第十話 誘拐 (4)
多くの貴族は、下の瑣末事などは気にかけぬ。
表通りの住人は、己の下には貧民窟があると思っている。
貧民窟の住人は、己の更に下があるとは思わない。
今のバイカの多くの住人達は、己の下に流れる水があることを知らない。
人の作った水路は、管理されていなければどこかで淀む。自然の河川ですら数年から数十年単位で位置を変え、流れを変えるのだ。
バイカ地下下水道。ここが表の世界の住人達の手の及ぶ場所でなくなってから50年。だが、この地を管理する者が居なくなった訳ではない。
"不死の姫教団"
奴らこそが地下下水道の管理者であり、支配者である。
「間違いなく、"教団"の本拠地はこの地下洞窟って話」
サーサのもたらした報告は、百合騎士団の士気を上げた。王女を誘拐するなど、狂気の沙汰に等しい。元々、誰がやったかなどの目星はついていたのだ。
後は奴らが犯行声明なり、要求なりを公表する前に自らの手で主君を取り戻す。その為の行動をやっと取れるのだ。士気が上がらぬわけがない。
"蟲燻し"と名付けられた作戦の概要はこうである。
バイカ地下洞窟の入り口は5箇所ある。その"教団"の退路を全てを絶ってから追い立て、燻し出し、待ち受ける者達が刈り取る。
"教団"がいかに強大な裏組織であろうと、クオンの騎士団1つには及ばぬだろう、それがヤーマの見立てである。百合騎士団は、大隊訓練ではクオン騎士団の中でも上から数えた方が早いのだ。その自信あっての話だ。
24人一小隊となった彼女らが、めいめい、街の外壁近くにある侵入経路に向かったのだった。
轟々とした水の流れが、闇深い洞穴に流れ込んでいく音を背景に、カノの手元が魔力の煌きを宿した。更にカノはゆっくりと魔力を練る。
きらきらと光る魔力の煌きは、徐々に形を明らかにし、赤い火の玉を産み出す。カノは手元に練り上げられた<火球>を満足げに見た。煌々と赤く燃える火の玉を制御する手は細かく震える。照らされる顔は脂汗がじっとりと滲む。
だが、これほどまでに若い身で、これほどまでに強烈な<火球>を産み出せる魔法使いは一流の証明である。
カノが産み出した<火球>を空に投げる。
バッと闇夜を切り裂き、灼熱の花が花開いた。それが合図であった。
「突入ッ!」
勇ましいヤーマの声と共に、主に副長格で編成された百合騎士団の最精鋭達とナイトウ達が一番太い、恐らくは主な通路であろうと思われる洞穴に侵入する時であった。
ぽつり、ぽつり。大粒の雨粒が地面を叩く。空を見上げれば、星は見えない。替わりにハッカが持つ松明の光でもはっきりとわかる低い雲が垂れ込めていた。
「く、雲行きが怪しいと思ってたけど、降って来たな」
ナイトウが足を止め、空を見上げた。ナイトウは雨の臭いが嫌いだ。雨の音が嫌いだ。雨で世界が暗く沈むのが嫌いだ。ただでさえチャカの行方が心配でならぬのに、この雨。それに加えて――
「馬轢き、遅れないで下さい。魔法使いの名が泣きます」
「遅れるな馬轢き!」
どうだ見たか、いんちき魔法使い、これが一流の魔法だと言わんばかりにナイトウを馬鹿にしたような口調で話すカノや、キツい口調でナイトウを叱咤するヤーマらに頼らねばならない状況が、ナイトウの心を憂鬱な物に変えた。
「タイタン殿、それでは行きましょう」
「ヒゲさん……頑張りましょう」
加えるなら彼女ら、特にヤーマやハッカは、タイタンやヒゲダルマにはナイトウほどきつくあたらない事も、心底陰鬱な気分になる要因でもある。
(はぁ、オレなんか悪い事したのかなぁ)
とぼとぼとナイトウは歩を進めるのであった。
見送る待ち受け班20名の内、数名から気の毒な視線がナイトウに送られた。
轟々と地下洞穴に水が流れる。
洞穴が2つに別れ、3つに別れ、4つに別れた所でナイトウは気がついた。洞穴と言うより、これは人工的な水道だ。
入り口こそ多少崩れた自然洞窟のようだったが、進むにつれ、はっきりと人間の手が加わっているのが判る。
土の床が石畳に変わり、土壁が石の壁に変わる。
その中を、必要最低限の会話のみで進む百合騎士達は、ナイトウの目から見てもプロであった。
「そ、そういや、思い出すなぁ。『凶王の墳墓』を攻略した時の事」
彼女達の慎重に、しかし迅速に進む様を後ろから見ていたナイトウはぼそりと呟いた。
「……ああ、古い話だな。βテストの時に馬鹿設定のダンジョンをよく出したもんだ、運営も」
タイタンも似たような事を思い出していたようだ。
ナイトウは妄想の中で煙草を吹かす。
攻略に8時間もかけたのは本当にいい思い出かどうかは怪しいが、確かに衝撃的な糞設定ではあった。何度か突入して、全滅して、慎重になって……。
(あの頃はもっと酷く臆病で、慎重で。PSも練られてなかったなぁ)
いつ頃からだろうか。迷宮が攻略されて当然と考えるようになったのは。未知が既知になった頃からだろうか。
ナイトウは茫洋とした思考を頭を振るって追い出す。そう、ぼけぼけしているとだ。
「馬轢き、遅れないで下さい」
カノの冷たい声がナイトウを叱咤する。またこれだ、とナイトウが思った時だった。
キラリと光る何かがナイトウの視界に入った。うなじの毛が逆立つ感覚と共に、思考は完全にすっぽ抜けた。反射的に体が動き、眼前のカノを横の壁に向かって突き飛ばす。
その反動でナイトウは地下水道の中に落ちた。
川に大石を投げ込んだような、湿っぽいザバンという音が響いた。
その直後、風を切る音が数回響く。隠れる場所がない、足場は幅数メートルの石畳。横に滔々と流れる地下水道の流れは早い。流されながらナイトウは叫ぶ。
「弓の奇襲だ!タイタァン!」
その声を皮切りにタイタンが、突進しながら盾を構えた。
「任せろ!」
タイタンの気迫に満ちた声が響く。両手使いからは、ドン亀と揶揄される盾使いの鉄壁の防御だ。やわな弓矢如きでは傷の一つもつけれない戦闘態勢を取る。
(た、タイタンが戦闘態勢に入った、これで大丈夫だろ)
ナイトウは地下水道に流されながら、水を吸ったローブの重みで沈んでゆく体を必死に手足をばたつかせながら泳ごうとする。ローブは手足に絡み、手足の動きを阻害する。無理やり動かそうとした時だった。
(あ、足が攣ったァア!)
ナイトウが叫ぼうとしたら、水を一際激しく飲んだ。
数日前はあれほど恋しかった水が、ナイトウを暴力的に飲み込んだのであった。
カノが壁に叩きつけられた時に、見えたのは自分がいた場所を通過する鏃であった。壁にぶつかり朦朧とする視界の中、自分を壁に突き飛ばした男が川に飲まれるのを見た。
「カノ! 魔法での援護を!」
警戒しながら進んでいたヤーマ達が、戦闘態勢に入る数段階前より、誰よりも見た目が間抜けな"馬轢き"が襲撃を感知していたという事実がカノの思考を一瞬遅らせた。
その瞬間、自分より後ろにいたはずのタイタンが、盾を構えながら最前列のヤーマ達の前に飛び出す。
続けて撃ち出された矢をタイタンは全てその盾で受け止め、そのまま走り出した。
彼の剣は未だに抜かれていなかった。
百合騎士達が思わず見とれる見事な動きであった。
(いけない)
天才と持ち上げられ、賛美され続けてきたカノにとっては屈辱であった。他人の動きに目を奪われる事など、あってはならない。
そもそも、第三者が姫救出を解決する事はあってはならない。ヤーマが何を思って"馬轢き"一行を作戦に加えたのかはカノには判らない、判らないが。
(私達でやるんだ。他の誰かにやって貰うなんてありえない!)
朦朧とする脳を叱咤し、カノは右手の魔杖に魔力を注ぎ込んだ。
カノの魔杖は、非常に貴重な素材で作られた、専用の魔道杖だ。己の精神を魔力に変換し、盆百の杖の数倍の魔力収縮を可能とする特注品である。
一工程、二工程、三工程、カノが魔力を収縮させるごとに、松明の光など比べ物にならないほどの光の暴発が起きる。ありったけの魔力を注ぎ込んだ、カノが使える最高の魔法が顕現する。
「<氷の槍>よ、貫けぇえ!」
普段のカノの、感情を感じさせない声とは全く違う声質の叫びと共に、矢が放つ風切り音など比べ物にならないほど鋭い音を立てながら、冷気の槍が弓を射った者を襲う。
小さな悲鳴と共に、敵が弓を取り落とした。恐らく相手の腕を凍てつかせたのだろう。
<氷の槍>は純粋な冷気を槍状にして飛ばす魔法だ。骨を砕いたりする事は出来ぬが、鋭い冷気は肉を凍らせ、動きを止める。弓矢などに魔法は負けない、カノの自信に裏打ちされた一撃であった。
同時にヤーマが、サーサが得物を構えて走る。
ヒゲダルマはハッカを押し潰していた。矢がひょんひょんと飛んできた時に掠めたのか、頭から軽く血を流している。
襲撃者達が弓を捨てて逃げ出そうとした時には、間合いは既に詰まっていた。
ヤーマの十分に回転を加えた、刺つき鉄球が襲撃者の兜の上から頭を割る。サーサの高速の細剣捌きで手足の腱を絶たれ、心臓を一突きされたもう一人の襲撃者は倒れ付し、痙攣を繰り返す。どちらも即死だった。あまり苦しまなかっただろう。
腕を凍てつかされた最後の襲撃者は、最初にタイタンに組み伏せられていた。
「暴れるな、命まではとりゃしねぇよ」
暴れる男の首に回した腕にタイタンは力を込める。裸絞めと呼ばれる固め技の一つである。頚動脈が圧迫され、脳へ向かう血流が止まる。タイタンは程なくして男の意識を刈り取った。
(こんな"スキル"は無かったがな。やってみるもんだ)
意識を刈り取られた襲撃者は脱力し、じわりと失禁した。この薄暗がりの中では、死んだようにも見える。
「流石タイタン殿、無手にて殺めるとは……」
血に塗れた鉄球をぶら下げながら、ヤーマが近寄ってくる。
ヤーマの見込みは間違っていなかった。自分達より早く敵に辿りつき、剣すら抜かず、わずか数秒で殺傷する、恐るべき戦闘能力の持ち主だと。
三名中、二名が物言わぬ屍となった襲撃者を見てタイタンは眉をひそめた。
(ああくそ、慣れないな、畜生)
――それは間違いである。
"俺"は命を奪う事に、今更抵抗があるわけではない。
既に"俺"は一人や二人では聞かぬほどに人を殺めているのだ。
何人殺ったか判らない。"俺"の手は血に塗れている。
"俺"は殺人鬼だ。具体例を一つ上げるなら48年前のオウレン滅亡戦だ。
笑みを浮かべたまま、クオンの兵士を一刀の下に切り捨てまくったあの戦争を、"俺"は忘れたのか?
なぁ、"俺"。
お前の腕に少し力を込めれば、今この瞬間も一つの命を奪えるぞ。更に望めば周囲の四人の娘もつけてやれるぞ?
なぁ、英雄?
なぁ、オウレンの守護神、タイタン――
(違う、俺は……"まだ"殺ってない)
「いや、大した……ことじゃない」
タイタンは腐れた幻聴を、実声をもって振り払う。
(最近よく聞く幻聴だ。まだ問題ない)
立ち上がり、それじゃあ進むぞと言うところに、カノがよたよたと走ってきた。
「"馬轢き"が、馬轢きが川に流された!」
えっ、とタイタンが後ろを振り返ると、確かにナイトウの姿が消えていた。
「ぐばげっ、マジ、無理ッ!」
ナイトウは攣った足の痛みに耐えかね、懲りずに声を上げようとして、また水を飲む。必死に腕を動かし、頭を水面に出し息を継ぐ。手を伸ばし壁面に爪を立てようとする。
壁面に手が引っかかったと思った瞬間、ぬるりとした水苔の感触と共に手が滑る。
(ち、ちくしょう)
あがけばあがくほど体が沈む。急な流れに流される。
ナイトウは何度も分水路に体を打ち付けられた。どういう風に流されたかは見当がつかないが、最終的には流れが緩み、深みがより一層増した一種の地底湖となった箇所まで流されたのである。
ナイトウの意識が保ったのは、幸運だった。天の助けとばかりにゲホゲホと咳き込みながら、岸辺の岩に取り付く。上腕の力だけで湖から体を引き上げる。
今までの人工的な洞穴と比べると明るい場所であった。天井に一面に生えた苔が淡い光を放ち、その光を湖の水面が反射する。神秘的な静寂に満ちた場所に、一人放り出された形のナイトウはこの場では異物であった。
ぼたぼたと水滴を垂らしつつ、ナイトウはここがどこか確かめる為に歩き回る。
特にナイトウの目を引いたのは、3mほどの女の石像と、祭壇らしき場所であった。正面に回ってみると石で組まれた1mほどの壇の上に、石像と演説台とおぼしきものが設置されていた。
女の石像は一言で言うと悪趣味であった。左腕に刃を自ら突き刺した挙句、その左手は髑髏を掴む。掴んだ手は骨である。足元には蛇が絡みつく。絡みついた足も骨である。蛇の尻尾が林檎になり、大地に何個も転がっている。
「な、なんだこりゃ……」
直視すると正気を削られるような石像であった。その像にもびっしりと苔が生えており、発光して薄気味悪い事この上ない。
ナイトウが<飛行>して戻ろうにも、入水口は湖の中、水没した箇所にあるようで見当がつかない。どうしてこうなったと、ナイトウは頭を抱える。
抱えるも仕方が為し。何も解決しないので、背中に背負った杖をおっかなびっくり構えながら、ナイトウは明かりが灯るこの祭壇の出口に向かって歩き出した。