第十二話 人と英雄
走る少女が一人。
バイカは赤く燃えていた。血があちこちに流れ、ぬめっていた。
もはやとっくの昔に、この辺り一帯のまともな人間は、逃げるか、死ぬかのどちらかの選択を強要されていた。逃げるものは、走る少女とは間逆の方向へ向かう。倒れた者は、動かない。
先ほどから細かく揺れていた少女の足元が、ぐらりと大きく揺れ、ごぼりと水が噴き出す。よろめく。走る。
妖精のような足取りが、水を吸って重く、びしゃびしゃと不恰好なものになる。走る。
走る先は、"十字"広場。きっと恐らく、今、此の世で最も危険な場所。
「糞ァ!」
真っ赤な華が咲いた。
"蟹"の一撃が、ムショの両腕を爆砕させた。
十回目までの安定した、剣盾の分配は、十一回目でムショが、バランスを崩したタイタンの間に入り、"蟹"の一打をかばった事で終わった。
振り回される鉄の腕は、ムショの妖刀ではいなし切れなかったのだ。
巨大な腕に拮抗した筋肉と両腕が爆砕し、愛刀が瓦礫のかなたへと弾き飛ばされる。
ざぁと地煙を立て、踏ん張った足が石畳を割りぬく。もんどりうって後転。腱のみでつながる骨が、ぶらぶらと揺れた。ムショの気が狂う前に、脳内麻薬があふれ出し、痛みは黄泉路に居る誰かに押し付けられた。
ムショですら、これだ。
一撃は必ず止める。二撃目は判らん――タイタンはそう言ったが、"蟹"の猛攻を、実に十回まで止めきった。
このような化け物の攻撃を、真正面から耐えきるほど、並の"盾"は硬くはない。いかなる手段を用いたのか、さっぱり判らないが、まだまだ隠し玉を隠し持っていたのだろう。ムショは歓心を隠し切れない。
また、<咆哮>。"蟹"に口は無い。この場で吼えるのは、金髪の男のみである。ビリビリと震える世界が、"蟹"を揺らした。ムショの骨も、ジリジリと揺れた。
「再生まで時間を稼ぐ、走って背後を取れ!」
「済まん。一分ほど任せる」
"蟹"が腕を振り回すだけで周囲の建物が、積み木細工のようにばらばらと崩れる。
爆ぜた腕をかばいながら、ムショは"蟹"の背後を取る。器用に取り出した小瓶をガリッと噛み砕く。硝子が口と舌を切り裂く、飲み干す。異様なまでの活力が、ムショの体に満ち溢れる。じゅわじゅわと緑の煙を、爆ぜて骨だけになった腕が放出する。血管が、蛸の足か束になった蚯蚓の様に、骨にまとわりつく。肉芽が赤いポップコーンのように一気に膨れ、腕を覆う。
桃色の薄皮が張ったのを確認して、ムショは予備の小太刀を鞘から引き抜いた。
二刀流である。
引き抜く動作が、そのまま居合いに。<真空刃>の二連投射。
何も存在しえない、虚の空間が線となって、"蟹"の十二本ある内の、今、まさにタイタンを叩きつけようとした腕二本の肘、関節部にたたき付けられた。"蟹"の威を殺し、動きを刹那、止めた。
足に通った<剛力>の受動"スキル"は、ムショに飛燕の速度を与える。"蟹"の背を駆け上り、背骨があるであろう箇所、中枢神経が通っている箇所を<加速>しながら同時にえぐる。二度、四度、六度目で手ごたえがあった。"蟹"の腕がだらりと二本、下がる。まだ十本、残る。
「ッシャア!!」
"蟹"がたたらを踏んだ。胴――と呼んで良いものか。非常に怪しい箇所を支える二本の腕が、よろよろとよろける。
――いける。
"蟹"の背をけたぐり、ムショは跳ねた。二刀での変形<唐竹割り>へ繋ぐ為の、前動作。背を払う"蟹"の手は、空に舞ったムショには格好の餌食。重力を味方につけての、天を裂く、双撃の<唐竹割り>が炸裂する。"蟹"の薬指と、小指の鉄の肌を容易に切り裂き、エンコ詰め。
更に一本、胴を支える為に手をついた。更にもう一本。もう一本と手を付いてゆく。全ての腕が、地面へと突き立てられる。水銀の血液が、切り取られた小指と中指からだくだくと流れ出す。"蟹"はぶるぶると背を震わせる。
"蟹"が各所に開いた気門から、蒸気をブフゥブフウと細かく噴出させるのを、タイタンは見た。
――もう一撃、いけるか?
タイタンがムショを、ちらりと見た。ムショは頷く。
――このまま押し切れ。
押し切れるかどうかなら、いけるとは思う。ムショは己の勘を信じた。タイタンも己の判断を信じた。
ムショが左右の小太刀に纏わりつかせた魂の力が、<重撃>と言う形を取る。手に構えられた両の小太刀は、刀身の倍ほどの破壊の力場を形づくった。くるり逆手に持ち替え、そのまま体を落とす。同じタイミングで、タイタンが大地を蹴り、爆発的に最短距離を疾駆。右手を真っ直ぐ突き出した。
音の壁を破る高速の<死突>は、"蟹"の脊柱に狙いを定め、突き刺さ――らない。
「――畜生、しくじった。よろけパターンを読み違えた」
顔もないのに、十二本腕の"蟹"が笑ったような気がした。
タイタンの言葉はブォオオオオオオ、と、管楽器を吹き鳴らすような音にかき消された。"蟹"の全身に開いた気門から、高温高圧の水銀蒸気が噴出。
鉱毒と高温と高圧を吹き散らかし、二人は飲み込まれる。タイタンは盾で顔を庇う。ムショは宙返りを打つ。辛うじて気門からの直噴を避けたが、それでも全身を焼く水銀に苦悶。
敗因は、連戦からの連戦で、集中力の限界を迎えていた事だろう。
全身を喜びに震えさせた"蟹"が、目の前の金髪に、大降りの、みえみえの、軌道がはっきりと判るテレフォンパンチを放つ。サイズの差は、人と油虫。どちらが油虫かは言うまでもない、タイタンの方だ。この体では、避ける事も叶わない。
「金髪ッ!」
不味い。未だタイタンも、ムショも、加熱された水銀蒸気の負傷から立ち直れていない。極限まで加速された思考の中で、お互いがお互い、次の手を考える。
無理だ。両者共に"戦士"。即座に負傷を癒す手などない。どちらかが時間を稼がねば、どちらとも共倒れになる。しかし、両者共に、手が封じられている。
「万事窮す、か……」
中天高く振り上げられた拳が、影をつくる。タイタンが、迫る拳を前に、諦める。地面に這うタイタンめがけて振り下ろされる、その刹那。
光。
夜のバイカに、小さな太陽が生まれた。直径十メートルほどある、<火球>が、"蟹"の拳を焼き飛ばした。
拳は、タイタンの足元に振り下ろされなかった。
戦うべき、真の天敵、人の敵を前に、無名の英雄達の奮戦が始まった。
"蟹"の拳を焼いたのは、四十九名の魔術師級の、帝国魔術兵達が渾身の力を振り絞った、<偽太陽>であった。
煌々と夜闇と瘴気を切り裂く、日輪の炎は、破魔の炎。鉄の肌を焼き、水銀の体液を沸騰させ、爛れた黄金の筋肉を露出させる。
"蟹"の拳が、見る間に焼けた。
「あの"英雄"を援護しろ、車輪騎士、突貫だ!」
「輪陣、略式二十四、始め! 回せ回せ!」
「長弓隊、ッテエーー! 撃て、兎に角撃てェ!」
「槍兵隊、整い次第密集陣で進軍、あの魔物を潰せ!」
人の腕だけで構成された、異形の"蟹"は、ヒトに根源的恐怖を撒き散らす。視覚化できるほどの、猛烈な悪意だ。
その威に屈しない猛者のみが、この場に立っていた。
誰が指揮を始めたのか。もし、後世にこの戦いが記録されるとしたならば『彼らもまた英雄であった』と記される事だろう。
「突貫、突貫、突貫!」
車輪騎士達の拍車が馬の腹を蹴った。軍馬が嘶き、加速が掛かる。重武装の時速八十キロの突撃が"蟹"の後ろ足に向けて一斉にぶちかまされた。大概の馬上槍がへし曲がる中、一本が肌を貫いた。水銀の血がびゅうっと噴き出し、"蟹"がわずかに体勢を崩す。
「効力有り、つづ……」
足元にたかる蝿を払うように、ざあと振り抜かれた"蟹"の手が、更に調子に乗って、第二陣の突撃を行おうとした車輪騎士達を尽くなぎ払う。軽く触た様に見えるだけで馬肉人肉の塊が生産される。当たらずとも、圧倒的な質量と、風圧が尽く人馬をなぎ倒す。
「腕だ、腕を止めろ! 燃やせッ!」
魂力を爆燃させ、精魂かれ果てるまで炎の玉を打ち続ける。常ならば、一度撃ったら一刻は休ませないと命数を削ると呼ばれるほどの大魔術を、陣を構築して打ち続ける。若々しかった帝国魔道兵達の、腕が枯れ木の様に。それでも、撃つ。
狙い続けた"蟹"の腕が炙られて、泡立つ。鉄の肌が焼けて、液が蒸発する。"蟹"が炙られた腕を振るった。真っ赤に融解した鉄が、車輪陣に陣取ったままの精兵達にびしゃり、と浴びせかけられる。人型のたいまつの群れを背負った雄牛達が、ムォオオウと泣き喚いた。
「せめて"彼ら"が持ち直すまでの時間稼ぎをしろ!!」
密集陣を組んで、槍盾を掲げ、一歩一歩路面を踏みしだきながら進む。怒り狂った"蟹"が、動く九本の腕を振り回しながら進む。"蟹"に一歩踏み抜かれる毎に、投槍を投げつける兵士達。
"蟹"の鉄肌の表面を、鉄の穂先がたたき続ける。金属疲労を起こし、びちりと割り砕かれる。
砕かれた中は、金色の肉が脈動していた。それを目の前で確認した男は、一瞬の後に挽肉。
「塩だ、塩を持て! 金物の化け物だ! 錆びさせるんだ!」
誰が言ったか、もう判らないが、その声に応じた兵が、恐らくは酒場か何かの略奪品であろう、塩の袋が、屋根の上から――それでも、高さはぜんぜん足りないが――"蟹"の化け物に浴びせかける。
「酢だ、酢をかけろ!」「いや、水もぶっかけろ!」「西瓜でもいいんじゃないか!?」
混沌。手持ちの切れる札がなくなった時に、人は何を考えるのかは良く判らない。混乱と狂気の支配するバイカ大路。西瓜が飛び交い、酢の瓶が投げ入れられる。油壷が落とされ、水樽が転がされる。超超遠距離からの、機械弓の狙撃が入り、長弓隊の放った矢の雨が、"蟹"をばらばらと打ち付ける。それらに律儀に対応する、"蟹"。残り九本となった腕を振るう。振るわれる毎に、産まれる空白地帯。産まれた空白地帯は、更に人の波で埋め尽くされた。
「押せ! 押せ! 押せ! 効いているぞ!」
大概、ほぼ全ての彼らの行動は無意味であった。だが、全く無意味であったかと問われると、少々回答は異なる。
反撃の為に必須の、時間が産まれるのだ。確かに時間は稼げたのだ。抗する意思が、"蟹"に対して多かった。それだけで、時は稼げる。
頭に血を上らせた――上らせる頭は無い"蟹"であるが、兎にも角にも、ここまで無数、無名の雑魚共に、良い様に集られると、酷く手間である。ぐっと全身に力を込め、無傷な腕に、謎めいた呪が集まる。無念の内に地に倒れた英霊達の魂魄が吸い上げられ、おどろおどろしい気配をかもし出す。ばつん、と大地に拳をたたきつけ、バイカ市内、地下深く、張り巡らされた根の様な、地脈に意を伝える。
噴き出せ、と。
地脈に沿って流れる地下水達が、ごぼ、と溢れた。
遠くで、ゴボ、と間の抜けた音と共に、無形の暴圧が吹き荒れるのが見えた。一拍置いて、ゴボボボボボボ、と地面が揺れる。じゃばじゃばと走っていた、チャカの足が、異変によって止まった。ごぼ、と泡立つ足元から、殺意が。
「――っ!?」
予感。
殺意の真上に立っていたチャカには見えた――
列状に連なる、地面からの噴出。加熱加圧された水脈が、地殻を割り、巻き上げる。バイカ市中に通る下水道は、それこそ根のように広がっているのだ。どうにもならない予感。このままだと――死ぬ。たくさん死ぬ。列状に噴出する噴水。いや、水が噴き出しているのではない。波ではない。地面から、マグマの様なエネルギーの塊が噴き出している。湯気、蒸気、熱された水が、噴流のようにびゅうと大地から噴出して、辺り一面を吹き飛ばす――予感。
ごごぼぼ、と不吉に泡立つ足元。踏み抜いた地雷の如く、チャカが足を退ければ噴き出すだろう。ただ、足を避けずとも、踏み出さずとも、遅かれ早かれ決壊は近い。
死を超越したはずのこの体でも、恐ろしく、苦しい、痛みの記憶がよみがえる。
弱さだ、とチャカは思った。身を削ってでも一刻も早く、広場へと向かわなければならないのに、竦む。きっと、あの"蟹"を相手に、誰かが戦っている。それなのに、自分は、もう一歩が踏み出せない。
弱さだ。悔しい、と思う。変えたい、と思う。
ナイトウは変わった。タイタンも変わった。ヒゲダルマも、色々と変わった。
(じゃあ、私は――?)
変われ、一歩踏み出せ。"英雄"に変わる、一歩を踏み出すんだ!
踏み出す。一歩、二歩、踏み出してからのチャカの足は、軽かった。
ごぼり噴き出す、不吉の音。走る。沸騰したヤカンの笛の音。ピィ、と鳴った。めりめり、めしめしと地殻が揺れた。構わず走った。
破滅の予感がひしひしと迫る。
くそ、と思った、チャカが踏み抜く水面が、更に黒く不吉に泡立った。
破滅の意思が、暗い悦びが――噴きだそうとする刹那。
赤々と輝く炎の流星が、光の柱が、天を割り、幾筋も落ちてきた。噴出する破滅が、全滅、必滅の殺意が、降り注ぐ流星群によって挫かれた。
放ったのは――
ナイトウである。
答えは出ない。出ないが、やらねばならぬ。全身に炎を纏わりつかせながら、大空から街を診た。大災害だ。全てを助けるのは無理である。無理なのだ。無理をひっくり返す道理などない。無いが故に、苦しい。それでも動かねばならぬ。
全てを救う事が無理なら、自分の手が伸びる限り、尽くすしかないではないか。
実に安い、浅い考えだ。だが、ナイトウは神ならぬ身、単なる人でしかない。
人なのだから、不完全でもしようがない。
――だから、今は願う。
「だ、だけどよう」
霊に縛され、暴れる竜が如くの水脈。街のあちらこちらから吹き出る熱水。亡霊達の核が見えた。仕様が無い。不恰好でも、不完全でも。
「や、やれる事やらずに、後悔するのは、もう」
――人助けになれと。
一筋の流れ星の様に、真っ赤な炎を纏いながら、ナイトウは縛された霊達を超高速の<火弾>で打ち抜く。願いながら撃つ。
――せめて、少しでも、と。
炎の弾丸は規格外の、流星の威力を持って、次々と街に穴を穿つ。無作為に噴出し、破滅をもたらすはずの地脈の乱れは、的確に穿たれた穴から吹き抜ける。
業、と街に火柱が何柱も立ち上る。
光が、灯った。真昼のような明るさが、街を包んだ。
地面が音の速度を超えて寄ってくる。
見慣れた、白金の少女が見える。指差す先に"蟹"が見える。
「ナイトウ!」
「りょ、了解ッ!」
以心伝心のやり取り。阿吽の呼吸。
地面とほぼ水平に一撃。"蟹"に向けて放たれるは、ナイトウの<火弾>。