第十六話 時計 (5)
燃え盛る一面の炎。
グレースケールで彩色された、ブロックノイズの走る世界で、ナイトウは一面の焔に包まれていた。
熱いようで、熱くない。轟々と燃える音が、耳障りに感じる。
手かせ、足かせ、厳重にがんじがらめにされた体が、燃える。痛みも苦しみも、何も感じない。
(い、一体なんだこりゃ……オ、オレは確か、刺されて……どうなった?)
かつん、かつん、と足音が響く。一人の煤けた男がナイトウに寄ってくる。
元は柄物のポロシャツと、年季の入ったジーンズを、火に晒し、燃え残った様な襤褸。炭化したものが、肌にべったりとへばり付いている。所々、炎が舞っていた。
肉は焼け爛れ、こちらに歩み寄る度に、炭化した皮膚がぼろぼろと剥がれ落ちる。
吐き気を催すような、死体であった。
思わず、ナイトウは自らの口に手を当てようとした。それすら、全身に絡みついた鎖が許さない。
「……間に合った、もしくは、間に合わなかったか」
死体が喋る。黒い肉が喋る。どこかで聞いた事のあるような声だ。
どこで聞いた――ナイトウは必死で、己の記憶を穿り返す。
「ま、まてよ。お前は誰だ?」
「気がつきたくないのか、それとも、本当に気がついていないのか。判っていると思うが、判っていない可能性も十二分にありえる。だから、説明を一からしなければならないのかもしれない。そうオレは認識して、理解して、お前にわかりやすく噛み砕いて説明しよう」
ナイトウは気がついた。そうだ、留守番電話だ。普段喋る際の声と、録音した時の声がずいぶんと異なって聞こえるから、イマイチピンとこなかった。つまり、自分の声だ。
「オレが英雄となったのは、二百年と少し前の話だ。十字に触れ、この世とあの世の回路を開き、お前の魂を受け入れた。オレの魂とお前の魂で、英雄となった。触れた理由は聞いてくれるな。実に陳腐な理由だ」
長ったらしい、ナイトウならば詰まる台詞を、ナイトウの声ですらすらと言い放つ。
「正義の味方になりたかったからだ。――そして、それは叶った。人はオレを"ナイトウ"と呼ぶ」
死体は語る。一歩一歩、ナイトウに歩み寄りながら、語り続ける。
「オレは実にお前に、いや……伊藤史郎と言う存在に感謝している。そして、だからこそお前を救ってやりたいとも思うし、救ってやったとも思う。しかし、お前が望む望まないに関わらず、これは済んでしまった事で、今更どうこうできる問題ではない事も追記しておきたい」
死体は語る。雄弁に語る。ナイトウに顔を近づけた、首を傾げた、いや、首の筋が熱に耐えれなかったのだ。傾いだ、と言うのが正しい。
「伊藤史郎、お前は死んだ」
死体の表情は変わらない。その言葉を証する様に、世界が広がった。焼け落ちた家の――伊藤の、よく知った我が家の、残骸が見えた。
「火事だ。お前がこの世に囚われた時に吸っていた煙草が原因だと推測される。幸いにも、周囲の民家への延焼はなかった。お前だけが燃えた」
灰色の世界である。白黒で構築された世界である。しかし、こげた肉の色、焼け落ちた髪、煤けた肌の色。死体の色だ。ナイトウはそれらを鮮明に認識する。自分がそこに居た。
「そして、お前の魂が散逸するのを、オレはお前の魂を、より強くこの世に縛る事で回避した」
ナイトウを縛り付ける全身の鎖を指差し――指した手が崩れ落ちた。死体は語る。ナイトウの全身の鎖は、十字と世界に繋がっている。
「そして何分、その為に、オレの分の鎖も全て使い切ってしまった。だから、オレもいつまでここに留まれるか判らん。今すぐ消えるかもしれんし、消え去るのはもっと時間が掛かるのかもしれん」
ぽろぽろと崩れながら。
「もしかしたらオレは天国にいけるのかもしれんし、天国などないのかもしれん。お前は救われた事に感謝しないかもしれないが、お前がオレの繰り人形に為らない、英雄であると言う時点で、オレの体はお前の魂こそが相応しい、と思ったからだ。オレの人生はお前のおかげで、実に有意義なものであった、と伝えたい。だから、後悔は無い」
崩れ落ちながら、燃え尽きながら死体が喋る。
「お前が世界を守り続ける事で、お前と言う存在は保たれ続ける。お前が世界を守る事で、お前は英雄として存在し続ける事が可能だろう。お前はそうしても良い。お前の魂が燃え尽きぬ限り、だ」
「ど、どういうことだってばよ。待てよ。おい、お、オレは――」
――もう、戻れないのか?
現実に未練が無い訳ではない。ナイトウには、まだ、血縁――半ば切られてはいるが、姉も居る。姪も居る。友も居ないわけではない。全て断ち切った、と言っても、断ち切れないモノも幾らでもある。
崩れ落ちた黒い何かは、それでもナイトウを見て、言った。声に哀れむような響きが篭る。
「"奇跡"が起きたとして、他の者が戻る事が出来たとしても、お前は戻る事が出来ない。戻る器が既に無い。だから、無理だ。いかにお前が望んでも、不可能だ」
戻れない、と言う事実がナイトウを打ちのめす。しかし、それ以上に、気に掛かることも言った。まだ、魂が折れる訳にはいかなかった。
「た、魂が燃え尽きない限りってどういうことだよ!?」
「お前は、超常の力を無償で使えると思っていたか?」
何を今更、と、崩れ落ちた、黒い何かが言った。
「無償で使えると思っていたなら、お前はとんでもなく……いや、しかし、オレでもあったのだ、道理は心得ていると信じたい」
黒い何かは、既に人の形を保っていなかった。
「万物の根源を生み出す手段は『燃焼』だ。燃える事で、存在は力へと変わる。草木も、獣も、人も、内部で様々な物が燃える事で動いている。太陽だってそうだ。己の存在を燃やして光っている――では、"英雄"は何を燃やして"奇跡"を起こす? その奇跡の代価は、何だ?」
既に、灰と化した死体が、
「"魂"だ。オレとお前の"魂"を燃やして、今まで"奇跡"は生み出されてきた。そして、これからは……お前一人の"魂"を燃やす事になる」
灰すらも残さずに、
「これを聞いても、お前は"奇跡"を起こす。奇跡を起こせぬ英雄では、魔法を使えぬ魔法使いでは、誰も護れない、と。そんな未来しかオレには見えない。
――それが、"魂"を削る忌まわしい技だとしても、だ」
"ナイトウ"はナイトウに言い残す。
「だからこそ、オレはお前をどうしようもなく英雄だと思う……そんな馬鹿なお前が、嫌いじゃない」
"ナイトウ"は消えた。
――ナイトウの目が醒めた。
太陽は中天に上り、遠くには入道雲、突き抜ける青の空。雀の鳴き声。庭木の葉は深緑。パタパタと走りまわる、下女達の足音。犬もどこかで吠えている。羽虫がぶうん、と耳元に飛び、離れた。命に満ち溢れた世界が広がっていた。
胸を貫く痛みも、傷も無い。ナイトウは腹にのしかかる重さを感じた。少女が疲れ果てたように眠りこけていた。チャカだ。また癒したのだろうか、左腕の包帯が増えていた。
それを見ると、ひどくナイトウの心臓が痛んだ。
「起きたか」
金髪の美丈夫が、申し訳なさそうにナイトウに声をかけた。目元には深い隈。
「俺は――どうしても、お前らに、あの光景を見せたかった。言葉じゃ説明出来なかった、どうするべきか、俺には判らなかった」
見たんだろう? と、タイタンが、ナイトウに言った。
「あ、ああ。オレも、見た」
ナイトウが見たものと、タイタンが見たものは決定的に違う。
『戻れる』と言える彼らは、ナイトウとは違う。
「た、タイタンよぅ、お前はアレを見た後、どうするつもりだった。戻りたいんだろ?」
「あー……いや、俺は。ああ…………」
歯切れの悪いタイタンの言葉に、ナイトウはかぶせた。
「も、もし、もしもだ。戻れるなら、戻りたいだろ。タイタンよぅ。お前も、この世界が嫌いじゃないんだ、けれども、あちらに残したものが、大きすぎる。そうだろ?」
先ほど見た光景が、ナイトウの心を揺らし続けている。
「お、オレだって、お前だって、チャカだって、それこそ、他の奴らだって、全く未練が無いなんて奴は――いないはずだ」
ナイトウは思う。どれだけクソみたいな"現実"でも、安易に捨て去れる奴は、そうはいない。
いや、どちらも現実なのだ、言い換えよう。
(どれだけクソでも、『故郷』を捨てる事は、こいつ等には出来ない)
それこそ、感傷的だと何だといわれ続けようが、かってのゲームであった頃ですら、頑なに他の国に所属する事すらしなかった、タイタンならば、ヒゲダルマなら、チャカなら。
――仲間が戻りたいと思っている。それなら、オレがどうなろうとも構わない。
「それでも、この世界を犠牲にして戻りたいって、俺が言えるかよ……!」
ナイトウの胸倉を締め上げながら、タイタンは言った。
「そんな身勝手、出来るかよ!! お前なら言えるのか、ナイトウ! こっちを犠牲にして、それどころか自分でぶっ壊して、のうのうと戻ると言えるのか!」
"アンリミテッド"には彼らには、迷わない強さがあった。一点特化の特化型。他を省みず、ただ己の目的のみに向かって邁進する強さが、ムショ達にはあった。
ある種、羨ましい、と思う。タイタンはそれが出来ない。
「この世界も現実だろうが、畜生が!」
こちらを立てればあちらが立たず。あちらを立てればこちらが立たず。八方塞がりだ。
――世界も、自分も、救う方法などあるのだろうか?
有るのならば、悪魔にだって魂を売り払っても良いと、タイタンは思う。
心が、どうしようもなく痛い。
ナイトウを刺した事は、友人を傷つけた事は、どうしようもなく痛い棘になって刺さる。
英雄の仮面が必要だ。鋼鉄の仮面が必要だ、とチャカは思う。
――演技しろ、英雄を。タフで、かわいくて、前向きな、以前の自分を。
「……おはよう。話は聞いてた」
野郎二人が取っ組み合いになりそうな光景。夢うつつの中で聞いていたチャカは、それこそ、全く結論がでない問題である、と思う。
「猶予はあんまり無い。それはもう、判りきってる。でも、私達は、あの体験から、まだ1ヶ月か2ヶ月は"持つ"事は判ってる」
幸い、冬場――部屋に暖房がついていない人は居ないはずだ。少なくとも、ゲームを落ち着いてやれる程度に室温は保たれていたはずだ。だから、部屋の中なら、後二、三日、余裕がある。
徐々に制限時間が迫っているのもまた、事実である。けれども、まだ十分に悩む時間が残されているのもまた、事実。残されているはずだ、とチャカは内心に言い聞かせる。
――泣いたり、叫んだりはこの一ヶ月で十分に、やったんだ。
「大体、世界を犠牲にする事だけが、戻る為の手段とは限らない。それこそ、何か見落としが、致命的な見落としが存在するのかも知れない――ハッピーエンドを、私達はまだ探していない。ヒーローなら、ヒロインなら、お話なら、どこかにトゥルーフラグが転がっている。あっちには無くても、こっちなら、ありえない訳じゃない」
致命的に甘い。甘い台詞だと、チャカは言いながら思う。けれども、望みが無い訳じゃない。
「だってここは――ディープファンタジーなんだから。だって私達は――"英雄"だから。それに、私達は、一人じゃないから」
仲間がいたから、ここまでたどり着けた。一人より二人。二人よりPT。PTより、ギルド。ギルドより、全プレイヤー。
仲間が多ければ、"奇跡"だって起こせるだろう。
「…………まだ、探す時間は残ってる、ってか」
「あ、ああ、そうだな。残ってる。リセットボタンを押すのは、今すぐじゃなくてもいい」
タイタンも、ナイトウも、その一言で表情が変わる。
どんなに問題があっても、どんな試練があっても、きっと最後は――
チャカはそんな幻想を抱いた。
ヒゲダルマも目が醒めた。
別室でがやがやと話し合っている今の仲間達が、どういう状態かはヒゲダルマには判らない。
(邪神からも、神からも、英雄からもこの世界を護れ、って言うのは、ちと……酷な話ッスね)
ぼやく。ずいぶんと無茶な事を、神様は言う、と。
いつの間にか寝かされていた寝台から、ヒゲダルマは立ち上がると、見た『ありのまま』を彼らに伝える為に、部屋を出た。
"女神"と繋がった時に得た記憶は、妙になじむ。
なじむが故に、ヒゲダルマは、自分と言う存在は一体何者なのか悩む。
胸の奥底に残っているこの感情は、
一体、誰のものだ?
――人の思惑とは無関係に、時計の針はまた一つ時を刻む。
こうして"十字"はおおむね止まった。
"愚者"はその場で夢を見た。"悪魔"は西から北へと進み、牙を剥こうとしていた。"邪神"の軍勢はゆっくりと最果てへ向かい、北の"共鳴"は最果てへと飛ぶ。
箱庭は激流のような暴力に飲まれ始めていた。
笑うのは"邪神"か"英雄"か?
それとも、誰も笑えぬ結末だろうか。
未来をのぞき見る事は、誰も出来ない。
第四章『忌まわしき技』了