第一話 バイカ戦乱 (1)
千二百二十六年、三の月、八の日。昼。
三の月も一回りすると、バイカには叩き付ける様な雨が多く降る。
バイカ西部に流れる、オニバス河方面から吹く暑く湿った風と、東部に流れるレンゲ河方面から吹く涼しく乾いた風が丁度バイカ近辺でぶつかるのだ。
特に昼頃、よく荒れる。
――荒れるが、今日も市壁に異常なし。
ざぁざぁと降りしきる雨。尖塔に据え付けられた雨どいに流れる雨水がじゃぁ、と流れる音を肴に、一人の老兵士はカシャッサをチビチビと呷った。
「この時期にゃぁ、あちら様もやる気がでねえだろうよ」
バイカ南西部を見張る監視塔、二人一組の監視任務。井戸の汲み桶をひっくり返したような雨の中、馬鹿正直に見張り作業を行っている若い同僚に、老兵士は軽口をたたいた。
「そうは言いますが、軍規では夕刻の鐘が鳴るまでは見張り続けなきゃならんでしょう、先輩」
「ばぁか、この時期にゃ、砂狐の連中も攻めてこれねぇよ。蓮華雨の季節にゃよ」
秋に入る前の、最後の恵みの雨、農村部では歓迎される雨である。クオン領、バイカ地方の風物詩ともいえるこの季節の雨は、蓮華雨と呼ばれる。さながら、ハスの葉に水を貯め、一気に流し込む様に、ざぁと叩き付ける豪雨が降るからだ。
この雨が降らなくなった頃に、丁度恵みの秋がバイカに訪れる。
農作業には男手が必須であり、この時期に働き手を兵に取られるのは農村に『死ね』と言うのに等しい。収穫の前にこのような無体を働く国など、長続きなどしない。クオンは長続きする国だ、だから、秋の収穫が済んだ後に戦の季節がやって来る。
当然のことながら、他国――フェネク帝国も、補給の問題上この季節に戦を起こす利点が無い。戦を仕掛けて、兵に食わせる糧食が無いという間抜けな事例を起こすほどの愚者ではないからだ。
攻める側の補給の問題は、守る側の補給の問題よりも、尚の事深刻である。その上、例え勝っても、乱捕りで捕れるモノも少ない。それならば少し待つほうが賢いではないか。
――互いに聡いからこそ、この季節に戦は仕掛けない。戦を仕掛ける道も無く、利も無く、益も無いからだ。
少なくとも、今の今まではバイカが三の月に戦に巻き込まれたことは、無いのである。
末端の兵士にこの様な道理は判らぬが――
「難しい事は、俺にゃ学がねぇからわからねぇが、少なくとも、おめぇがオシメをとっかえて貰ってる頃から西を見続けてるんだよ。この時期にゃ、奴さん達も鳴りを潜める。もっと早いか、もう少し遅いかのどっちかってぇんだ。肩の力抜け、この仕事を長続きさせたきゃよぅ」
どちらにしても、この土砂降りの中では遠方も良く見えない、と。
「もし、それでもおめぇが見てぇって言うなら、河の上のほうを見ておけ。アレが氾濫したら街も水浸しだ。寝小便をちびらせた様な布団で寝たくなきゃ、そっちの方が重要だ」
酒臭い吐息とともに、老兵士はふりしきる雨の中、オニバス河上流を指差した。若い兵士も、先任の老兵の言葉に、今まで見ていたルイヨウの方角から視線をずらす。
「支流が街の下を通ってるか何だか知らんが、あいつが氾濫した時が一番厄介だ……って、あれは、何……だ?」
年は食って、以前ほどに体は動かぬ。だが、目だけは衰えてない。そんな老兵士の鷹の目を持ってしても、はっきりとは見えぬ遠方。ただでさえ土砂降りの雨、極めて悪い視界。
そんな中でも、はっきりと判る異常。
竜巻だ。河面から竜巻が立ち上っている。しかも、何個も。
更に目を凝らす。雨でけぶる、嵐でゆがむ空間の更に向こう、竜巻の向こう側、河の向こう岸に、雲霞の如くの人だかり。ひっくり返した石の裏に、びっしりとへばりつく大量の蟲の様な、数えるのも馬鹿馬鹿しい数の敵。
竜巻に煽られ、ばたばたとはためく旗は砂狐の軍旗。
百人に一つの旗が、数百本。
ある種、壮観な光景である。敵としてみると、絶望の光景である。
馬の嘶きや、号令の怒声までもが聞こえるような、生々しい光景であった。
老兵士の赤ら顔が、真っ青に染まった。
大銅鑼に駆け寄り、五度、力の限り叩く。一呼吸置いて、それを五度繰り返す。
『奇襲』の銅鑼である。五度が五回、計二十五回の銅鑼の音が、街中に響き渡った。
老兵士はこの街で、この銅鑼の音頭を取るとは思いもよらなかった。こんなものは戦時中のみに取り決められた打ち方だ、と。
この世界の『戦争』とは、決められた手続きによって、決められた日時に始まる。
終わり際に多少の混乱はあれど、始まる刻ははっきりとしているものである。
そういう風に、国と国の間で協定が為されていたのである。
これを破るものは人に非ず。魔物である、とまで言われる協定を、破りに破った不意打ちである。
事実、この取り決めが破られた事など、この百年ありはしない。厳密に言うのであれば、細かい協定破りは何度も行われていたし、行っても居た。だが、これほどおおっぴらに協定を破る行為など――人の理を破る行為を平然と行う国が、国として成り立つことなど出来ない。
世の中、勝てば官軍ではないのだ。
人と魔物が争う以上、人の道に外れた者は、人として扱われない。
それが、どうして?
若い兵士も銅鑼の音声に当てられた様にふらふらと、欄干に手をつき、河の方を見る。
彼もまた、鷹の目の持ち主である。若い分、老兵士よりもはっきりと、万の軍勢を見る事が出来た。そして、その詳細も。
河が、凍っていた。
真冬でもぬくい、と呼ばれるオニバスの大河が凍っていた。
嵐の中、大河に氷の橋が架かっていた。
その中を整然と、訓練の行き届いた方形陣で行軍する、砂狐の軍旗。城攻め用の破城槌の仰々しい三角屋根。巨大な岩を投げる為の、物々しい投石機。雄牛十匹によって引かれる、車輪祭壇のまがまがしさ。
それらが、何も無い所からまるで湧き出できているのだ。
呆然と、奇跡の光景を眺めながら、若い兵士は硬直した。
「おい、おめぇッ! 何ぼさっと突っ立ってやがる、敵襲だ! 誰でもいい、いっとう偉い奴に砂狐が戦争を仕掛けて来たと伝えて来い!」
土砂振りの雨の中でも掻き消えない胴間声。声に尻を叩かれたように若い兵士は螺旋の階段を転がる様に駆け下りた。
今日は市壁に異常あり――
同刻、カノの館。書斎。
締め切られた無風の室内。じわりと広がる男の汗の匂いと、芳香にも似た仄かな女の体臭。年月を経た紙の匂いに、それらが複雑に交じり合う、無言の空間。時折、書籍の頁を繰る音が響く。
叩きつける雨で、気温はそこまで高くは無い。しかし、外からの風が入らない書斎の、湿度の高い空気は、まるで梅雨の時の様な不快感だ。
たらりと額から滴る汗を、少女は手の甲で拭い、男は垂れるままに任せる。
ポタリ、と汗が紙に落ちた。
――ナイトウは、己の死と、"ナイトウ"の死を知った後、一晩泣いた。
「な、何が、『オレは今、凄い生きている。なにより、オレは今、足踏みしていない』だ! ケツに火がついてもゲームかよ! おめでてーにも程がある!」
と、嘆いた時、ナイトウに一つの疑問が生まれた。
ナイトウのケツに火がつき、焼け死ぬ運命にあった所を"ナイトウ"が救った。ここまでは疑う必要の無い事実である。
世界を守れば、ナイトウが死ぬ事は避けられる。しかし、"スキル"を使い続ければ、ナイトウもいずれあのように滅びる。
これらも間違いが無いだろう。滅び行く際に、護ったものに対して、呪いの言葉をかける必要は無い。少なくとも、ナイトウなら絶対に言わない。
だから、ナイトウは"ナイトウ"の言葉を疑う必要が無い。
――疑問と言うのは、この『世界』と『遊戯』の成り立ちである。
つまりこの『世界』が先かにあったのか、それとも『遊戯』が先にあったのか、だ。
もし、『世界』が先に存在していたのであれば。
「お、おかしいべ。何で今が、千二百二十六年の三月なんだ?」
じゃあもし、『遊戯』が先に存在していたのであれば?
「じゃ、じゃあ、『世界』にどうして招かれた? 『遊戯』なら、そこで完結していなければ、おかしいべ……」
――今が創世暦千二百二十六年であることがおかしい。この世界に今ナイトウ達がいる事がおかしい。
その違和感を抱いた瞬間、ナイトウの涙は止まった。
泣いていては、誰も救えない。オレは無理でも、せめて――
闇雲に出歩いても情報など手に入らない、という事を良く知っているチャカ達は、役割を分担した。
見栄えの良い美丈夫と巨漢の男は外へ。雨降り、土砂振りの中でも、トワの元でより広く、浅く資料を漁る。
漁ってきた目ぼしいモノをしょったれた男と小便臭い小娘がカノの館で精査するという風に、だ。
紙に汗がポタリと垂れた。チャカはごまかすように、パタリと閉じた。
「で、ナイトウがおかしいって思う箇所はどこなん」
「そ、そもそも、今、あちらでも時間が流れている事が、おかしいんだべ」
ナイトウが『読んだ』神話、歴史書、魔道書、の中に、ちらほらと"英雄"の名前が出て来るのが創世暦にして、千年の頃。
では、"英雄"が創世暦『千年』に出現、発生したと仮定すると、経過した時間は二百二十六年。もしも、この世とあの世の時間が同期しているとするのならば、βテストの頃から九年以上の日数が経過していなくてはならない。
しかし、だ。プレイ時間にして、どんなに多く見積もっても、ナイトウ達は四万六千時間を超える事は出来ない。βテスト初日から換算して、忘れもしない"絶望の迷宮"の始まりまでの時間、日数にして約五年と三ヶ月。
二十四倍の早さで時間が流れるとしても、約百二十六年。
しかし、今は創世暦千二百二十六年。仮に、千年に"ナイトウ"が誕生したとしたら、二百二十六年。約百年の歳月が、ナイトウ達の時間と食い違っている。
この食い違いをナイトウは、βテストと正式サービスの間の、一日のメンテナンスで生じた、と確信していた。
こちら側の歴史で丁度百年、全く、"英雄"たる存在が確認出来なかったからだ。
「べ、βと正式の開始するまでの日が、たった一日だったことは覚えているよな」
「うん、確かに。あの時、スッゴイワクワクしてたから。間違いない。でも、それが何で重要なの?」
「……たった一日の、あちらのメンテの間に、こちら側では百年が経った。逆に、こちら側から見たら、あちら側の時は止まっているようなもんだ。今みたいに、一分の二十四倍とは言え、普通に時間は流れてねーべ?」
「おかしいじゃない、それだと普通のメンテナンスでも、時間が止まる事にならない?」
「た、確かに普通のメンテ毎に時間が止まってたら、また、また別の話だったろうさ。でもよ、戦争の後にメンテがあったべ?」
週ごとに訪れる戦争。終わった後の月曜の定期メンテナンス。旗の入れ替えはその時に行われた。そして、それならば、こちら側で多大な功績を挙げても、毎回亡霊のように消え去っていては、それは、やはり、伝説のような存在になるだろう。
「で、でもよ、βから正式に移行した時だけ、時間が止まっていたとしたら? それは何が違っている?」
うーん、と数秒、少女の小首が傾げられた。さらさらと髪が肩から零れる。ざぁざぁと降る雨の中、締め切られた室内にとぅん、とぅん、と微かな鐘の音が鳴る。
「βから正式に移行した時は、邪神を倒して終わりだった?」
「で、それで、オレらがこちらに来た時の状況は?」
「気がついたら……じゃなくて、邪神を倒したから終わりだった?」
奇妙な一致。異常な事が起こるのは、何か原因があるからだ、とナイトウは思うのだ。
「ど、どっちも、邪神がキーになってるんだべ。多分」
ああ、とチャカもようやく納得した。それなら非常に、それらしい、と。
「邪神との戦いで、人の側に加勢に加わったのが"英雄"……って設定だったべ?」
歴史書、神話は数あれど、人の側に立って、邪神と相対するものを"英雄"とこの世では呼ぶ。この一点だけはどれもこれも、共通している。為らば。
「た、多分。邪神を倒す事で、"ディープファンタジー"は一度は終了した。い、一度はまともに終わったんだべ。だから、時間の同期が解かれた。βの頃の"英雄"システムは正常に終了したんだべ、多分な」
だから時間の同期もなく、正常に次のプロセスが走った。そう、ナイトウは言った。
「でも、今の、こんな宙ぶらりんの状態でオレ達が存在しているのは、きっと、終了に至るプロセスに瑕疵が生じているからだ」
ナイトウが、言い切った。世界が遊戯をなぞっているのか、遊戯が世界をなぞっているのか、それとも両方が絡み合っているのか。それは判らなかったが――
「か、"神"も"邪神"も、"英雄"達も、この世に呼ばれた原因は……し、しっかりと終了タスクを行っていないから、じゃないか?」
神も邪神も英雄達も、この世界に、このシステムに、なんらかの未練を残している。
中途半端に打ち切られた、宙ぶらりんの結果が、これなのではないか。
「ほ、本来、辿るべきだったシナリオが……有るんじゃないか?」
――ナイトウはこう、考える。