閑話其の二 永遠渓谷の白爪草 (上)
ベルウッド達の現状は、遥かに他の英雄達の置かれた状況より恵まれていた。クオン王国中枢部、王家に食い込むことに成功していたからだ。
クオン王都、悠久の都トコシェ。
千年以上の歴史を誇る、クオン王家によって支配された北方領域の悠久の都、そこは文化の発信地。
ここに無い物はどこに行っても無い。
そう軽口を叩かれる程に、発展したクオンの首都である。
尤も、恵まれている者には恵まれている者の悩みはあり、それがけして恵まれていない者達の悩みより軽い訳ではない。
創世暦1226年、二の月、二十五の日。
夏の真っ盛り、暑い日の正午の事である。
書類の束を目の前に、こめかみに青筋を立て、ベルウッドは怒り、悩んでいた。
束と言っても、世間一般の事務方なら鼻で笑い飛ばす様な分量である。恐らくベルウッドも自分の得意分野であれば、『甘いな』と同様に鼻で笑い飛ばしていただろう。
しかし、現実は異なる。ベルウッドにとって書類作業は全くの畑違いの分野であり、更に付け加えるなら、この作業を進める事で、見たくない現実を直視する事は間違いなかったからである。
見たくない現実とは、つまり。
『金』だ。
概念としての金というものにとことん弱いのだ。
更に商売の話になるととんとついていく事が出来ない。
廃人生活早三年、人生を捨てて仮想通貨の貯蓄に勤しんで来たベルウッドである。
並の廃人と比較したら、その資産は天文学的だ。だが――
「この請求額は、解せん」
けして数に弱い訳ではない。むしろ強い部類である。
だが、金の話になると、とことん弱い。
「何故、税がここにも掛かっているのだ」
文字だけなら理解が易い、数字だけでも理解が易い。しかし理解しがたい文字と数字が混じると、とことん弱い。
「最早、これは、自分の領域ではない」
ベルウッドは紙束をまとめてぐしゃぐしゃと投げ捨てたい衝動に駆られた。ただ、五日前に同じ事をした時の、王宮から派遣された伝書官の眉をひそめた表情が脳裏によぎる。
確かに請求書を、持ってきた者の目の前で投げ捨てたなら踏み倒す気があると思われても仕方が無い。
しかし、だ。
ベルウッドが癇癪を起こしたくなる気分も判って貰いたい。彼らがここに来てから毎日のように起こす騒動と、それに対する請求書が、最終的には全部彼らの主人の所にまわって来る状態なのだ。
ゲーム時代であれば諸々がどんぶり勘定でも許された事であろう。そもそも、かっての主な収入源はMOBの掃討による収集品の収集、売却程度。
大体の儲けを人頭で割ればいいだけだ。利に聡い者なら、プレイヤー同士の交易で利鞘を稼ぐ事も出来るが、そのような手間をかける趣味はベルウッドには無かった。
――だが現実となった場合、日々の雑費や賠償、その他諸々のこまごました物を各個人に請求等、集団の主の仕事は加速度的に増加していた。
一応、癇癪を起こしてからは刺青坊主に書類の類は最初に回し、その後ベルウッドのところに回るように改善はした。だが、そんなフィルターが既に掛かっている状態でも、しんどい。
こめかみに感じる頭痛を少しでも癒したいと、ベルウッドは蒲公英の根を煎じたコーヒーもどきをすすりながら、こめかみを揉み解す。
コンコンと控えめなノックと共に、ベルウッドに本日六度目の来客が来る。今日今までの三回は金銭の請求で、残りの二回は彼らが巻き起こした騒動についての苦情だ。
一週間前の出来事を思い出し、ベルウッドは気鬱に陥る。
――オジジがベルウッドに聞いた話では、国の世話になれば安泰だろう、という事だった。
『付け加えるなら、ただ飯喰らいをしているだけだと腐るだけだろう』
情報収集を兼ねて、学校の先生でもやってみないかとベルウッドに言われ、それじゃあ一丁やってみるか、と飛び込んだオジジに待っていたのは。
自分の親の年を遥かに超える年齢の、爺の群れ。
いや、オジジも淡い期待をしないわけでもなかった。
『魔法学校の特別教師』なんと素敵な響きであろうか。可愛い生徒達に囲まれ、キャッキャウフフの大活躍ジジイ!
そんな妄想は、初日で打ち砕かれた。
教壇に立つ自分を見つめる二十の瞳は老眼が混じり、ぎらぎらと猛禽の様に輝く。
髪の毛は無彩色、主に白髪。枯れ木のような体に、精力だけは漲った十名の老人達が生徒として、羽ペンに羊皮紙を携え、教壇に立つオジジに向けて待ち構えていた。
後で聞くと、伝説の魔法使いを講師として迎えたのだから、当代の選り抜きの教授陣がこぞって生徒の席を争ったらしい。
「噂の"氷雷"の秘奥が見れると聞いたが?」
「何、見かけ倒しだろうよ。弟子の一つも取らぬ輩だ」
「そんな事はどうでもいい。知の深奥を覗けるならば何でも良かろうよ」
値踏みする目、あからさまに蔑む目、貪欲な光を放ち、隙あらば秘術の一つでも盗み取ろうと油断無く光る目、曲者揃いの空間であった。十人十色の曲がり具合。
オジジはこの話を受けた事を、大いに後悔した。
「俺っち、間違えたかもしらんね……」
オジジの教師としての道は、始まったばかりで暗礁に乗り上げた。
この直後、秘奥の一つも見せてみろという煽りに乗ったオジジが、学校を全壊に持ち込んだ為に、国から多額の賠償を請求された――
魔法学校全壊事件。死者こそ出さなかったものの被害額的には最大の額であった。
まぁ、その結果オジジ自体は認められたようであるが。ベルウッドにとっては知ったことではない。
大なり小なり、似たような事件が毎日舞い込む。
コンコン、コンコンとノックの音が響く。オジジが失敗した時もこのようなしつこいノックの音であった。ベルウッドはトラブルの予感に、更に気落ちする。普段の気迫に満ちた雰囲気も抜け落ち、何処の中間管理職か、といわんばかりの煤けっぷりだ。
もし、居留守を使えたならば、この音と一緒に厄介事も去ってくれるのではないかとベルウッドは一縷の望みを抱く。
コンコン、コンコン。
(……無駄か)
阿呆なことをした。効率に則って考えれば、即座に応答するのが正しいのだろう。ええい、と腹をくくり、普段どおりの気迫を身に纏い返答する。
「入れ」
ギギギ、と軋んだ音を立てて、木製の扉が開く。
くすんだ赤茶の髪の娘が、そっと扉を開け覗き込んだ。こうしてみるとそれなりに愛らしい風情も醸し出している。
戦斧を持った彼女を見た事のある者は、けしてそのような凡庸な感情を抱かないだろうが。
「マスター、今大丈夫ですか?」
「ああ、構わん、どうせ自分が見ても判らん。ただ、グっさんの奴が、絶対に目だけは通しておけと言うからな」
ベルウッドは左手で持った書類を、右手で爪弾いた。
判らないが、目を通さねば話にならない。一応実務処理が出来る男が、自分に通した分だけだ。ベルウッドのやっていることは形式的なチェックに過ぎない。
それでも目を通すだけで精神が削られる。請求書の類と言うものは、そういうものだ。
部屋の中にスルスルと入り込んでくるギンスズは、叱られるのを待つ犬のようにベルウッドの執務机(わざわざ用意されていたのだ。嫌がらせかとベルウッドは思った)の前に立った。ふるふると瞳が揺れ、どう報告を切り出すかを迷っているかのように見える。
「……今日の失敗はなんだ?」
ベルウッドら40名が、王宮の離れの一角を貸し与えられてから早二週間。ベルウッドは、毎日一回はやらかす、彼女の失態っぷりに呆れを通り越して、感嘆の域に達している。
正に、歩く爆弾だ。どちらにしてもろくな事ではないだろう。
「その、マスター。回復薬の素材の件なんですけど」
ギンスズの失敗続きに業を煮やしたベルウッドは、街中に放ってしまえば、せめて城の面々からどやされる事は無くなるだろうと素材の買出しを頼んで置いた事をようやく思い出す。
「ああ、そういえば頼んでいたな、結果はどうだ」
――回復薬がさっぱり足りぬ。手持ちも足りぬ。であるならば、素材を揃えて自分で作るしかない。ディープファンタジーにおけるPOTは、プレイヤーの生産品である。
だが、自分が知らぬ人が居るなら、その手の集めなければならない素材も市場に流れているのではなかろうか、とベルウッドは想像した。
「市場のはずれで1軒だけ取り扱っている店があったんですけど……在庫がほとんど無くて」
ギンスズが萎れた白い花を、ベルウッドに差し出す。鋭い爪のような花弁を持つ、小さな花だった。
"白爪草"、POTを作る際に欠かせない、大量に消費する植物である。
それがたったの一輪。まるで足りない。
(そんなに上手い具合には行かないか)
元々大して期待はしていなかった。そんな上手くいくなら面白くも無い。くくく、と笑いがベルウッドの腹の底から溢れる。ああ、楽しいなぁ。
手元で白爪草を弄びながら、低い笑いを続けるベルウッド。機嫌が悪くないと見たギンスズは、本日の失敗を申告する勇気が湧いた。
「それで、マスター。請求書です」
「あ?」
そっと差し出される紙。そこに書かれた金額は、ゲーム時代と比較したら『ぼったくり』だ。
「経費で……落ちますよね?」
まじまじとベルウッドが差し出された紙を見た後、獰猛な笑みを浮かべ、握り潰した。
このままの日々が続けば、ベルウッドの私財はそう遠くないうちに底をつくだろう。
「採集ツアー?」
翌日。
ベルウッドの緊急収集に呼び出された、レゾナンスペインの面子達は疑問の声を上げた。
確かに、手持ちのPOTは怪しい。彼らの在庫はほとんど無いと言ってもよいだろう。
しかし何故今のタイミングか。彼らは彼らのマスターから紹介された"仕事"にようやく馴れてきた頃合でもあったのだ。
それをほっぽり出して採集ツアーはどうなんだ。困惑の空気が全員に広がる。
「無論、自由参加だ」
その一言で、一気に空気が緩む。なんだ、以前と同じような自由参加のツアーかと。
「そろそろ諸君らも、休日が欲しいのではないかと思ってな」
確かに、と同意する声が何箇所かで上がる。
この国に来てから二週間、休みが無かった。言わば働きづめだ。馴れぬ職場、馴れぬ扱い、馴れぬ世界。
多少は息抜きがあっても良いのではないか。一日か二日位。ざわざわと多少緩んだ空気が広がった。
「参加しなくても休みは与えられる。それ位は話は通してある」
おおお、と歓声が上がる。休みがある。久しぶりに自由がある。
ツアー? どんと来い。そんな好意的な空気が広がった。
「目標地点は『永遠渓谷』の"花ポイント"だ。『十字架』で楽をして、麓の街まで下山を楽しもうじゃないか」
山を登るのではなく、下山を楽しむとはまた乙な事をする。これならほぼ日帰りで楽しめるハイキングだろう。
「参加者は今すぐ準備をして『十字架』で集合だ。……まぁ、武装はほどほどでも構わんだろう」
『永遠渓谷』は仰々しい名前がついているが、低レベル向けの地域だ。クオン南部と邪神領を隔てる険しい"永遠山脈"の北側中腹の渓谷に『十字架』が存在する。
元々は『死火山』の入場用に存在する拠点だったが、ダンジョンよりその近辺の、実入りが良いフィールドの方が人気であった。
彼らにとって『危険』なMOBはほぼ居ないと断言してもいい。
乗り気な者は既に準備の為に走り出す。急がずとも出発時間は変わらないが、久しぶりの"冒険"は心躍る。
「尚、食事その他は自己負担だ。忘れるな!」
ベルウッドの釘は多少遅かった、かもしれない。
参加者数、16名。特に拘束をかけずに、突発的な収集で四割の出席率。
良いか悪いか、で言うと良い部類に属する。
何しろ各人が勝手気ままな気質で、まとまりが無いのはどこのギルドも同じだ、とベルウッドは思っている。
居残りの面子は居残りの面子で、勝手にやっている事だろう。何しろ初めての休日だ。そこまで束縛する必要も無い。
尤も、放置しておくと不安なギンスズやオジジに関しては、ベルウッドは絶対に来い、と念押しはしておいた。前者は妙にはしゃぎ、後者は膝が痛ぇよ、と恨みがましい視線と共に快い同意を得る事が出来た。
グッさんは居残りで今までの書類の見直しがしたいと言っていた。仕事熱心な奴だ、とベルウッドは思う。
下界にいてはギラギラと表現するのが相応しい真夏の日差しも、山腹の『十字架』の下ではキラキラと爽やかだ。吹き抜ける山風は草葉の匂いを運び、人の入らぬ自然の匂いを爽やかに届ける。
繁る草木も野生の動物も、命繁る季節。それを強く感じさせる場所である。
せせこましい金の話や、つまらない失敗などはこの光景を見たら一時さっぱりと忘れる事が出来るだろう。
「うっわー……綺麗」
ギンスズが十字架の頭に上って、眼下の山々の光景を見て感極まっていた。
普段の重々しい銀の甲冑ではなく、浅葱色に染められた木綿の胴衣に、踝までの長いスカート。靴も鉄靴ではなく、なめした柔らかい皮のブーツである。
おおよそどこぞの村娘、という風情であった。
ただ、背中に長大な両手持ちの戦斧を担いでいた。様々な血で染め上げられた戦斧の刃の部分は、落としても落としきれぬ血の跡が禍々しいまでに残っている。
戦斧が牧歌的な光景を台無しにしていた。
「それでは、白爪草の採集を行いながら、麓まで戻る事とする。各人適度に休憩しながら夕刻までに下山をすること」
それぞれに勝手にグループを組みながら、わいわいがやがやと下山を始める。
(まぁ、レクリェーションのつかみとしては成功だろうな)
ベルウッドは自画自賛しながら、オジジとギンスズの二人の手綱を取りながら、他の面子と同じく下山を始めようとした時である。
「……んっ?」
ギンスズ、ふとした違和感を感じ、十字架の――
いや、『死火山』入り口に向かい怪訝な表情を向けた。ふんふん、と空気の匂いを嗅ぐ様は犬のようだ、とオジジが指摘したら素早く軽い、げんこつが飛んだ。
「どうしたギンスズ。行くぞ」
ベルウッドの呼びかけに、怪訝な表情を崩さないギンスズ。
「いえ、マスター、何も」
何かの気配を感じた気がしたが、気のせいかもしれない。
うきうきと足取り軽く、ベルウッドの後を追うギンスズ。それを追うように待ってくれぇと砂利道に足をとられるオジジ。
二人を見て、ベルウッドは久しく浮かべていなかった笑みを浮かべた。
たとえ太陽が燦々と輝いていても、此の世に生きる限りは影はどこにでも存在する。
数十分前までは人の気配溢れた『死火山』入り口十字架前。
『死火山』の入り口の影に潜むは黒の猟犬。漆黒の皮鎧を着込み、気配を殺す。冷や汗がたらりと流れ落ちた。
「……アレは犬か、何かの類か」
皮肉げに曲がる口は笑みの形を崩さない。粉砕された右眼の治りは何故か遅かった。ゼロは眼帯の位置を直しながら、左目で彼奴らが立ち去るのをじっくりと待っていた。
ゼロは単身、この地の十字架を破壊する作業に向かっていたのである。
十字架に刃を立てる前に、転移の予兆に気がつき、咄嗟に隠れられたのは彼にとっては幸運。彼らにとっては不幸。
「まぁ、今回は直接手ぇ出すのが目的じゃねえからな。勘弁しておいてやるよ」
自分に言い聞かせる様に、独り言を呟きながら、すっかりと人の気配が消え去った十字架の前にゼロは立つ。
まったく、エムオーの奴も人使いが荒い。
今頃各地に飛んだ仲間達は、各迷宮入り口の封印を叩き割っている事だろう。
「さぁて、一仕事だな」
淡い神光を放つ十字架相手に、黒の猟犬は両手に持つ二つの牙で噛み付いた――