第十話 異変 (1)
バイカ市、市外。フェネクの軍旗が翻える本陣。次々と入る報は、自軍の圧勝である事を示していた。あまりにもあっけない、と、老将軍は呆然としていた。
「流石、"無尽の刃"……」
少なくとも、もう少してこずるかとは考えていたのだ。
「おう、爺さん。そろそろ俺らはお暇するわ」
いつの間にか老将軍の背後に立った、真っ黒の皮鎧を着込んだ男。少し離れた所に肉の塊、その肩に乗せられているのはケタケタと笑う娘。
「無尽の刃よ、明日の晩には酒宴の主役になれるだろう。もう少し見ては行かぬのか?」
「取り決め通り、俺らはこれでいい。この街にフェネクの旗が立つのを見れれば、それでいい」
「……実に"英雄"らしい。留めても無駄なのだろうな」
「まぁ爺さんよ。どっかで会ったら、一杯奢ってくれりゃいい…………またな」
ヒラヒラと手を振りながら、ゼロはブラブラと身内と共に歩く。目指すは、次の街。
「ゼロ、いいのカ? ムショもシゴもアンパイも、チュイも戻ってないゾ?」
肉塊が、指をしゃぶりながら言った。
「最初の取り決め通りだ。門を破ったら、さっさと次に行く……ガキじゃねぇんだ、遊びも程々にして切り上げるだろうよ」
暴走するのは折込済みだ、やる事さえやってりゃ、世話がなくて良い。だいたい、ゼロの思った通りに動いている。
「だいたいよ、お前もいい加減、軍隊のメシじゃ足りんだろ」
「そうダけどナ?」
ケラケラと響く笑い声の中。悪魔は背後を振り向かずに、立ち去る。
――失敗しようが、成功しようが。誰を捨ててでも、成さねばならぬ事もある。そう決めた仲ではないか。
"十字"が空にぽぅん、と、燐光を撒き散らしながら空に舞う。啼く。ゆっくりと空をかき回しながら、ぐるぐると回転し、堕ちる。
「俺の、勝ちだ」
双方ともに勝利を確信していた。
ムショは、己の愛刀が、眼前の美丈夫の体にめり込む感覚を得て。タイタンは、すっぱりと断ち割られた"十字"が大地に落ちるのを見て。お互い、別のベクトルでの勝利を確信していたのだ。
ずどぅん、と、鉄骨より重い、"十字"が、広場横の茶店を文字通り叩き潰して、粉塵を巻き上げる。砂礫や、瓦礫、木片が吹き飛び、二人の罰当たりの視界を塞ぐ。
地響き。十字広場を避けて展開した、帝国兵達と車輪騎士達が見たものは、どの街にもある、"十字"が空を舞い、大地に叩きつけられると言う異常事態であった。
命のやり取りが、一時、止まった。
――直後、"震"
業、という音をタイタンは聞いた。激しく揺れる。片膝を付く。背筋が凍るような鋼が、体から抜けた。背筋が凍るような震えが体を抜けた。
(何だ、この地震は!?)
タイタンが声を出そうにも、空間が歪んだ。
子供の落書きの様に歪んだ。手足が、目鼻が、頭が、空が、遠近が、時空が。ムショを見ると、消失点をどこかに置き去りにしたいびつな絵画。胃がひっくり返った。ぶちまけようとしたら、中身が胃から逆流して、正常に腸の方へと流れた。
"震"が収まるまで、実際は十秒もかからなかったろう。
「でかくて、長いかった。しかしだ」
直前までタイタンと争っていたはずの、ムショが頭を振りながら言った。理解が出来なかったのだ。
「何故、貴様は勝ちだと思った。勝ったのは俺だろう?」
「お前は確かに、俺に勝った。試合に勝った。降参だ」
タイタンは盾を地面に放り出して、左手をあげた。右手は動かない。動かそうとすると激痛が走った。
「その点では、俺の完敗だ。見ただけでまるっと再現された日には、完敗としか言い様がない」
"スキル"動作の省略、代替、変化。おおよそ人の武術とは言いがたいそれらを、習得するのにタイタンは、ほぼ半月、ずっと棒切れを振り回していたのだ。取っておきの秘術を、見ただけで、ここまで完全に再現されてしまったら、立つ瀬が無い。
練った対策と、取っておきの秘剣。両者がかみ合わさったから、タイタンはここまで粘れた。"十字"をへし折るまで粘れた。
そういう意味では端から勝ちをもぎ取るつもりもなかった。
「だけどな、俺の勝ちだ」
未だに、勝敗の行方が理解できないムショに対し、タイタンはあげた左手を水平に。真っ二つに叩き折れた十字を指した。
「もう、お前らは――いや、フェネクの軍隊は戦争を続ける事が出来ない。残念だったな」
同刻。
百合騎士団、作戦会議室。名前の華々しさとは異なり、その内装は質素と言っても良い。ただ、中央に座する円卓のみが、分不相応な重厚さを演出する。クオン本国からの持ち込んだ品である円卓に座した一同は、声もなく、じっと主の発言を待っていた。
呻くハッカの手当て――とは言っても、肝心の癒し手の両手が捻じ曲がっていては、添え木を当て、痛み止めにケシのチンキ剤を塗布する程度に留まる、を行う従騎士の少女らを横目に、トワは苛立たしげに円卓を叩いた。
「"彼"は何を目的にしているか、誰か説明できる者は居ますか?」
普段のトワの温厚な声とは違う、硬質なその声に少女騎士らは震え上がった。化け物の考える事なんて判るわけが無い、という表情がありありと浮かぶ。
年齢にそぐわない訓練を積み重ねた彼女らでも、目の前で起きた惨状は少々、刺激が強すぎた。そう、カノは思った。
仕方なしに、口を開いた。
「"協定"の二章五条。十字無き都市、集落は戦争対象にはならない。それを人為的に為しえようとするのが、彼――最後の守護神、の思考、だと思う」
「ふぅん……どうやって? 人は"十字"に触れられません。パーンと吹き飛ぶ人を見るのは、私、これでも結構、気分が悪くなるんです」
「私達……いや、人間の盲点がそこだった――彼は、"英雄"は、"十字"に触れることができる。触れれば、折る事もできるのも、また道理」
ああ、そういえば、十字に触れて"英雄"になるのよね、と得心が行ったように、トワが頷いた。
「だからバイカから、どうにかして"十字"を取り去れば、砂狐達の攻める大義は失われる。戦争はどちらが勝つとか、負けるとかの問題じゃなくなる」
この腹黒姫は、どこまで理解できているのだろうか。カノの説明を受けて、だらしなく肘を付き、手を顎に当て、ふぅむ、と少し考えた。
「つまり、神の恩寵も失われると言う事ですね」
「肯定」
短く断言したカノに向かい、横たわったハッカがわめき声を上げた。見向きもせず、トワは入り口へと視線を向ける。
誰も閉めようとはしなかった扉は、ぶらぶらと開け放たれたままだ。
幾名もの視線が、トワに向けられた。
「それは、どの程度の損失になるのかしら?」
「はっきりとは不明。でも――」
――果たして、街に"十字"は必要なのか、いや、不要である。
あまり熱心な十字教徒とはとても言えぬカノが、戯れにソロバンを弾き、戯れに纏めた『果たして、街に十字は必要か?』という論文は、トコシェの魔法学校で激論を巻き起こし――闇に葬られた。
結果、天災という非常に不名誉な称号を贈られる事になったのは、カノの黒歴史だ。
辺境領域――邪神領においては、確かに必要なものだ。有り無しで、住民の安全は相当に異なる。農業、漁業、鉱業、全てにおいて魔物の脅威が軽減される。
しかし、この地方、特に、山脈を越えた辺り、人領からは事情が異なる。
有っても防げぬ災厄級の邪神。
これは、そもそも論外。有っても無くても防げないのならば、論ずる意味が無い。
有れば防げる災禍級の魔物達。
確かに、これらに襲われた場合は、必要となるだろう。しかし、人間の領域では数十年に一度、数百年に一度有るか、無いかだ。
無くても防げる災害級の化け物達。
これが主だ。少なくとも、人領であるならば、人の軍隊で対処が十二分に可能なのだ。
そもそも、十字が無くとも十二分にムラが成り立っている時点で、何故十字が必要なのだろうか?
"十字"の支配から多少離れた土地も、もっともっと開拓をしても良いのではないか。
だいたい、この支配領域があるために、街も広がりが持てず、発展性を阻害されている――
論文を火にくべる師匠に、こう、カノが疑問をぶつけた時、酒臭い息でこう諭された。
『俺たちゃ、守人なんだ。アレを守る宿命を帯びた、な』
どういうことだ、と問い詰めても。
『どうもこうも、へったくれも無い。ずっと昔から、そうなってるんだ』
カノは黙った。暫く、言うべきか否か迷ったが、ちくちくと刺さるトワの無言の視線に負けた。内心のざわめきを隠しながら、カノは黒歴史から、ボソボソと話し始める。
「バイカがバイカである事に、表向き支障は出ないはず。単純に、ムラに魔物が攻め入って来た時の様な損失が、バイカにも起きると言うだけの事」
どよめき。王都や市街、その他の整備された道筋では稀な事であるが、死食鬼や腐肉喰らい、小鬼や大蜘蛛、蜥蜴の類の被害は、ときたまムラでは話題に上る。けして無視できない被害ではある。
「結構大きいですね……このままここが戦場になり続けるのと、どっちがお得かしら?」
「無い方が、得」
とはいえ、凶作や、暴風雨、水害、日照り、各種の天災に、一つカテゴリが追加されるだけの話だ。しかも、人手、男手があれば、予防はできる。カノから言わせて貰えばその程度の話である。
「言い切りましたね、流石、天災」
「この地での小競り合いが続く事で、どれだけ人類が消耗するか。大体、邪神という、人類の天敵が存在するのに……何故私達が、人間同士で争っているのか。不明」
確かに、遥か昔から、"協定"が有っても無くても、戦争はあったのは事実だ。
ただ、邪神と言う天敵の存在が、確認された二十年と少しの間。
"戦争"は起きなかったのだ。
だが"協定"が出来てから、それに沿って戦争がまた繰り広げられてきた。この八十年近くの間、ずっとだ。カノからしてみたら、まったく、人間と言うものは頭がイカレているとしか言いようが無い。
「でも『十字』が割れたとして、砂狐達が馬鹿正直に刃を止める訳が無いって話」
沈黙を続けていたサーサが、割って入った。
「ヤーマが"布告文"を探してくれば判る」
先程、執務室に使いにやらせたヤーマを気遣う様な表情を一瞬見せた後、サーサは首を振る。
「ありえないってはな――」
「いいえ、止まるでしょう」
口論に発展しそうになった二人が、思わず振り向いた。
「……間違いなく、止まるでしょう」
トワの予想しうる範囲でなら止まる。例え、相手が誰でも、何でも、人間なら止まらざるを得ない。
敵も、味方も、だ。
何も、真理を探究してきたのは、魔導師だけではない。
止まるのだ。
一部の高位十字神官や、王族に伝わる伝承からすれば、確実に止まる。狂ったようにわめいているハッカを見れば、一目瞭然だ。
はぁ、とため息をトワは吐いた。最近、ため息の頻度が増えている。その事実もまた、なんとも陰鬱な気分にトワを浸らせた。あの"守護神"は、人の理性に期待したのか、それとも、人の性質を期待して行動したのか。残念な事に、きっと多分、理性の方を期待したのだ。
「もしそうなっても"竜殺し"も居る、"不死"も居るなら、何とかなるかしら……ねぇ?」
「は、はぁ?」
「どちらにしても、私達が関われる事は少ないでしょうね。なら、これ以上の被害が出ない事を期待しましょう」
「はぁ」
「今直ぐには止まらんかも知らんが、もう次は"軍"はこの街には手を出せん。そして、お前らも、もうこの街に用は無いだろうさ。なにせ、この街に"十字"はもう無いんだからな」
荒い息を吐きながら、タイタンは傷口に手を当てた。
(これは、歩くのも苦痛だろうなぁ。いってぇ……)
もう少し余力があれば、へし折った"十字"を持って、砂狐本陣に突っ込んでやろう、と思っていたが。無理な様だ。
「確かに――用済みだ」
苦虫を噛み潰したように、ムショは油断無く、妖刀を構えなおし――何を思ったか、小瓶を数個、タイタンに投げ渡した。
「良いか、ゆっくりとだ、ゆっくりとだぞ、こっちに来い。武器を拾うのを忘れるな。盾もだ」
タイタンが己の業を、此の世に来て鍛え上げたなら、ムショは己の勘を鍛え上げた。勘が告げる。恐ろしく異質な、何かがゆっくりとせり上がってくる。
地面が揺れた。ゆっくりとした横の揺れ。"震"とは異なる、現実の揺れだ。
二人に分散して向けられる――敵意。
ムショは此の世に飽きている。
そして、彼の世が憎い。
此の世を滅ぼしてでも、彼の世に舞い戻らねばならぬ。
故、今この場で終わる訳にはいかない。
タイタンは此の世に未練を残している。
彼の世に未練を残している。
此の世の未練を昇華し、彼の世の未練も昇華せねばならぬ。
故、今この場で終わる訳にはいかない。
「手伝え」
二人は目配せ。恐らく格上、単機で仕留めるには少々骨だ。
利害は一致。目的も一致。
――思ったよりも、此の世は強そうだ。