第十話 付き纏う者 (6)
空を駆ける。ナイトウの長衣の腰紐が風に煽られ、バタバタと激しい音を立てる。風を切る音が耳に入る。
時速約六十キロメートル、雀の速度。空を飛ぶには、遅い速度だ。
本来であればナイトウの飛ぶ速度はもっと速い。"竜"と競り合いが出来る程度でも普通に出す事が出来る。しかし、必要なのは速度ではなく、精度。影から影へと渡る"暗殺者"を追いかけるには、並の鳥の視点と速さが有ればよい。
それに別段、ナイトウはゲロスを追い詰める必要が無いのである。大体の行き先は予想できた。
ゲロスの向かう先は市壁の一画、バイカ南西部を見張る監視塔。この街で、かってプレイヤーが入る事が出来た箇所では最も高い塔だ。
この街が実質的な対フェネクへの最前線である為に、塔には常時二人組で市壁外部を見張る警備兵が存在する。以前は人気の少ない箇所であったが、今は違う。優秀な警備兵が常時監視を続けている。
そんな警備兵の目も、傾斜六十度を超える尖塔の屋根の上までは届かない。
尖塔の屋根の上で、ゲロスは街を見た。あちらでならば、こんな時間でも明々と自室に光は灯っていた。街に出たら、二十四時間営業のコンビニだってあった。明かりに溢れているとはとても言い難い地方都市であったが、それでも街はこんなに暗くは無かった。
ぽつ、ぽつ、と灯る松明。本当に必要な箇所にのみ、灯される明かり。街は暗い。
ゲロスは空を見た。空は遥かに明るい。プラネタリウムに行かずとも、満天の星空である。残念ながら、ゲロスに星座の知識は無いが、単純に綺麗であると感じた。
「や、やっぱりココだったか」
昔、ゲロスと遊んだ男が、空に舞っていた。杖を突きつけられ、ゲロスは両手を挙げた。
「チェックメイトか……」
険しい顔をしたナイトウは、何事かモゴモゴと言おうとして、結局何も言わなかった。突きつけられた杖は、ゲロスが気がつくとだらん、と下に力なく垂れ下がっていた。ナイトウのつり上がった眉も、困ったように下がっていた。
「横、いいか」
頷く。尖塔に座ろうとして、ずるっと滑落しそうになるナイトウを見て、ふっとゲロスは笑った。ばつの悪い顔をして、座る事を諦めたナイトウは、夜空に浮かびながら胡坐をかく。
二人の目線が合う。ゲロスは目をそらした。
「な、何でお前あんな事言ったんだ。お前がやるわけねぇだろ」
「だってほら、どうしようもないじゃないか。あの場で僕が出来る事なんて他に無いよ」
「……だ、だってじゃねぇべ、お前が嘘ついてどうすんだべ」
嘘も方便っていうじゃないか、とゲロスは小さく呟いた。ナイトウには聞こえなかった。
「いや、僕だって嘘なんてつきたくなかったさ、でもさ、ゼツエイとジャンヌさん、両方を守る為なら仕方ないさ。現に、ジャンヌさんは守れたし、ゼツエイも守れたよ。ジャンヌさんは未知のストーカーから。ゼツエイは皆の糾弾から……本当は、こっちでも三人で上手くやれればよかったんだけどなぁ、僕は」
「ば、ばかばかしい、それじゃあ何も解決してねーべ……」
確かに、ナイトウから見れば極めてばかばかしい方法だろう。得をするのはゼツエイしか居らず、ジャンヌもけして、本心から幸せになれるとは思わない。だが、全てを飲み込んで、ゲロスは言った。
「いいや、結局ストーカー問題はこれで解決して、後は二人の問題になるさ。ゼツエイもストーカーなんてもうやらないだろうさ、こんな騒ぎの後じゃ、ね。彼は彼女の横に立って、堂々とくっ付けば良い。今、他にジャンヌさんに手を出そうとする奴は、もうウチのギルドには居ないしね」
「ゲロス、お前それでいいのか?」
「いいんだよ……ナイトウには判んないさ、だって、君は身も心も男だからね」
「……やっぱりお前は、オレにはよく判らん」
難儀な奴だなぁ、とナイトウは思う。ナイトウも自身も難儀な性格ではあるが、それ以上にしち面倒くさい奴だ。
「ま、まぁ、それでも何でも、オレはお前をとっ捕まえて、あいつ等の前に引きずり出す」
「え、ちょっと!? ナイトウ、おまっ!?」
ナイトウにはゲロスの事情はうっすらとだが想像も付く。だが、それを許す事は出来ぬのだ。
「そ、それじゃダメだべ……特に、この手のアレコレは。痛い目見せる運営が居なけりゃ、尚更だ」
どうにも、チャカには納得がいかなかった。臭いのだ。いや、体がではない。雰囲気が臭いのだ。こんな臭さは、前にも味わった事が有る――『お友達事件』だ。無論、登場人物も、細部も、経過もまるで異なる話だが、共通する事が無い訳では無い。
追い出されるギルメン、追い込まれるマスター、そして、残る人員という構図。
「マスター、戻ろう。あんな変態が僕らのギルドに居るなんて、驚いたよ……。もう安心だ、僕が居るからね、マスター」
ゼツエイが、ヒゲダルマと、その後ろに隠れるジャンヌの方向に歩きながら言う。邪魔と言わんばかりに、途中に居るチャカを押しのけた。
その手首を、チャカは取る。
「ちょっと待って、ジャンヌはまだ渡せないよ。他に居るかも知れないじゃない、ストーカーが」
何だ、コイツと言わんばかりの表情を浮かべるゼツエイ……蒼の暗殺者は、チャカを見て、表情を緩めた。組し易いと思ったのか、大げさに首を竦める。いちいちサマになっているのが更に臭い、とチャカは思う。
「ゲロスがトチ狂ってジャンヌにまた、手を出さないって保障もない。私達で保護するのが、ベストだよ」
「それこそ、ナンセンスだ。大体、君達は僕らのギルドの半分の人数も居ないじゃないか。しかも、こんな小さな子がマスターを務めるギルドなんて、どれだけ腑抜けなんだ」
「おい、黙って聴いてりゃ適当ぬかしてんじゃねぇぞ?」
ざり、と地面を擦る音。一歩タイタンが摺り足で踏み込みながら口を出したのを、片手で押し留めると、チャカは言った。
「それに、大体、単独犯かどうかも判らない。もしかしたら、ゲロスだけが犯人だとは限らないじゃない。それこそ、もう一人か二人、協力しているのかもしれない」
「お嬢さん、それはありえない。汚い話だけれど、性欲が発散が出来る場が有って、更にちょっかいをかけると思うかい? 気持ち悪い事に、ウチのギルドの連中は既にサカってるよ。全く、汚らわしいったらありゃしないね。見た目がノーマルでも、中身は男同士だ、ホモかって思うな。それはそうと、もし考えている奴らが居たとしても、この状態なら、今更手は出さないだろうさ」
ふぅ、と一拍、早口で言い切ったゼツエイは深呼吸をした後に、続ける。
「……だから、犯人のゲロスが自白した時点で、この問題は解決したのさ。だって、僕らのギルドに居る"暗殺者"は、僕とゲロス、あの汚い蛙しか居ない。ゲロスが犯人じゃなければ、こんなものを作れる訳が無いじゃないか」
そういいながら、ゼツエイは手元の瓶をチャカに見せ付けた。ゼツエイの口は良く周る。段々と得意げになってくるのがまた、チャカを苛立たせる。
確かに、それを作る事が出来るのは男だけだ。ぷぅんと、堅く蓋を閉じてても匂う特有の匂いに、チャカは思わず顔を背ける。本当に臭い。いや、この匂いも臭いが、ゼツエイの態度が臭いのだ。
「やっぱり貴方には渡せない。ジャンヌがあっちで受けた嫌がらせは、別段"暗殺者"じゃなくても出来る。どうして貴方に"暗殺者"がストーカーだと断言出来るの?」
「はぁ?」
虚を突かれた様に、その場に居た全員が、疑問の声を上げた。
「それ、おかしく無いッスか? あんな妙な事が出来るのは"暗殺者"だけって、ナイトウさんが言ってたんじゃないッスか?」
「うん、それこそ、私の見落としだった。そもそも、ストーカーが"暗殺者"であることを知っていたのは、犯人と、私達だけだ」
チャカが滔々と続ける。
「つまり、それが断言できる貴方が、ストーカーだ」
「……っ、証拠がないな、証拠が。全部、お嬢さんの言っている事は、推測に推測を重ねた、推理と呼ぶのもおこがましいものだ」
乱暴にゼツエイは、チャカの手を振り払い、睨みつける。振り払われて数歩たたらを踏んだチャカも、敵意を全力でぶつけてきた。
確かに、証拠も何もないが、真実を付いているのが性質が悪い。何とかこの場を切り抜けねば、とゼツエイが思った時に、背後にドサリ、と何かが振ってきた。
「お、オーケィ、オーケィ。今世紀一番のアホゥを連れて帰ったべ」
ゲロスを投げ捨て、ナイトウは言った。投げ捨てられたゲロスは無様に地面と熱い接吻を交わした。
「コイツが言った、『僕がストーカーだ』っていうアレは、嘘だ。だ、大体、ゲロスがジャンヌたんをストーキングする訳がねぇべ。オレが保障する」
ゲロスを今世紀一番のアホゥと評したナイトウだが、ずいぶんと大雑把な保障である、とチャカは思う。
「そんな馬鹿な、何故言い切れるんだ!」
「そ、それはコイツが言ってくれるさ、ゼツエイよ」
ナイトウも<飛行>を解除し、空から降り立った。涙目で立ち上がるゲロスの背中を押して、促す。
「ごめん、ゼツエイ。僕は君に言わなきゃ行けない事がある――僕の中の人は、女だ。だから、ジャンヌを見て興奮する事はない。だから、僕、いや、私は、ストーカーじゃない」
ゲロスが一歩、ゼツエイに近づいた。気圧されて、ゼツエイは一歩引き下がった。
「私をこんな体にした、この世界がとても、憎い」
己の手を見て、空を見て、ゲロスは心底憎しみを込めて、言った。
「それでも、普段どおり接してくれる君を――今までどおりに接してくれる君を、好きになったんだ、ゼツエイ。だから、君がそう望むなら、何でもしたかったんだ」
ゲロスが血を吐くような表情で、言った。また一歩、ゲロスは近寄った。
「ゼツエイ、君が好きだ。無論、ジャンヌさんも、好きだ。でも、そういう好きじゃない」
さらに一歩、ゲロスが寄る。
「愛しているんだ、君を」
ゼツエイは、ゲロスの告白を聞いた。その言葉を理解するのを拒絶して、悲鳴を上げた。顔面から血の気が引く。蒼白な顔で、周囲を見る。あまりの出来事に、ナイトウを除いて、誰も彼もが呆然としていた。
「よ、寄るなぁっ!」
ゼツエイの精神は、逃げ場の無い牢獄に閉じ込められたかのようであった。ベタベタと体を触ってきたのは何故か。妙に馴れ馴れしかったのは何故か。
ゼツエイは理解したのだ。
――己もまた、狙われていたという事に。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。脳裏に響く警鐘に、ゼツエイは従った。地を走れ、影に潜れ、闇を渡り、逃げ切るんだ。捕食者から、逃げ切るんだ!
「ま、待って!」
影と化し、その場から転進、撤退。全力で逃走を開始したゼツエイに、ゲロスもまた、全力で追跡を始めた。
深夜の、月や星の生み出すおぼろげな光の下、逆転した二つの影の、激しい逃走と追跡劇が始まった。
後に残された者たちは、誰が突っ込むべきか、何に突っ込むべきか判らなかった。少なくとも、チャカには判らなかった。
ジャンヌはナイトウと、納得したかのように、うんうんと頷いていた。
「お、オレの友達の彼女にも、そういうの居たんだよ、つ、都合のいい女でいいから置いてくれっていう奴がよ。そんなの駄目だべって、む、報われねーべなって、そういう事を思い出してだな? ……ああうん、結局、最終的には結婚したべ、そういう事例も有るよってな、って」
「やっぱり、都合のいい女だと駄目だと思うの」
「あ、アレだ、結局は本人達次第だべ……上手く行くと、いいなぁ」
間の抜けた二人の会話を聞いていると、なんだか、色々張り詰めたモノが、どうでも良くなったのも、また、事実。
「……寝る」
「あ、ウチも寝るッス……」
「……俺も寝るわ」
夜は、騒がしく更けて行く。
二の月、三十の日
朝が、騒がしく過ぎてゆく。
結局、ゼツエイはゲロスの追跡を振り切ったようだ。ゲロスは館に戻ってきた後「絶対捕まえるよ」と言い残し、追跡の旅に出た。
昼もまた、騒がしく過ぎた。
結局、複製された指輪を捨てるという事に、ジャンヌは納得したのだ。どうしても気に食わない、相容れない事はある、と言うチャカの意を汲んだのだ。
ぽおん、と、遠く投げ捨てられた<反魂の指輪>は、どこに行ったのか判らない。
夜もまた、騒がしく過ぎた。
夕刻、ジャンヌが「やっぱりギルドに戻って、顛末を説明したい」と言った。付いて来なくてもいいと言うので、"十字"までは見送る事になった。夕刻の"十字"の礼拝の中突っ切って"跳んだ"ジャンヌが引き起こした騒ぎで、チャカがトワにお小言を貰う羽目になったのは、言うまでもない。
十字はいつものように、青白い仄かな光を発していた。
『ストーカー事件』は幕を閉じ、いつもの日常が戻ってきた。
こうして、数日間の喜劇は終わったのである。
そして、深夜。
『こんな体にした、この世界が憎い』
ゲロスの言葉が、チャカの耳に残る。それでもゲロスは、この世界で恋を見つけた。
自分は――どうなのだろうか。チャカは自問自答をするが、解答は出ない。
憎い、と言えば嘘ではない。けして、嘘ではない。
「私、この世界が大好きだった……ゲームだった時はね」
「ど、どうした? いきなりなんだ?」
カノの館の庭、空を見るこの男は、何を思っているのか。チャカにはさっぱり判らない。
この世界に来て、誰よりも生き生きとしているこの男は、この世が大好きなのだろう。それはチャカには良く判る。
「ナイトウ、この世界は、好き?」
「あ、ああ……うん。オレは今、凄い生きている。なにより、オレは今、足踏みしていない。世界を意のままに出来る気分で一杯だ」
「そうかぁ」
ナイトウは満面の笑顔で答えた。どうしようもなく満天の星空であった。
「現実に戻る気は……ある?」
「……な、無い訳じゃないが、なぁ、方法も判らない、手詰まりだから、なぁ」
確かに、そうだ。現実に戻る手段は、全くと言って見つかっていない。
「ぶ、文献漁っても、なんとも判らん事だけだべ、精々、オレらが"英雄"だった事ぐらいしか判らなかったべ……こりゃ、十日後に期待するしかないべ」
他の人達が何か少しでも手がかりを見つけていれば良いのだが、こんな調子では戻る事が出来るのはいつになる事か、と溜息一つ、チャカは吐く。
「そうだね、判らないね……」
ふぅ、と一息吐いた後に、顔を上げる。小さな指輪を弄ぶタイタンが、居た。
「……ん、タイタン?」
チャカが声をかけると、タイタンは指輪を親指で弾く。<反魂の指輪>だ。弾かれた指輪は緩い弧を描き、チャカの手元に収まった。
「やはり、見てもらわないと話にならないと思ってな。説明が難しい。納得して貰う事も難しい。コイツが無ければ、チャカは見る事が出来ないからな」
何故<反魂の指輪>をタイタンが持っているのか、チャカには理解が出来ない。
「え、何」
「ちょっと痛むが、我慢しろ」
「へ?」
重く踏み込む音。即座に鞘走り、白刃が煌く。体重が乗った突きが、チャカの薄い左胸を破り、背に抜ける。何処までも間の抜けた顔で、信じられないものを見るように、タイタンを見るチャカ。
かは、と息を吐こうとする。息が出来ない。
ナイトウの絶叫が聞こえる。
暗転。
"十字"の光が爆発した。真昼のような光が、街中に溢れる。同時に、チャカの手の中の<反魂の指輪>が光を放ち、砕け散った。
「タ、タイタン……どういうことだ! どういう事なんだよ!」
小柄な少女の死体と、返り血にまみれた金髪の男。真昼の太陽のような猛烈な光が三人を照らす。タイタンの表情は、逆光になってナイトウには見えなかった。
「どうもこうもない。俺も、決断するまでに時間をかけ過ぎたと思ってな。ナイトウ、お前も見てから"選べ"。世界の敵になるか、それとも――」
タイタンの表情は、苦渋に満ちていた。