第十一話 鉄鱗の魔竜 (6)
気がつくと口の中にバニラ風味の蛞蝓をぶち込まれたような、生臭く甘い匂いで溢れていた。ぬるぬるとぬたつく肉片が己の口内を這い回り、舌粘膜の上に、甘いペーストを乗せる。
かけらに残った理性がソレを飲む事を拒否するが、口をふさがれた息苦しさで、嚥下を余儀無くされる。丹田からカァっと熱いモノが湧き上がる。
蛞蝓が、口の中から離れた。同時に唇を塞ぐ柔らかい肉も離れる。つう、と糸を引く粘液の感覚が唇に残った。
腹の上に感じる、重石。何かを堪えるようなくぐもった声の後に、再び塞がれる口。また蛞蝓が口腔を弄る、柔らかい肉の味。舌に絡まる、甘い味。
けして不快な感覚ではなかった。むしろ心地良い感覚であったが、蛞蝓が口の中を這いずり回っているかと思うと気分が悪い。
右腕で押しのけようとするが、右腕が動かない。むしろ、右腕の感覚がない。肩口から引っこ抜かれたかのように、あるべきものがなかった。
右腕がなければ左腕で押しのければ良い、そう考え、左手で顔の前に在る何かを触る。
ビクリ、と震える肉は、そのまま固まる。
ナイトウが目を開くと、見慣れた少女の顔が眼前にあった。
(一体これはなんだ何だコレは、そもそも何故チャカが目の前にいる、鉄鱗は一体どこだそれ以前にそもそもオレはどうした、今はいつで、どこだここは)
ナイトウが激しく顔を振ろうとすると、右側頭部にぬるっとした感覚、同時に左側頭部をわしりと掴まれて頭を固定される。たっぷりと一分間、息が詰まるような交錯。ゆるゆると注がれる生暖かい何か。
澱のように溜まっていた体の痛みが、抜ける。代わりに何か大事なものを失ったような、今までの関係性が失われたような感覚。
目の前の少女の唇は赤いものと唾液で汚れ、紅を差したようにてらてらとてかる。
まるで別の生き物のようであった。つぅ、と糸を引く唾液は血が混じり、己の口元と繋がっていた。
周囲を取り囲み、祈る多数の人影、その中心に二人は存在した。
「ナイトウ、ごめんね。その腕、治んなかった」
日が昇る前の闇夜。月はとうの昔に沈み、日は未だ昇らず。灯りは未だにチロチロと燃える家屋が少々。闇の中、照らされた深紅の瞳は涙で潤んでいた。
赤黒い左腕と白い右腕で、ナイトウの頭をチャカはそっと抱いた。
「い、いや、いい。治らねぇモンはしゃーねぇ」
ナイトウは、心の中で泣いた。数年来の親友が、まったく別のものに見えた。
このようなことは望んでいない。
ちらちらと左側に映るチャカの左腕は、赤黒い液体で覆われた痛々しいモノと化し、元の白い肌の部分が見えなかった。それを掴もうとした己の右腕も、また、なかった。
己の頭を抱く、小さな親友の腕を見る事が、辛かった。
少女神と英雄、それを囲む信者の群れから切り離されたように、ヒゲダルマは立っていた。じっと冷静な視線をナイトウの右腕に送る。
目の下を深い隈で彩った髭の大男は、狂気の宴の淵で一人、正気を保とうとしていた。ヒゲダルマは存在しない神に祈った。周りの村人は神に祈った。その差であった。
「ナイトウさんの右腕が治らないのは、恐らく、あの蜥蜴に盗まれた事が原因じゃないか、と思うッス」
重なり合っていた一組の男女の視線が、一人の巨漢に注がれた。日が昇る。朝日を背後に背負い、逆光の中でヒゲダルマは淡々と語る。
ヒゲダルマは己が一度死んだ、と聞かされた時から、何故こうなったのか、という事を彼女なりに回復"スキル"の特性を見極めるという手法で、今までの回復"スキル"の発動時の差異をずっと観察し、ずっと考えてきた。
これは、一人のゲーマーの分析である。正解であるかどうかは、ヒゲダルマには判らない。いまだ仮説と言っても過言ではない。
だが、この時を置いて、この説を話す機会があるとは、彼女には思えなかった。
あまりにも日常からかけ離れ、あまりにも非現実的過ぎるこの説は、同じく非現実的なこの空間でしか語れない。語る機会がない。
彼らの中で、じゃあ試そう、と言いながら刃物を持って身内を切り刻む事は不可能だが――
「暫く前に、チャカさんの右腕をタイタンさんが斬り捨てた。その時には右腕はあっさりと『再生』した」
確かにぼとり、と落ちる右手をヒゲダルマは確認した。その後ずるり、と蜥蜴の尻尾のように生える右手も確認していたのだ。
非現実に囚われないよう、場の空気に飲まれないようにヒゲダルマは言葉を選びながら、続ける。
「だけど、今のナイトウさんの右腕は『再生』していないッス」
地下水道で右腕を切り落とされた少女にまた右腕が『生えて』きて、竜に喰われた英雄の右腕が『生えて』こないのか。
この世界が、全くの異世界、全くの条理が異なる世界であるならば、そういうこともあるだろうという事も十分に存在するのではないか、と思っただろう。
だが、元となったディープファンタジーなるMMOを知らぬが故に感じる。この世界、いや、自分達は極めて遊戯的なものを模した何かであると。
ヒゲダルマは"修道者"の回復スキルも、"死霊使い"の回復スキルも、細かいエフェクトの差異はあれど、同種の結果を残している、と推測する。
"地下水道"の最後の時も、"絶望の迷宮"を出た際も、恐ろしい怪我を負っていた者たちはみな、回復スキルによって『再生』されたのだ。
「そこで、違和感を覚えたのは、アンリミテッドッス。何で彼らは、仲間内で食料を得ながら、更なるPKというハイリスクを犯したのか。それが判らなかったッス。もし、手足がいかなる状況でも『再生』するのであれば、彼らはウチらを襲う必要性は、単純な食料の面からは無いはずッス」
大抵の世界で、人殺しという行為は基本的にハイリスク過ぎるのだ。ハイリスク、ローリターンと言っても過言ではない。
そして、そんな損得勘定も忘れるような、単純な狂気に囚われた者達では、あのような組織だった戦闘行為などは行う事が出来るはずがない。
理由が、皆目見当がつかなかった。この現象を見るまでは。
「きっと彼らは、何か他に切実な理由があったに違いないッス――その理由の一つが、もしかしたら、ドロップをルートされた、という状態になったのかも知れないなら、説明もつくッス」
一昔前のゲームの記憶を強く引き摺る、彼女の頭の中に眠っている記憶。最近のゲームでは採用されていない、大地に落ちた物を盗むモンスターの存在が脳裏に閃いた。
「彼らが得た食料は、無限のものではなく、有限のものだったッス。そして、その事に気がついた彼らは何とかして新しい食料を得る必要があった」
喰われたから、元の所有者の下に戻らなかった。だからナイトウの右腕も戻らない。
もしもこの仮定が正しいなら、実に理性的に狂っている構図が導き出される。
「だから、彼らが『死亡』して、ルート状態を解除されたので"少年"の手足の瑕疵は治癒された。そう考えれば――」
ヒゲダルマの理性は、この理屈では弱すぎると告げる。
だから、続く推論は口にしなかった。
(彼らが"少年"をそのままにしておいたのは、恐らく"保険"ッス)
真っ当な人間なら、虐げられている人間をそのままにはしない。集団に保護された"少年"は狙い通りに治療されて、快復した。
彼らが『狂っていない』ならばもっと良い手段は幾らでも取れたはずだ。何故襲うのか、理由が食料だけでは弱すぎるのだ。
("保険"だとしたならば、恐らく彼らは蘇っているッス。そこまでしなければならない理由は、何っスか?)
理由が判らない。確かに無意味に他人を襲う輩は、存在する。存在するが、そんな無意味な理由では集団で纏まる事など、出来やしない。
ふぅ、と一息つく。妄想の翼を一旦畳む。
そもそもルート理論にしても、穴だらけだ。単純に再生できる力が強いか弱いか、"スキル"によって差異があるだけかもしれない。<美味なる果肉>と呼ばれる"スキル"を使ったチャカも喰われて欠損したではないか。同じ喰われたにしても、なぜ以前のチャカは再生して、今回のナイトウは再生しないのか。問題点はまだまだ存在する。
とりあえず、ナイトウの喪われた右腕を治癒を阻害している原因の中で、これが一番可能性が高いのではないかと、ヒゲダルマは考え、口にする。
「ナイトウさんの腕を、蜥蜴から取り返した上でもう一度治療すれば、あるいは……ッス」
「そ、それなら是も非もねぇわ」
「ナイトウッ!」
不自由そうに、ナイトウは起き上がる。ふらり、とバランスを崩した所をチャカが支える。
「どちらにしても、蜥蜴はオレを狙っている。今も、オレを憎くて憎くて仕方がなく思ってやがる」
大地を揺らしていた振動は、既に感じ取れない程度に幽か。あれが最後の足掻きではないか、と思っていた村人達は、その言葉に、ざわりと不安を掻き立てられる。
「オレもアイツと、決着をつけなきゃならねぇ。アイツの憎しみを、断ち切ってやらにゃいけねぇ」
そんな義理は全く無い、無いがナイトウはこうも思うのだ。
「――オレが変えてしまったなら、始末はオレがつけるべきだ」
朝焼けの空は、流れた血よりも純粋に、真っ赤に燃える。
これもまた一つの、エゴの形。
迎え撃つ準備は整った。
"神風の錫杖"を左手に携え、吹きすさぶ風が今は空虚な袖を揺らす。
朝焼けの大地に、地面が揺れる。微細な振動を感じ、ナイトウが言った。
「く、来るぞ!」
警告の声は支援をきっぱりと拒む拒絶。既に村人達はカノとヒゲダルマに誘導されて、離れた箇所に避難が済んでいた。
この"決闘"の見届け人はチャカ一人だけであった。
納得などしていない。していないが、男がやると言った事だ。どうしてそれを止める事が出来ようか。
左腕に乱雑に巻かれた包帯を掻き毟りながら、チャカはナイトウのエゴを許容した。
「ナイトウは、ばかだ」
もっと卑怯に立ち回ればいい。私みたいに、後から出てきて美味しい所だけを掻っ攫えば良い。ヒゲダルマみたいに、戦わずに傍観者のスタイルを貫いてもいい。カノや、村人みたいに、無力な一般人であればいい。
それこそ、別に、たかが、蜥蜴一匹の悪意を全身に受ける必要なんて、無い。
きっと恐らく、蜥蜴はもうすぐ、死ぬ。
ほっておいても、きっと死ぬ。
勝手に、無残に、知らぬところで朽ちるのだ。
そうやってチャカがナイトウを問い詰めたら。
「オ、オレの右手の恋人が無くなったらどーすりゃいいんだよ」
うへへ、と下品な笑い声を上げてからかった。
全く、アイツは馬鹿だ。大馬鹿だ。
地を割り、ナイトウの足元から一匹の巨大な蜥蜴の化け物が、獰猛な雄叫びを上げて襲い掛かった。
がばりと開かれた、真っ赤な口腔は太陽の光を浴びてらてらとぬめりを帯びた光を放つ。
白く濁った金剛石の牙は一本欠け、喉の奥の猛酸は吐息の形を取ろうと捻り上げられる。
しかし、それだけだ。
大蜥蜴の頭骨はいびつに歪み、大きく開けた口は顎を支える力を無くしたが為。
猛酸は既に尽き、吐き出すものは血しかない。
GUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!
それでも地中から狙い済ませ、割れた大地から大きく突き出した頭。天敵が居た箇所に向けた、必殺の威力を持つ、大質量の体当たり。
もう一度の幸運を狙った、会心の一撃だ。
最早虫の息。虫の息にて、蜥蜴の意気。
当れば致命の一撃。外れれば当然――
――渾身の力を込めた、蜥蜴の一撃はかすりもしなかった。更なる天空へと天敵は舞い上がっていた。蜥蜴の視界など既に無い。無いが、太陽の翳り具合で、判る。
残された感覚は一体何なのか、蜥蜴には判らないが、ずいぶんと大きな奴だと、蜥蜴は思った。
空に舞った天敵を通して見えた、太陽の大きさと比較して、己の恨みなどいかに小さく、ちっぽけであったか。いや、自分そのものがいかに小さかったか。
ああ、届かなかったなぁ。悔しいなぁ。小さい癖に、アイツはやけに大きく見える。
「に、二度目は通じねえだろうがよ!」
ぎらぎらと光る赤い小さな太陽が、蜥蜴の体を焼き尽くす雨となって降り注ぐ。鉄の鱗が爆ぜ、割れ、溶ける。
最後に衝撃一つ。
頭蓋を砕いた<炎弾>の一撃。蜥蜴の長い生涯はそれによって幕を引かれる。
眼窩に刺さった"炎を呼ぶ物"が弾かれ、乾いた音を立てて大地に横たわった。
どさり、とナイトウが大地に再び降り立った。
かって人が住んでいた痕跡を残す"村"を見て。炎と酸で穿たれた農地を見て。蜥蜴の横たわる大地を見て、左腕の包帯が痛々しい少女は言った。
「これは……酷いね」
蜥蜴を見て、ナイトウを見て、村を見た。
本当に酷い有様で、本当に不幸な出来事だった。人によって、竜によって、襲われた村は灰燼に帰した、と言っても間違いではない。
でも、この地に住む人々は、まだ、生きている。ナイトウが守ったのだ。
このことぐらいは、誇っても良いだろうと、チャカは思う。
竜退治の英雄を讃える声が、足音が、彼ら二人の元に駆け寄る。新たな伝説の幕開けを讃える声が聞こえた。