第六話 鉄鱗の魔竜 (1)
薄ぼんやりとした半月の月明りに照らされた、少女の裸身は同性から見ても妖しい色香があった。髪から流れた水滴が幼い肢体に張りつき、垂れ落ち、流れる川面にささやかな波紋を落とす。
伏竜大河の水の流れは穏かだ。もう少し上流に行くと、真夏でも身を切る冷たさになる、とカノは言った。
チャカはそれでもいいと思う。もっと凍えるような冷たい水で身体を清めたい。
昼間は明るく振舞える。けども、汚れものを取り替える時の匂い。血のべっとりとした腐った匂い。鉄のサビた匂い。疎ましい匂い。
この一週間、チャカは匂いに非常に敏感になった。
ちゃぷり、と小さな両手で水をすくい、頭から流す。でも、今日はほとんど無い。収まってきている。気持ちの沈みも今日は薄い、とチャカは念入りに、念入りに全身を洗う。
神経質に身体を洗うチャカの横で、カノはざぶんと川に身を浸す。
"不死の姫"が夜に出歩くのを見かけ、邪悪の儀式でもするのかと恐る恐る尾行したのが初日。
必要以上に汚れ物と身体を洗うチャカを見て、昔の自分を思い出し、初めてならそんなものだという体験からつい「大丈夫、そのうち、慣れる」とカノが口を出したのがきっかけだった。
何故かその日から一緒に水浴びをすることになった。
話してみたら、多少ズレた所もあるが、極めて『真っ当』な子供だ。
確かに"異常"な力をカノは見た。邪術と謗られても仕方の無い力だ。しかし、カノの過去もそんなものだ。異常な天才……確かに異常の度合いが違うが、魔導師として早熟に過ぎた自身の境遇と、目の前の小娘の境遇は実は極めて似ているのではないだろうか。
――魔導師ならば、一歩引いた視点から冷静に戦場を眺めろ。客観視だ。
彼女の師がよく言った言葉だ。よく飲み、よく打ち、よく遊ぶ。魔導師としては異端。しかし、魔術を使える兵士としては優秀だった師の言葉だ。
目の前の小娘が、カノ同様にざぶんと冷水につかり視線を合わせた。
「最近のナイトウが臭いと思うん。カノはどう思う?」
「確かに、そろそろ"馬轢き"ごと洗濯するべきだと思う」
ここ数日の彼女達の話題は専ら天気とナイトウと、竜の事だ。恐る恐るチャカが話題を出し、淡々とカノが応える。会話が続くのがその二つぐらいだったのだ。
「竜が出るって言うけど、ホントかなぁ……」
「恐らく、旅商人達の与太。そもそも、村の消失も怪しい話。一人か二人ぐらいは生き残りが居てもおかしくない」
そう、おかしくない。人っ子一人残さず消えるというのは、尋常ではない。そして、今までそんな村を見かけていない。恐らく与太話だ。
「じゃ、一体何で私達が行くのかな」
「あるかどうかを確かめるのも、重要な任務。無駄と思ってもやらなきゃいけない」
実際に本当に無駄だとカノは思うが、しかし、もし、万が一もある。
「…………ん……何の音?」
唐突に、チャカが動きを止めた。村の方から、わぁわぁと響く音が――
夜闇に紛れて密かに進む、影多数。
金属を徹底的に避けた、厚い皮の鎧に身を包み、静かに『村』が見渡せる際まで近づく。
闇夜の中でカツ、カツ、カツッと石と鉄片、数度打ち合わせる音。数秒後小さな炎が火口に灯る。灯った小さな火種を消してしまわぬよう、おが屑に移す。火種がぱぁっと火となり燃え上がる。燃え上がったおが屑から、火を蝋燭へと移す。
この間僅か数分。慣れた手つきであった。
蝋燭の明かりが、闇の中の影達の顔を照らした。
男だ。全員が全員、鍛え上げられた精悍な顔つきの男達であった。
男達は布を巻いた枝を幾本も持っていた。
蝋燭の小さな火を布を巻いた枝の頭に移す。火に照らされてぬるりとてらつく布は、油に浸されている証拠。
ジジジと燻るような音の後、花開くように火が炎へと変わる。
たった一個の小さな火種が、あっと言う間に松明の群れに変わっていた。
炎を明々と灯す松明を大地に刺して固定した後、更に差し込まれる細い真直ぐな枝――違う。
矢だ。彼らは火矢を作っているのだ。
手に手に弓を構えた男達が、弦を引く。ギリギリと静かにしなる音。
「撃て」
豊かな髭を蓄えた男が、渋みのある声と共に手を振り下ろした。一斉に降り注ぐ赤い光の帯が、木造の家々に突き刺さる。薄い木材で作られた家は、簡単に燃える。
悲鳴と怒号。離れたここにも届くその声は、突如襲い掛かってきた不条理に戸惑っていた。
「続けろ」
こればかりは何度やっても慣れることは無い。部下の手が止まった事を咎め、続行させる。二度、三度繰り返し打ち込まれる火矢。髭を蓄えた男は、十分村に炎が回ったことを確認すると、曲刀を腰から引き抜き、号令をかけた。
「躊躇わずに行けぇっ! 帝国こそが"正義"である!!」
数十名の男達は曲刀や投網や投げ縄、おおよそ正規軍とは思えぬ装備を構え、奔る。
目標の村は既に、炎で明々と照らされていた。
フェネク帝国の成立は、世界が『邪神』の出現で大混乱になっていた時の話である。
大陸西部に広がる、広大な砂漠をねぐらとする一つの部族が礎になり、幾十、幾百かの部族を瞬く間に一つの国として纏め上げ、今の国の形を成したのがおおよそ212年前。
フェネクの歴史は常に戦いと共にある。
痩せた土地、厳しい気候、餓えた民。足りぬ、足りぬ、足りぬの連続であった。
足りぬ者達は力によって纏まり、一つの国となった。
力によって纏まった、力こそ正義の帝国。クオンの王侯貴族達は、ティカンの元老院は、今は亡きオウレンの華の女王は、彼の国を未だに蛮族と呼ぶ。
確かに歴史の上でも、蛮族と呼ばれても仕方ない行為は続けられてきた。
しかし、成立から五十年も経てば。取り込んだ周辺の部族、民族と同化していく。秩序が生まれ、文化が生まれ、様々な物が生み出された。
例えば戦争の際にも、明文化されていなかった紳士協定を、明文化し、広めたのもフェネク帝国である。
例えば、領土を奪い合う戦争では、必ず『宣戦布告』をする事。
例えば、既に決まった『領土』を侵さない事。
例えば、十字の加護無き『村』は襲わない事。
その協定を今、自ら破ったのは、帝国である。
ここ昨今の魔物の活発化に伴い、様々に圧迫された生活はただでさえ厳しい。帝国の下した判断は、更なる戦争による領土拡大だ。豊穣な大地の更なる奪取だ。
(戦士の名誉などここには存在しない)
帝国軍特殊部隊『砂竜の顎』の隊長、豊かな髭を蓄えた男――ハムストラはこの作戦に内心では反対であった。しかし、軍人は命令に背く訳にはならない。
「『村』を襲い、クオンの戦力を徐々に弱める、か」
力を持たぬ者達に対して凶刃を振るう、そこには名誉も正義も何も存在しない。隊内のモラルの低下も甚だしい。しかし、一旦始めた状況を止める訳にはいかぬ。
誇り高き砂の民の戦士は苦悩しながらも、名誉無き戦場に向かい走りだす。
毛布と酒、どちらも好きだ。更にいうなら尻も好きだ。ナイトウは好きな物の内の二つに囲まれて寝ているだけで幸せである。ただ、暑いので今日は今日は毛布は敷くだけだ。包まると暑すぎる。
ふかふかの虎皮の敷物の上にだらしなく胡坐をかきながら、シンプルなガラスのコップに注がれた強いウィスキーを振る。着崩れた長衣のナイトウの横に侍るのは猫耳と尻尾をつけた白金の少女。ナイトウがコップを空ける度に楚々と酌をする。
振るとカラカラと軽妙な音色を立てる氷が浮かび、琥珀色の液体は美しく波打つ。
一息に煽ると、喉を焼く熱い液体。カアッっとナイトウの全身が熱される
「で、出来れば尻も追加してくれぇ」
ナイトウが寝言を言った。横に侍っていた白金の髪の少女が笑顔でナイトウの頭の上に座る。
尻だ。小ぶりな尻だ。触感がたまらない。尻尾がナイトウの鼻をくすぐる。
「もっと追加ッ!」
更に追加される尻。今度は胡坐の中に尻。阿呆な夢は更に拡大する。
「極楽っ、極楽……ッッ!」
――いつだって現実は辛過ぎる。
だから、夢の中ぐらいは幸せに浸ってもいいだろうと、ナイトウは常々思っている。無数の尻に敷かれているナイトウの前に、一人の男の影がいつの間にか立っていた。
ナイトウを鏡で映したような男であった。だが、その男の顔は常に厳しく、その男の目は常に絶望を見ていた。黄泉の淵を何度も見た瞳であった。
『……お前はずいぶんと幸せな奴だ』
冷徹な視線で尻に敷かれるナイトウを見て、"ナイトウ"は何か諦めたような溜息をつき、回れ右をして立ち去った。
『夢の中ぐらいは幸せに浸ってもいいだろう、いつだって現実は厳しいからな』
"ナイトウ"が苦笑しながら夢の扉を開き、外へと足を踏み出した。
例え扉の外は業火に包まれていようとも、気がつくまでは幸せに浸っていても――
尻に埋もれたナイトウが見たものは、眼前に迫るヒゲダルマのむさい尻であった。しかも、猛烈に熱された尻だ。恐らく目玉焼きが焼けることであろう。
気がつくと全身が熱い。燃えるようだ。いや寧ろ燃えている。あまりの熱気に現実に引き戻される。
「ンナッ!?」
悪夢は続くのだろうか。目が覚めたナイトウが見たものは、ヒゲダルマのごつい顔であった。ヒゲダルマがナイトウの肩を揺さぶり、起こそうとしていたのであった。
「起きてください、ナイトウさんッ、やばいっッス!」
ナイトウは焦った。だが、それ以上に眼前のヒゲダルマは焦っている。
「火事ッス、燃えてるッス!!」
「ンナァアアッ!?」
ナイトウが寝ぼけ眼で叫び声を上げる。大口を開けた中に火の粉が降りかかってくる。
極めて熱かった。
「ちゃ、チャカ達がいねぇぞ?」
「あの子達なら川ッス、兎に角出るッスよ!」
ばちばちと燃え上がる襤褸家と毛布、ナイトウが飛び起きて左右を見渡し絶叫する。
「く、くっそ、いい夢の途中だったのに、チクショウ!」
ナイトウがもう既に燃え上がっている毛布を壁に叩きつけて消化を図るも、失敗。ヒゲダルマが入り口近辺を見ると、既に家全体に火がまわっているようであった。
扉の方から燃えていた。そもそもこの家の中に火の気など無いのである。どこからか火をつけられたのには間違いが無い。母屋から飛び火したか、それとも――
ヒゲダルマは逡巡した後、馬鹿でかい両手持ちの『斧』を取り出し、
「ナイトウさん、そこが一番火の勢いが薄いッス。ちょっとどいて下さい!」
言うが早いか、全力でナイトウの近辺の壁に撃ちかかった。
燃えて脆くなった壁が、巨漢の大男の振るう斧に耐えられる道理も無い。
例えるならば発泡スチロールをぶち破るが如く、斧は抵抗なく突き刺さる。
轟音。バリィともメキィともつかぬ、木材を叩き折る音と共に新鮮な空気が流れ込み、一層激しく燃え上がる家を背景に、ヒゲダルマ達は外へと飛び出した。
ナイトウが外に飛び出し目にした光景は、燃える村と、逃げ惑う村人。それを襲う正体不明の襲撃者。
投網に絡め取られ、身動きの出来ない老人に突き刺さる曲刀。押さえつけられ、縄で結わえられる子供。悲鳴を上げる女に襲い掛かる鎧姿の男ども。
鍬や鋤を持ち出し、抵抗しようとした男は無残な屍をさらしていた。
『悪』である。
ナイトウは断じる。今目の前に飛び込んできたこの光景は悪である、と。
寝覚めの脳に血が上る。踏み出す足が怒りに震える。手には"原理の杖"。ナイトウの怒りを反映するが如く、真っ直ぐな杖が荒々しく輝き始めた。
「や、やめろおおおおおおおおおおおおお!」
誰もその怒りの声に、耳は傾けないのであるが。
耳を傾けないならば、傾けさせるしかない。ナイトウは大地に杖を叩きつける。
ずどん、と、一種間抜けな爆発と爆音。
巻き込まれたヒゲダルマがどしん、と尻餅をつく。巨大な斧がどすん、とまた大地に刺さる。
明々と照らされる村を見る。急いで着替えて走って戻る。近寄れば近寄るほど嫌な光景が見えてくる。燃える村。踊る人影。チャカの身体から出る物とよく似た血の匂い。
チャカの足が段々と萎える。
カノの足も同様に萎える。
ただ、萎えるならもっと早く萎えたほうが良かっただろう、とカノは思った。
村の入り口に立つ、完全武装の男達。少女二人を見つけると、獲物がきたとばかりにニヤニヤと笑いながら寄って来る。
「命令は皆殺しだった、か?」
「ああ、いや、女子供は捕虜にして国に送れ、ってよ」
彼らは何が面白いのだろうか、笑いながら足元の人間を蹴飛ばした。
真っ当な村人は人を殺せぬ。殺す事が出来ぬ。手が止まるのだ。正常ならば、拒否するのだ。その禁忌を。
だが、カノは男達の足元に転がる死体を見た。兵隊か、それとも単なるならず者か。どちらにしてもこの男達は、間違いなく殺す訓練を受けている。
先ほど洗い流したはずの汗が、じっとりと背に浮かんでいるのをカノは感じた。
魔道杖さえあれば、カノならば二対一でも負けることは無いだろう。だが、あいにくとあの襤褸屋に置き忘れてきた。うかつであった。
杖なしの魔導師は、戦士に劣る。
更に距離があれば何とかなるだろうが、とカノが思った時に爆音が響き渡った。破壊的な暴風と、爆音。世界を揺るがすような恐るべき何物かが――
チャカもカノも、男達もその音源を見た。
炎の光に炙られてギラギラと光る鱗を持つ、この村の家を4、5軒あわせたような巨体。
竜だ。
竜が、大地を蹴り、空を跳んでいる。
その場に腰を抜かして座り込む人々。チャカは呆然と立ちすくんでいた。
「鉄鱗様じゃん……やっぱりアレ」
"彼"が呪縛から解放されて、早四日。
"彼"が"隻眼"の匂いを辿り始めて、早四日。
"彼"が辿った道筋の途中途中で、何回か見た光景がある。
真っ黒に焼け焦げた、木で組んだ何かだ。はじめに見たそれは時間がかなり経っていた為、あまり気にはならなかった。次に見たソレは時間がそこそこ経って居た為に、少し気になったが、支障はなかった。
また見かけた時にはあまり時間がたっていなかった為に、はっきりと邪魔に感じた。
強烈な炭の匂いと、肉の腐る匂い。
"隻眼"を追うのに、こんな下らない匂いに"隻眼"の匂いがかき消されては堪らない。
怒り狂った"彼"は、"積み木細工"を己の吐息で溶かしつくして、叩き潰した。跡形もなくこの世から存在を消し去り、すっとした気分になった事を思い出す。
四度目だ。
"彼"の匂いを辿る邪魔をするものに出会ったのは、四度目だ。
しかも今度は――燃えている最中と来ている。
己の邪魔をする匂いの元へ、奔る。鉄鱗の魔竜が怒りに任せて、奔る。べきべき、めりめりと下に生える木々を押し倒しながら、奔る。
巨大な地響きがあたりに響き渡る。木々が押し倒され、根を張った大地の土を激しく撒き散らす音と共に巨大な質量を持つ"竜"の足音が響き渡る。
奔る最中に、一際大きな力の波動を"彼"は感じた。
――これは、"隻眼"に勝るとも劣るまい。
速力を上げながら、目標を見つける。大地を蹴り、鉄鱗の魔竜は空高く舞い上がった。