☽ Act. Ⅲ
ギィィギィィ。縄を引く。滴る汗を裾で拭う。汲み終えた瓶の水面が朝日に照らされ、キラキラと輝いている。残りの瓶に汲み上げた井戸水を注ぐ。
遠くの方からカーンと高い音がした。どうやら、ゼフィールが薪割りを始めたようだ。
「こんなものかな」
ふぅ、と息を吐くと、ウィルは休む暇もなく瓶を持ち上げると、次の仕事へと取り掛かる。昨夜のうちにゼフィールと一緒に誰も使っていない空き家を拝借し、そこを拠点として使用している。持って帰ってきた瓶を即席で拵えた竈まで運ぶ。大釜へと水を移し、焚き木に火を入れる。木が上手く乾燥しているようで、容易に火がついた。火が落ち着くまでは、しばしの休憩。水仕事をしてきたせいで、指先の感覚がない。火に当たりながら、感覚が戻るのを待った。
そうこうしていると、薪割りを終えたゼフィールが、自慢の両刀斧を担ぎ、片腕には割り終えた薪を抱えている。
「ご苦労さまです。ゼフィールさん」
「ウィルもな、こんなに水を沸かしてどうするんだ?」
首に下げている手拭いで、顔から吹き出る汗を拭きながら尋ねた。ウィルの周りではボコボコと三つの大釜が湯気を上げている。そのせいか、ここいらだけ異常に暑い。
「飲み水に使ったり、色々と。煮沸して消毒をした方が良いんですよ。弱った身体の時は特に」
沸騰したお湯を鍋や桶に移し始めたウィルを横目に見ながら、持っていた薪を置いてやる。
「へぇ。じゃあ、俺は畑でも耕して来る」
了解ですと、作業をつづけるウィルに手を挙げ、ゼフィールは畑へと赴いた。
ウィルは移し替えた桶を抱えると、ある場所へ急ぎ走り出した。
─────コンコン。
頭巾で鼻と口を覆う。合図をしても、返事はなかなか返って来ない。そんなこと、既に承知のウィルはお邪魔しますと言いながら、ドアを開ける。ドアを開けるとあの甘ったるい匂いが香ってくる。ここは昨日の夫婦の家だ。
「き、昨日の……」
見るからに気怠そうな男が、寝室からちょうど出て来たところだった。ウィルはおはようございます、と挨拶をすると、沸かした桶をテーブルに置いた。
「なぜ、まだこの村に?」
男は怪訝そうな顔をウィルへと向ける。この状況を見たら、留まるはずはないと思っているのだろう。
「ほっとけなくて、僕が出来ることをしたいと思ったんです」
男は耳を疑った。まさか、まだ幼い少年が何を言っているんだと言いたげだ。信じ難いと瞳がそう語っている。
「とにかく、このお湯を使って身体を拭いて下さい。奥さんも拭いてあげたいのですが、出来ますか?」
男は小さく頷いた。戸棚に入っていた手拭いをお湯に浸してやると、踵を翻した。そして、去り際にこう告げた。
「ここに汲んである水は飲まないで下さい。後で煮沸した水をお持ちししますから」
そう言うと、風のようにこの場から立ち去った。ウィルはそうして、村中を駆けずり回り、残すことあと一件になった。少し村から外れた小さい家が最後だ。ウィルはまた同じように桶を手にし、ドアを叩く。
「……どうぞ」
ここは珍しく返事があった。しかし、その声は元気があるものではなく、弱々しい声だった。
「失礼します」
静かにドアを開けると、決まって同じ匂いが鼻を通る。空間が狭く締め切っているせいか、ここは一段と匂いが強い。
「今回は意外と早いお越しなのね」
室内に入ってすぐに、年老いた女がベッドに横たわっていた。長い白い髪を緩くひとつにまとめ、目元には深い皺が幾重にも刻まれている。ウィルを認識すると、驚いた顔を見せた。これまで、何件もこうして訪ね歩いたが、皆、無気力で話しかけても、頷くか、短い返事のみで、こうして話しかけられたのは初めてだった。
「あら……あなたは、初めてね。また連れて来られたの?」
可哀想にと目を伏せる。老婆はこっちにいらっしゃいと手招く。その腕さえも、ろくに上がらないようだ。
「あなたお名前は?私はミランダよ。よろしくね」
「僕はウィルと言います。連れて来られたって、どういうことですか?」
ミランダは目を丸くした。全身に力が入ったが、瞬く間に脱力し身体をベッドに預けた。
「…………だったら、早くここから出て行くことをおすすめするわ」
「なぜです?この状態の皆さんをほっとけません」
ウィルの言葉にミランダは目を細めつつ、頭を横に振る。ミランダはウィルの問いを答えるつもりはないようだ。
「ダメよ。今すぐここを出て行くの」
ミランダはウィルを見つめる。その力強い眼差しにウィルは目を逸らせない。
思わず。肩がビクッと跳ねた。
今にも力尽きてしまいそうな身体なのに、向けられた強い意志にウィルは頷きかけた。
折り込む指に力を込める。
「……いや、です。僕の出来ることがある限り、ここに残ります」
ウィルはそう言うと、手拭いはどこですか?とミランダの忠告を無視した。ミランダは呆気に取られている。
「この子は……せっかく、忠告したのに」
呆れて笑い出すミランダを他所に、ウィルは聞く耳を持たなかった。勝手に見つけ出した手拭いを桶に入れ、固く絞る。絞った手拭いをミランダに差し出しながら口を開いた。
「ご自分で拭きますか?それとも、僕が拭きましょうか?」
ミランダはウィルの顔を見て思わず吹き出した。あははと笑うとが、途中で噎せてしまった。ウィルが心配そうな顔で覗き込むのを、手で制した。
「大丈夫だよ、ゴホッ。久しぶりにこんなに笑ったね」
ゴホッゴホッとまだ噎せるミランダを、あたふたしながら見守る。大丈夫だと言うが、見ているこっちは不安になる。
「ミランダさん?本当に大丈夫?」
「平気よ。それより、そのおしぼり貸して貰える?」
「あっ、はい。どうぞ」
ミランダはゆっくりと上体を起こす。ウィルはそっと手渡した。
「ありがとうね」
手拭いを受け取ろうと手を伸ばすが、なかなか思うようにいかないようだ。どうやら手に力が入らない様子だ。
「ヤダわ……手が思うようにいかないの」
手を擦りながらそう話すミランダ。その様子を見ていたウィルの瞳がある一点に集中する。
「ちょっと、いいですか!」
許可も得ずに、ウィルはミランダの手を取った。ミランダはされるがままに、ウィルに身を任せた。
「爪が、────白濁してる。すみません、痛いかもしれませんがいいですか?」
ウィルはその爪に自分の爪で弾く。音がしない。まるで、衝撃を吸収したかのように。
(……爪が柔らかい)
「ウィル、何してるんだい?」
何をされたかミランダは理解出来ていない様子だ。感覚がないのかもしれない。ウィルはその疑惑を確かめるため、罪悪感に駆られながらも、ミランダの爪の生え際を強く爪で押した。
「ミランダさん、何か感じませんか?」
「何か、って?」
全く持ってミランダがとぼけているようには見えない。どうやら、感覚が無くなっている。毛布を捲り、足の爪も確認する。こっちも同じ症状だった。
「どうしたの、ウィル?そんな怖い顔をして」
「ちょっと気になることが…。また来ます!」
ウィルは慌ただしく外に出た。そして、言い忘れてたことを思い出し、顔だけひょこっと突き出す。もう、決め台詞のように。
「そこにある水は飲まないで下さい!僕が新しいのを持って来ますから」
それだけ伝えると、一気に部屋の中が静寂に包まれると、ミランダは少し寂しさを感じさせた。独りは慣れていたはずなのに。
「……風みたいな子ね」
クスッと笑うとミランダは窓から一生懸命に走る少年を見つめていた。




