第八話 鉄鱗の魔竜 (3)
暴風と轟音が吹き荒れる。
たった一度の竜の咆哮で村はめちゃくちゃになった。
夜空をぽかん、と呆気に取られて見上げていた者達が見たものは、巨大な影が一回り大きくなったとたん、空を駆ける男が忽然とどこかに消えうせた光景であった。
直後、空中三十メートルで炸裂した、竜の咆哮が吹き荒れた。天敵を消し飛ばさんと襲い掛かる衝撃の後の轟音。地上の傍観者達は圧搾された大気と音の波に飲み込まれた。
キャンベラが、ベリエンが、兵士が、村長が、女が、子供が、ヒゲダルマが、ビリビリと揺れる空気の波に飲まれる。咄嗟に耳を覆えた者は幸運であった。耳を覆えぬ者は鼓膜を突き破る音の波に飲まれた。人を飲み込んだ波は家屋も飲み込み、押し潰す。
更に、大地に突き刺さる勢いで竜が着地する。着地した際の衝撃と風圧で押し潰された家屋の建材が空に舞う。木片と共に人片も吹き飛ぶ。
ただ吼えただけで、ただ飛び込んだだけで、竜は人の村を半壊させた。
だが、竜は人の村に興味は無い。
竜の頭は空を見据える。空中一点に存在する、己の天敵を見据える。
錐揉みながら堕ちて来る、天敵を見据える。
鉄の鱗を持つ大蜥蜴が、猛然と息を吸い込むのを確認したナイトウは、反射的に因果を捻じ曲げる勢いで加速した。<高速飛翔>で、更なる上空を目指し、飛ぶ。
――数ミリ秒、遅かった。
爆音と衝撃がナイトウの全身を揺らす。軽く意識が"飛ぶ"。制御を失い、ナイトウは加速したまま、遥か上空に投げ出される。
大地がナイトウを縛り、再び縫いとめんと重力の手を伸ばしたのが十二秒後。朦朧として歪む世界をから脱却し、落下する自身を認識するのに八秒。感覚を取り戻すのに六秒。地面に叩きつけられるまで残り二秒、ナイトウは空で<咆哮>を貰うのは極めてまずい事を学習した。
もし上方に身を投げ出していなかったら。十分な高度を確保できていなかったら。
その時に出来上がるのは地面とナイトウのペーストだったろう。
そんな終わり方はぞっとしない、ナイトウは錐揉みながら大地に落ちる。落ちながら考える。
この三十秒は以前ならば僅か一秒――ほぼ無価値な行動不能時間が存在するだけの攻撃だった物に、意味が出る。ナイトウは、変わってしまった法則を実感した。
確かに変わった。自分が変わった、世界が変わった、法則が変わった。
(――いや、それでも何も変わっていない。オレも世界も、常に変わっていた。いつでも、どこでも)
今更法則が多少変わろうと、ナイトウにとってはよくあることだ。
総じて、何も変わっていない。どこまで行っても同じ世界だ。
もう一度<飛行>を起動しなおすのに一秒。大地まで残り一秒でナイトウは立て直した。耳がうわんうわんと唸っていた。
眼下に広がる光景は、凄惨な物と変わっていた。人も建物も、子供が崩した積み木の様に散らばっていた。
ヒゲダルマは無事だろうか、カノは無事だろうか。
そして、チャカは無事だろうか。ナイトウがざっと空から見渡しても、ひっくり返した玩具箱のような光景からは探すことが出来なかった。
代わりにナイトウの目に入るのは、苦痛に満ちた世界。曲がらぬ方向に曲がった手足、動かぬ体、埋まった何か。目を背けたくなるような光景が広がる世界である。
「こ、こんちくしょうが!」
無慈悲な世界に、改めて怒りがこみ上がる。得意げにこちらを見る蜥蜴野郎が憎々しい。
天空から駆け堕ちて来るナイトウを睨みつけていた竜が、次の手を打つより早く、ナイトウは反撃の手段を考え付かねばならない。既に竜は跳びかかろうと両足に溜めを作ろうとしている。ナイトウの思考が高速でまわり出す。
空中に留まり続けて、魔法を撃ちつける事は可能か?
いや、<飛行>途中でのスキル使用は大きく制限を受ける。そもそも装備も不適、大半の"スキル"が封印された状態だ。
"原理の杖"を放棄して、の"炎を呼ぶ物"に切り替えるか?
スキルの封印はとけるが、今すぐに持ち換えるのは隙が大きすぎる。一ミスの危険が大きいので推奨できない。何より、更に、ここで"スキル"を使ったら――
瞬時の判断、ナイトウが選んだ行動は、竜を村の外へ誘導する事であった。
錐揉みしながらの落下から、地面ぎりぎりの所で低く地面を這うようにLの字ターン、更に加速、竜との距離を一気に詰める。
今にも飛び掛ろうとしていた竜は、ナイトウの唐突で愚直な突撃に対応の変更を迫られた。たわめた前足を押し出すようにぶつける。地面を巻き込み、猛烈な速度で石が爆ぜ、鋼鉄の爪がナイトウを襲う。
常人ならば一発一発が致命傷となる弾丸のような石を避けもせず、ナイトウは腕に食い込ませる。鋼鉄の爪を紙一重で避け、更に軌道変更。跳ね上がる軌道を取ったナイトウは竜の横っ面に"原理の杖"を振るう。
ナイトウの腕ほどもある、金剛石の牙が、加速の勢いと魔力の勢いで硬い音を立てて叩き割れる。ついでに食い込んだ"原理の杖"が竜の首を横に張り飛ばす。
そのまま空を駆け抜け、一気に竜の真後ろを取ったナイトウは、一目散に逃げ出した。
(敵意を稼げ、稼いだら村から引き剥がせ!)
竜とナイトウが全力で戦えば、こんなしょっぱい村など、跡形も残らない。
それに恐らく、竜がもたらす被害よりも尚大きい被害を、ナイトウがもたらすだろう。
ヒゲダルマはとんでもない勢いの爆風爆音、猛烈な勢いの土砂と木材に飲み込まれた。
思わず近場に居た村長を庇い、地面に埋まる。治まった所に更に男が飛んできた。腕と足が妙な方向に折れ曲がっている。とりあえず両方瀕死だ。死にそうだ。特に村長が酷い。
ヒゲダルマの耳から血が流れる。きいんと響く音が収まらない。
このままこの場に留まることが一番まずい、とヒゲダルマは思った。この場にいる生者を纏めて逃げなきゃならない。あの蜥蜴はでかすぎる。
「うぅ……」
うめき声がまだ聞こえるうちはまだ生きている。だから、まだ、大丈夫。安全な場所へ行なきゃならない。だが、行ってどうする? 治す方法なんて無いのに。
それでも、ヒゲダルマは手を離せない。
「ヒ■っ、ナ■■■は!?」
もう聞き慣れた感のある、甲高い声。ひどく聞き取り辛いが、誰だかは判る。
ああ、治す手段は一応、あった。
何度か転んだのであろう、砂と埃にまみれて普段よりもくすんだ白金の髪の少女が、周りの怪我人を無視してヒゲダルマの前に立っていた。
全部無視して、男の心配をする。それが、ヒゲダルマに不快感を覚えさせる。
――尤も、理解は出来た。
明々と燃える炎は、半分が消えた。それでもまだ、明りとしては十分だろう。"竜"は頭をいきなり張り飛ばされた後、ハムストラから背を向け、まるで見当違いの方向に暴れ始めた。
「あれは、何だ」
器用に八の字を描きながら、村から離れようと飛ぶ人影。竜は翻弄されながら徐々に村外れの方へ誘導される。
「……人か? それとも、魔物か?」
ハムストラは周囲を見渡す。己の配下の猛者どもは既に逃げ去っているだろう。逃げれなかった奴らは仕方が無い。死んだかどうにかしたのだろう。
最初からの取り決めどおりだ。万が一は各自脱出し、生存せよと。
己の背にある弓を確認した後、まだ潰れていない屋根の上にハムストラは上る。
「仇の一つ位は取ってやらねば、な」
どんなに酷い部下でも、部下は部下だ。
一気に引き剥がしすぎると、敵意が蒸発する。距離を離しすぎると、猛酸の吐息を吐かれる。注意をひきながら、猛酸のレンジに入らぬよう、打撃の間合いを外しながら、ギリギリの距離を取りながらの誘導。
被弾を減らしながらのナイトウの八の字飛行だ。
それでも爪がかする。礫があたる。余計な誘導と言う行為が、消耗を倍加させる。それでもナイトウは誘導をやめなかった。
周りの為でもあるが、己の為でもある。
魔法使いが単騎でBOSSを狩る為には、引っかからない十分なスペースが必要だ。壁となる戦士や他職が居ない場合、かっては、接敵されずに戦う必要があったのだ。だが、今もそうであるかどうかはナイトウには判らない。ただ、現時点での最適解を割り出す時間は決定的に不足していた。
かっての風習に縛られていたのはナイトウも蜥蜴も同じであった。
ぶんぶんと飛び回る天敵は、丁度前足が届くか届かないかの距離で飛び回っていた。だから本能的に追いかけた。もしも、もう少し離れたなら吐息の範囲に入るのに、自ら距離を取る行動を思いつくことは無かった。竜は疑問にも思わなかった。
村から僅かに出た場所で、ナイトウは存分に力が振るえる場所を確保した。竜は存分に力が振るえる場所が確保できない。その思考も無い。血が滾る敵に、ただ己の爪を、牙を突き立てることを考えていた。
「そ、そろそろやれっな」
飛び回りながら、"原理の杖"を"炎を呼ぶ物"に持ち換える。杖先に滾る魔力の形が、業と燃える焔に変わる。<飛行>を解除し、足元の草をなぎ倒しながら着地する。
(ここからが、鉄鱗狩りだ。オレのオンステージだ)
ナイトウの薄ら開きの目が、更に細く研ぎ澄まされる。ナイフで切りつけたような視線を、鉄鱗の魔竜に送り込んだ。
重装甲で耐え、多種多様な防御スキルで弾き、近接攻撃で相殺を起こし、敵の攻撃を無効化する。そんな戦士でも間合いは重要だ。
戦士と比較すると、魔法使いの装甲は薄い。防御スキルも極少数。相殺を起こすスキルなどほぼ無い。物理的な打撃に極めて弱い。それらデメリットを全部帳消しにするのは、遠距離攻撃という特性である。これを使いこなす事は極めて難しい。
間合いの取り方が戦士以上に重要なこの職は、使い手の熟練によって、評価が二分される。
ナイトウは、廃人面子の中では弱いと思われている。
実際は、異なる。黎明期から最終イベントまで、やり込み続けた時間は伊達じゃない。装備品、能力値、スキル等の詳細の検証と構成。膨大なノウハウの集積、及び実証。全てが一級品だ。
単に、極少数ギルドである事と、ちゃらんぽらんな言動が、身内以外に名を知らしめなかっただけである。
<白炎の壁>が膨大な光量を放ち、鉄鱗が容易に踏み込めない空間を形成する。白く燃え盛る炎は周囲の雑草を焼き払いながら、巨大な炎の壁を形成する。
息苦しくなるような熱と煙があたりに満ちる。
更にその場で<火弾>の連続発動。"炎を呼ぶ物"の先端から、対物ライフルの弾丸の如く、高温高圧で打ち出される炎の弾が魔竜に放たれる。
打ち出された炎の弾丸は魔竜の全身を覆う鉄鱗を貫通し、蓄えられたエネルギーを存分に放出する。鱗ごとごっそりとえぐれ、中の血肉を焼く。
猛烈な炎の弾丸の嵐に耐えかねた魔竜が、大きく踏み込んでナイトウに前足を振り下ろす。
空気を押し潰す音を立てながら、頭上から叩きつけられる、白く濁ったダイヤモンドの爪を、地面を蹴り大きく後方に跳躍して避ける。夜露に濡れた草を踏み散らし、滑る足。片手を突いて体勢を整える。
実体を持たない炎の壁は、敵の移動を妨げない。ただ、焼くだけだ。踏み込んだ魔竜の鉄の鱗は一気に焼かれ、赤熱する。魔竜を炎の壁に踏み込ませるまでは成功、<足よ萎えろ>を続けて放つ。移動拘束に失敗、不発。
焼かれた足に苦痛の悲鳴。魔竜が大きく転がって白炎の壁から脱出。間合いが開きすぎた。
鉄鱗の魔竜が大きく頭を振り、息を吸い込む。咆哮とはまた違うこの動き。
「や、ヤベェっ!」
ナイトウが咄嗟に発動できる防御"スキル"はもう無い、が、ふと思いつく。
「南無三!」
<地獄の炎>を大地に向けて炸裂させる。爆炎が舞う、爆発が起きる、土砂が舞う。竜の口から酸のシャワーが吐き出される。
触れる全てを溶かすような液体が、本当に酸なのだろうか? ナイトウには理解し難い液体であった、だが、検証は後でも出来る。
爆発の衝撃で舞い散る土砂に引っかかり、溶かす。爆風で散らし、薄まった吐瀉物はそれでもナイトウの腕を侵食する。肉を焼くような音が当りに広がる。
ひり付く痛み。
堪えながら離れすぎた距離を、また縮める為に<飛行>を起動。ずるり、と腕の皮膚が爛れて落ちる。石礫が肉に食い込み、皮が完全に脱落するのを妨害していた。
(か、軽い負傷だ)
もう一度ナイトウは空に駆け上がり、状況の立て直しを図る。
こんな曲芸は早々成功しない。ギリギリの綱渡りだ。
軽微なミスで、圧勝から一気に引っ繰り返る。
それが魔法使いのBOSS狩りだ。ナイトウは続けてのミスを許されない。
巨大な竜と、炎の魔術師。
幻想的な光景であった。神代の英雄の戦いはこういうものであろうか。
戦士としても、指揮官としても人の域を超えないハムストラは、大弓を構えながら、目を奪われていた。
竜が牙で、爪で、尻尾で、比較するとあまりにも小さな魔術師を飲み込もうとする。それを全て紙一重で交わしながら、稲妻のような動きで、人の身に余る業火を操る。
圧倒的であった。あの巨大な竜が、見世物小屋の獅子のように、調教師に使役される。炎の鞭で打ち据えられた竜が、上手く誘導されて、踊る。
あっ、とハムストラは小さく息を呑んだ。
竜が吐いたブレスと、炎の魔導師が放った大爆発が合さった。その後、魔導師が空に舞い上がる。竜の目線は魔術師を追い、体は硬直を見せる。
射手としては見逃せない、絶好の射撃の機会。
ギリギリと引き絞ったハムストラの大弓から、一本の矢が放たれた。
奇跡の一射。緩く弧を描きながら飛んだ一本の矢は、丁度上を向いた竜の眼球に飛び込み、刺さる。
竜の角膜を破り、縦に裂けた瞳孔を抜け、文字通りの水晶体にひびを入れ、割る。
人の放った矢が、竜の視界を奪った。竜は、全く気にも留めていなかった思わぬ伏兵に、首を向ける。
痛みと怒りの咆哮が、辺りを揺らす。