する、地獄が、今。
遠方より飛来した、一本の錫杖によって、断ち割られた。
ガアン、と二人の剣を弾き飛ばしたのは、一本の錫杖であった。赤く、炎が燃えていた。
「そ、そこまでだ」
「手前……」
その男は赤く燃えていた。体中に焔を纏っていた。
小脇に、白金の髪の少女を抱きかかえ、ゆっくりと降りて来る様は、異様であった。大空から舞い降りる、灼熱の魔人であった。
さながら、焔の神性を持つプロメテウスか、悪性を持つイーフリートか。
タイタンが目を擦ると、ナイトウだった。見る限り、ナイトウであった。
「ナイトウ……その、炎は何だ?」
「そ、そんなこたぁ、どーでもいい。大丈夫か、タイタン」
「あんまり大丈夫じゃねぇ……」
燃える身体を一顧だにせず、ナイトウは周囲を見回す。顔を顰めた。おおよそ、どのような事が起きたのか、何故起きたのか。
"十字"が封じていた物は何か――ナイトウは、直感的に理解した。
「じゅ、"十字"を折ったのは、オマエか」
「俺でもあるし、そいつでもある。そして、最終的には俺ら側の目的通りでもある」
ナイトウにも理解が出来る。何故折ったのか、痛いほど判る。
ああ、こいつも――
「お、オマエも帰りたいのか」
「当然だ」
一言で済む。縛られた己を見て、此の世を見て、彼の世を見た。
それで望むのは、ナイトウでも、理解が出来る。帰れるなら、あの世界に戻りたいと思う。
だが。
「折ったらどうなるか、わ、判っていてやったのか」
「俺は……判ってたらッ!」「……そんなものは、俺には関係が無い。例え、どういう結末が待っていようが、此の世に煉獄が生まれようが、俺が地獄道を歩こうが、俺の勝手だ」
タイタンの言葉を遮ったムショは、何であろうと突き抜ける意思を告げた。修羅は折れなかった。
「それじゃあ、繰り返すのか。これを、繰り返すのか」
「赤いの、そいつは、当然って事だ」
「お、オマエは、この世界の、此の世の人はどうなってもいいのか!」
「話がなげえよ、赤いの。そんなに現実が怖いのか? 全身真っ赤に燃やして、超人気取りがそんなに楽しいか?」
ムショを苛みつづけ、肉を腐らせる"毒"。爛れた半身が、揺らいだ。
「なら、お、オレとオマエは、敵って事か」
「その通りだ。お前らは楽園に――ぬるま湯に浸りきって、ふやけて朽ちろ。……俺は、朽ちん」
どう、と。
ムショが、倒れた。
ナイトウが、泣いた。判り合えぬ事に、泣いた。