❨ Act. Ⅳ
指輪を握り締めるのが、癖になった。
もう無意識だった。
壁に背中を預ける。
冷たい壁に身体も驚かなくなっていた。
膝を抱く。
触れた足首が細くなった。
それもそのはずだ。食べ物を口にしていない。
足枷が緩くなるのも当然だった。
ウィルは、ヤコブが檻の外に置いて行った白い布をただ眺めていた。
────カツン。カツン。
初めて耳にする足音に、身を引き締めた。
ウィルは音のする方をへと窪んだ瞳を向けた。
瞳に光が灯った。
足に力を入れる。
ふらつく身体を無理に動かし、手を伸ばした。
無我夢中で、鉄格子にしがみつく。
格子に指を絡ませ、眼前を歩く人物へすがった。
「た、助けて、ください!───司祭様!!」
喉がひりつく。
声が絶え絶えになる。
────コツン。
マレットの歩みが止まった。
ゆっくりと顔をウィルへと向ける。
その顔は初めて会った時と同じ表情だった。
眉尻を下げ、親しみを感じたその微笑み。
ウィルの陰り始めた心に一筋の光が差した。
マレットは人差し指を口先に当て、小さく頷いた。
張り詰めた糸が緩んだ。
肩の力が抜け、大きく息を吐いた。
助かった、そう信じてしまった。
マレットは再び歩を進めた。
蝋燭の火が揺らめく。
空間の奥へと向かうと、マレットはステイシーの前に立った。ステイシーはマレットの顔を見ながら肩を震わせ、縮こまる。だが、マレットのあの表情に気を許したのか、警戒を緩めた。
マレットは蝋燭を地に下ろす。
ステイシーを刺激しないように、膝を落とし視線を合わせた。
「あなたを《《救います》》」
優しくそっと寄り添うような声に、ステイシーの瞳から涙が溢れた。マレットは更に目を細め、ステイシーの手をそっと握ってやった。
「先に《《いきなさい》》」
カチャ。
鉄の鎖が外れ、ステイシーは咽び泣く。
頭を深く下げ、おぼつかない足で立ち上がった。
病み上がり、食事も取っていないステイシーは生まれたての子馬のように、足がもたついて上手く歩けない。
気持ちが焦り、前のめりになりながらも、迷いなくあの光が射すあの先へと進んで行く。
一歩一歩、踏み出す度にステイシーの顔が綻んだ。
その顔に恐れはひとつも感じなかった。
ジギィィィィ───
奥の方で、何かで地を引き摺る音がした。暗闇の先へも目を凝らす。闇の中で、火花が散ったように見えた。
その闇から、スーッと姿を現したのは他でもない。
あの微笑みを浮かべ、斧を引き摺り歩く……
───────マレットだった。
ゆっくりと、ゆっくりとマレットは近づいた。
マレットの半歩後ろで斧を引き摺りながら、刻一刻と距離を詰めていく。
ステイシーは自分の背後のことなどに気が回らない。目の前の希望だけを見つめていた。
闇は思考を遅らせた。
ウィルはマレットの行動を理解するまでに時間を要した。
背筋が凍りつく。
目が見開き、釘付けになる。
信じていた未来が、全て崩れ落ちた。
……声が、出せない。
マレットの眉が上がる。
丸く見開かれた眼球にステイシーが映り込んだ。
朗らかな顔が狂気に染まる。
愉しい、のか。
口が少し開き、口端が上がった。
ブンっ。
空を割いた。
マレットは斧を高々と振り上げる。
ステイシーへと落そ刃は曇り、刃先は錆や刃の欠けが見られた。
楽に殺すものではない。
─────甚振るための道具、だった。
蝋燭の火が激しく揺れた。
ザシュッ!!
「いぎゃぁぁああっ────」
鼓膜が震えた。
ウィルの目の前でステイシーが徐々にゆっくりと前に倒れていく。光へと伸ばされた手が、無惨にも地へと叩き付けられた。
ステイシーは目を硬く閉じ、口を歪ませた。
身体を捻り、激痛に悶える。
顔は涙や鼻水でぐちゃぐちゃ。
ステイシーの太腿にはまだ斧が入ったまま。
斧を取り除こうとステイシーは手を伸ばす。
だが、許されなかった。
マレットの革靴がステイシーの手に食い込んだ。
グイグイと更に踏み付ける。
「うぐぅぅぅ…い、だい、や、…て」
ステイシーの指先が靴から逃れようと地を掻く。
「嫌ですね、外してしまいました」
マレットは斧の柄をそっと撫でる。
指を柄に添えた。
「歳は取りたくないものです、ね」
そして、一気に引き抜いた。
「うぐあぁ"ぁ"ぁ"ぁぁあぁ」
「ああ、なんて─────美しいのでしょう」
ステイシーの絶命な叫びを耳にしても、マレットは更に笑みが深くなるだけだった。
興奮したマレットのねっとりとした声が、この狂気の異常さを際立たせた。
斧を抜かれたことにより、圧迫されていた血が太腿から鼓動の度にドクドクと溢れ出る。一瞬にして血が広がっていく。
「この痛みは月神が与える最高の贈りモノです!」
「あ、あだ、じの!!足がァァァア!いだい、痛い、よぉ……た、助けて…」
ステイシーと、目が合った。
ウィルのもとへと、残された僅かな力を使った。
腕を伸ばし、身体を前に出す。
その度に、血の波が起きた。
鉄格子へと必死に手を伸ばす。
その指先は震えていた。
ウィルは膝立ちになり、格子の間から手を伸ばした。
自分へと伸びる手を無視することはできなかった。
あと少し、あと少しで触れられるのに……!
鼻へと上がる血の匂いに、更にマレットが高揚する。
荒い呼吸音。
胸が上下に動く。
目が血走り、口を大きく開ける。
また、斧が振り上がった。
ウィルへと向けられた手は届かない。
その腕は力無く、血の海へと落ちていった。
─────あの日と一緒だった。
無力な僕に助けを求めた彼女と重なった。
また、何もできない。ただ、見ているだけ。
─────僕は結局、弱者だ。
指輪が冷たく感じた。
何度も振り落とし、何度も振り上がる。
その度に身体が揺れる。
少し前にステイシーはこと切れていた。
右足首、右膝、左手首、左肘……
肉塊が血の池に転がっている。
「あなたの罪が、今、─────赦されました」
血で白い長衣が真っ赤に染まった。その返り血から湯気が上がる。
手に付着した血を、マレットは自分の顔へと塗り始める。目を細め、頬が上がった。
何も入っていない胃から何かが出ようとする。
ウィルは鉄格子を掴み、前かがみになるとウィルは全てを吐き出した。
肩を上下に揺らし、口端から滴り落ちた。
「月神よ!また、アナタの聖域を清めました!」
マレットは両手を広げ、天へと掲げる。
目を見開き、眼球が突き出た。
その様は常軌を逸していた。
「……狂って、る」
ウィルは掴んでいた鉄格子を離した。
身体の震えが止まらない。
足を引き摺りながら一歩、二歩と下がっていく。
マレットがウィルの声に反応した。
その体勢のまま、首だけをウィルへとサッと向けた。
瞬きもせず、真っ直ぐ見ている。身体をウィルへと向け、血の池をちゃぷちゃぷと音を立てながら、勢い良く鉄格子の前へと立った。その勢いのまま、ガチャン!と鉄格子を掴む。
顔を傾けると、鉄格子の間に嵌め込んだ。
目が細くなり、ニチャア…と口が開き、黄ばんだ歯が見えた。
狂気に満ちた笑みを浮かべ、ウィルを見つめる。
「次は…………」
マレットは鉄格子を掴む指をひとつ離した。
指先が差したのは僕だった。
──────アナタ、ですよ
ウィル様




