第十話 鉄鱗の魔竜 (5)
大地がごつごつと揺れた。恐らく、地面の下を掘り進むあの大蜥蜴の立てている振動であろう、とナイトウは推測する。
ぶらぶらとままならない右腕は一旦諦めて、ぎこちなく動く左手で腰のカバンから予備の"神風の錫丈"を取り出し、大地を突く。限界ギリギリまで鍛え上げたこの杖も、"炎を呼ぶ物"と比べると一段、劣る。
紙一重の差とは言え、性能の劣る装備で"竜"を迎え撃つ事は少々不安が残った。
何を馬鹿な事を、とナイトウの理性は告げる。
(装備よか、オレの体がガタガタな方が明らかに問題だろ、常識的に考えて)
ガタガタなのは相手も同じだ。それに、使い物にならない箇所の数だけなら、鉄鱗の魔竜よりこちらの方が少ない。つまり、こちらが優位だ。額から流れる血がナイトウの片目に入った。赤く染まった視界で、戦闘プランを考える。
大蜥蜴はきっと、何かやらかしてくる。
地面に潜る"竜"など、ナイトウはこの世で見た事がない。空を飛ぶ"竜"は居た。跳ねて壁を蹴りながらこちらに襲い掛かる"竜"も居た。海を泳ぐ竜も居た。砂の海で、砂色の擬態をした竜も居た。中空を滑るように這いずったのは――ああ、かっての邪神か。
しかし、地面に潜った竜はいまだに見たことがない。
ああ、いや。一匹居たか。目の前の新しい"竜"だ。
今までの記憶にない、全く新規の敵だ。鉄鱗の魔竜は、まったく別の蜥蜴へと変わったのだ。
「しょ、初見は、キツイんだけどな」
大きく息を吸って、吐いた。
煙草が恋しかった。前に宿屋で嗅いだクソッたれた紫煙は、期待していたヤニとニコチンの織り成す、毒を具現化したような匂いとは程遠かった。甘ったれたパイナップルを燻したような煙だった。こちらであちらの煙草はまだ見つからない。
ゴツゴツと揺れる大地は、ひとしきり響き渡った後、静まる。
ナイトウの第六感的な感覚は、静まり返った今の方が強く"敵"を感じる。今までの直線的な魔竜とは異なった、ひどく捻じ曲がった、悪意。
ナイトウの背後から大勢の足音が聞こえる。ここはまだ危険地域だというのに、何故彼らはここを目指してくるのか、ナイトウには理解出来なかった。
「よ、る、んじゃねぇ」
叫んだ、つもりであった。だが、押し出したはずの呼気が上手く出ない。ひどく掠れた声が漏れた。その癖に、ぜえぜえと漏れる自分の呼吸音ははっきりと聞こえた。
再びゴツゴツとした地響きが響いた。震える大地の震源から、蜥蜴の位置取りが危険だ、とナイトウは感じる。
緊張の糸が、また強く張りなおされる。
じわりじわりと寄る振動と、わあわあと歓声を上げながら寄ってくる集団と、仲間。
拒絶の声が出れば、早かったのだが。
出ない声に諦めをつけ、水平に杖を振る。身振りでわかって貰えるだろうか。
ここは危険地域なのだ。
ナイトウが"神風の錫杖"を振ったのを見て、チャカは足を止めた。
チャカが足を止めると、周りの者も皆、足を止めた。歓喜の声さめやらぬ中、チャカはもう一歩足を踏み出そうとして、息を呑んだ。
ナイトウは、ひどい有様であった。右腕が千切れそうにぶらぶらとしている。全身が真っ赤に染まっている。杖を持つ左手はなんだ。左手からぶらぶらと垂れ下がっているのは皮だろうか。おおよそ人の外見を留めているものの、ぱっと見て判る大怪我である。
死んではいない。居ないが、大怪我だ。だけど、ここまで鉄鱗の魔竜はナイトウがてこずる相手だったろうか。否、とチャカの記憶は答える。鉄鱗の魔竜は強いが、単純だ。型に嵌めれば、無傷で倒す事もナイトウならばさほど難しくない。
慣れ親しんだ場所、慣れ親しんだ地形、慣れ親しんだ敵、と、ここまで考えて、チャカはようやく気がついた。
全く状況が異なるという事に。場所も、地形も、全くの初見だ。そして、鉄鱗の魔竜は大地に潜らない。全くの初見だ。
初見の相手を型に嵌めるのは、極めて困難という、当然の事実にようやく気がついたのだ。
単純な事故ではない。魔竜が負わせた傷は、当然の帰結であったのだ。
「ナイトウッ! 今行くから!」
なら、全力で挑まなければ、せめて、傷を癒さねば、それなら、自分が――
焦る。刻一刻と、ナイトウの命が消費されている事に。足元に広がる血だまりは、竜のものではない。
自分が何とかしなければ、ものの数分後にナイトウが『死ぬ』。
嘘のような、認めたくない事実に、焦る。
チャカが歩み寄る。焼け爛れた麦穂を踏みしだく、サクサクとした軽い音が、ナイトウの鼓膜を揺らした。
「――――来るなァッ!!」
ようやく声が出た。血の混じった痰を吐きながら、ドゥルドゥルと徐々に振動が激しくなる大地を見据えて、ナイトウは叫ぶ。
「絶対に来るんじゃねぇ!!」
恐らく、絶対、大蜥蜴の野郎は地面から飛び出しての一撃をかけてくる。側面か、背後か、それとも足元か。不意を打っての一撃を大蜥蜴はかけてくるだろう。
お互い、一撃を与えるチャンスは限られている。
(いっそ、飛ぶか? いや、飛んだら……)
判るのだ。飛んだら飛んだで、周囲の面子が餌食になる。"蜥蜴"の悪意はそれほどまでに、強い。
(いいぞ、それならオレを狙え、オレを。ゼッテー、オレを狙え)
引きちぎれそうな右腕より、ギリギリと痛む胃。振動を読むナイトウの視界に、赤と白金がちらりと舞った。
「ば、馬鹿、絶対に来るんじゃねぇ!!」
ちらりとナイトウの意識が"蜥蜴"からずれる。その瞬間を見逃す蜥蜴ではなかった。
GROOOOOOOOOOOOOO!!
ナイトウの足元が崩れる。やはり足元か、と八割方の予想が的中した。予想は的中したが、行動が一瞬遅れる。地面を蹴って、必死でがばりと開いた口から逃れようとする。刹那の遅れが、蜥蜴に味方した。ナイトウの右腕をガチリ、と食いちぎり、大きく開いた穴に潜りなおす。もう一度同じ事をしてやれば、いかな"杖持ち"といえど、勝利できるだろう。
(ツギデ、ケッチャク、ツケル)
失った体液、失った感覚、失った命は確かに重い。だが、これで等価だ。奪われたものは奪わねば、気がすまない。朦朧とする小さな脳味噌で、失われていく思考の中で、蜥蜴は勝利を確信した。
大穴に再びもぐりこむ際に、"杖持ち"がまた真っ赤な光を放った。大丈夫だ。もう、喪われるものなど何も無い。
再び大地にもぐりこみ、蜥蜴は無傷の時より遥かににぶい動きで、カリカリと大地を削り続ける。耳も、目も、鼻も、全てが効かない。それでも――。
ナイトウは腕の痛みを既に感じなかった。ただ、噛み千切られる際にブチリ、メリメリという音を聞いただけだ。鋭く、固すぎる蜥蜴の顎は、万力の力を持って一気にナイトウの腕を引っこ抜いたのだ。
はじかれた様に間合いを開け、放った<地獄の炎>が蜥蜴の頭を叩く。真っ赤に燃え盛る爆発がナイトウの喪った右袖を揺らす。更にだくだくと血が流れるのが判る。
血を流しすぎた。急速に真っ暗になっていく視界と、崩れる体。周りがワァワァと煩い。
真夏なのに、寒い。
ナイトウの意識が闇に囚われる前に見たのは、白金の少女が泣きながら縋る光景であった。
どす黒いどどめ色の瘴気を放ちながら、必死で自分の口に自らの手を差し出そうとする、その様を見て、ナイトウは残された力全てで、歯を食いしばった。
その肉の一片たりとて、口にするまいと。
「ナイトウ、ナイトウ! 死なないでよ、絶対に死なないでよ!」
寄るな、と叫んだのはこの結果が予想できていたからだ。己一人の事を考えたなら、警告を発するだけの時間があれば、避けれただろう。
(馬鹿なんだ、ナイトウも、私も)
警告を無視して、チャカが治療の為に寄らなければ、ナイトウは傷を負うこともなかったろう。
誰も傷つけまいとして、馬鹿正直に警告を発しなければ、ナイトウは勝っていただろう。
それでも、放置できる状況ではなかった。蜥蜴がもう少しタイミングを遅らせれば、ナイトウは失血の末、意識を失うに到っただろう。それは、蜥蜴の完全な勝利を意味する。
誰が悪いわけでもない。この場でお互いがお互いのベストを尽くそうとした結果なのだ。
「この……あほう! どあほう!」
ナイトウのちぎれた右腕から、どくどくと血が流れる。チャカは傷口に己の血液を振りかけてみる。止まるが、あまり効果が無い。
やはり、喰わせなければ、効果が薄い。直感的に悟る。
――他人の為に、己を傷つけることなんてしたく無い。
そもそも、何より大切なものは自分で、何より可愛いのは自分だ。何で他人の為にそんなに苦しまねばならないのだ、とチャカは思っていた。
だが、ナイトウは違う。
何でこいつは、見も知らぬ他人をも守ろうと思ったのだ。いや、身内だけなら判る。ヒゲダルマを巻き込まない為に村の外まで引っ張って行ったのも判る。でも、途中の、勝手に矢を打たれてタゲが跳ねたのは、そんなの知らん振りしてれば良かったのだ。
蜥蜴がばか者を叩き殺した所で、後ろから集中砲火をかけてやればよかったのだ。それで勝負は決まったのだ。
でも、ナイトウが取った行動は、違った。
(汚い考えをした自分とは違う、ホンモノの英雄だった)
今現在もわざわざ、こんな汚い自分の心を守ろうとしている。
悔しさから、涙を流す。
血が出るまでにかみ締められたナイトウの口は真一文字。ほんの半月前の苦い思い出を思い出したのだろうか、己の意思で固く閉じられた口は<美味なる果肉>を拒む。
胸糞が悪くなった。畜生と思った。こんな綺麗なままで、こいつを逝かせてなるものか、と思う。
(英雄なんかに、させてやるもんか!)
小さな口が、己の傷にまみれた白い手の平に噛み付き、食いちぎる。グチグチと噛みしだき、躊躇無く口付けをする。閉ざされた歯を舌でこじ開け、流し込む。
(勝手に守って、勝手に傷ついて、勝手に死ぬなんて、そんな自分勝手な英雄なんかにさせてやるもんか!)
どす黒い感情の暴れるがままに、<美味なる果肉>の華が咲き乱れる。
少女の体が削れるごとに、英雄の体が少しずつ復元されて行く。
肉を食み、砕き、また流し込む。
チャカの左腕に、小鳥がついばんだような傷が十を超えた頃、ナイトウのずるむけた左腕に赤子のような新しい肌が張った。二十を超えた頃、右腕から流れる血が完全に止まった。
三十、四十、五十。傷が増えるたびにどこかしらの肉が埋まる。
自分勝手でない友人を、自分勝手な自分の肉で埋めてゆく。その行為に一種陶酔したような愉悦を感じながら、続ける。
その光景を眺め、周囲を取り囲む村人達は、まるで神聖な儀式を見守るように、跪いて祈った。
ヒゲダルマもその場で祈る。
どうか、新たな奇跡が起こりますように、と。
祈りが神に通じたかは判らない。
ただ、夜闇にあってなお一層暗い、その儀式の瘴気は、天を突くが如く立ち上る。
カノが気を失っている兵士達を縛り上げて、村の広場に集めている間、人の肉と家が焼ける不快な匂いに混じり、甘ったるい花の香りが微かに鼻につく。
郊外の方は意識的に見ないようにしていた。恐らく見てしまえば、カノ自身も取り込まれるからだ。
一種狂的な、人の踏み込んではならぬ領域は、魔道に限らず良くある事だ。
人の間で天才と呼ばれた娘は、自分の限界も良くわきまえている。踏み込んではならぬ領域は、必ずあるのだ。
竜の棲家然り、魔の洞穴然り、権謀術数渦巻く人の王国中枢部然り。
――果たしてあれは、一体何の領域であろうか。
ちらりちらりと覗き見ながら、師の言葉を思い出す。
『動く骸骨の目を見るんじゃねぇぞ、あいつ等は仲間を増やしたがっているからな。魔道の更に深みに魅入られる前に、引き返せる所で必ず引き返せよ』
これほどまでに、この言葉がありがたく思えた事はない。
しかし、どうしても、ちらりちらりと見てしまうのだ。あれの正体は一体、何物であろうかと。
神ならぬ人の身で、人の身に余る奇跡を呼び起こす。
カノは信心深い輩ではない。恐らく、神と呼ばれる超越者達も、魔法と呼ばれる技術もそのうちに解明できる現象なのではないかと、心の底では思っている。人の英知を信じている。
だが、目の前でドン、とそのような奇跡を起こされると、それが、揺らぐ。
神ならぬ人の身故に、だ。
夜が白み、朝焼けを伴う太陽が昇る頃、ナイトウの意識は戻った。地鳴りの気配は、幽か。
朝焼けの太陽の下、大蜥蜴の最後の足掻きが、始まる。