☽ Act. Ⅰ
澄み切った空の下、木々の合間を縫って馬を引きながら小川までやって来た。馬に水を飲ませながら、ウィルは川に指先を入れる。冬の川水は痛いように冷たい。だが、火照った身体には心地良く感じた。手で水を掬うとそのまま顔を洗う。頬に触れた手が以前より固くなったよう思える。
「ほら、これ使え」
後ろにいたゼフィールは手拭いを差し出した。ありがとうございます、と礼を述べると、ウィルはそのまま顔を拭った。
「ウィル、その手拭い水で濡らしてくれ」
ゼフィールはそう言うと、馬のもとへと向かう。言われたように水に浸し、しっかりと絞り終えるとゼフィールに手渡した。
「おっ、サンキュー。綺麗にしてやるからな、ジェナ」
ゼフィールの愛馬 ジェナは地に辛うじて生えている草を食む。ゼフィールに身体を手入れして貰えて心做しか喜んでいるように見える。
「無理させちまってるな……」
ゼフィールはジェナの首を撫でながら、眉を寄せる。馬具を少し緩めてやると、ウィルへと視線を向ける。
「お前も限界って感じだな。ちょうど良いかもな」
首都アルカナに鎮座する聖月教会の中央本部、別名 月宮まであと数日のところまでやって来たが、目に映るウィルの顔は、すでに疲労の色が出ていた。目の下にはクマが現れ、日に日に身体の反応も落ちている。シャテリー村から出発し、連日野営では、疲れは取れるはずもない。村から出たことはないウィルにとって、この長旅は堪えるだろう。無理をして身体を壊したら元も子もない。
「近くの村で休もう。確か少し南に行くと村があったはずだ」
「休むんですか?」
「ああ。旅には休息は必要だ。ジェナも休ませてやりたい」
その提案に賛成だというようにジェナがゼフィールの肩に顔を寄せる。ヨシヨシと頭を撫でてやるゼフィールをウィルは眺めていた。
「分かりました。保存食も残り僅かですし、そちらの村で補充しましょう」
ウィルは肩に掛けていたバックを広げ、手早く支度を始める。ダリアが分けてくれた貴重な食材も心許ない。残り少ない材料では作れる品は限られている。黒パンと瓶詰めを取り出す。
「今朝も黒パンのカジュカジャムサンドですね」
少し嫌な顔をするウィルとは対象的にゼフィールは顔を輝かせている。瓶の蓋を開ける。開けるとすぐに酸っぱい匂いが鼻をくすぐる。切り分けた黒パンに黄橙色のカジュカのジャムを塗ってやる。指に付いたジャムをひと舐めすると、強烈な酸味に口内を侵される。思わず顔を顰めた。単体で食べるものではないなと改めて思い知らされる。
塗り終えたジャムサンドをゼフィールへと手渡すと、ゼフィールは絶賛し始める。
「この酸味が良い。身体にドカンと来る酸っぱさがたまらん」
「そう仰るのはゼフィールさんだけですよ。良かったら僕の分も差し上げますよ」
大口を広げたゼフィールが止まった。差し出されたジャムサンドをどうするべきかと瞬刻、悩む。出した結論は、ごぐりと生唾を飲み込む。
「いや、大丈夫だ。ウィルが食べなきゃダメだろう。成長期だろ」
名残惜しい視線を投げながら、ゼフィールは言い訳を並べ立てる。しかし、それは自分を言い聞かせる為でもある。
「大丈夫です。やっぱり、ゼフィールさんが言うように疲れが出たみたいで、食欲が湧かないんですよ」
どうぞ、とウィルはゼフィールの目の前に突き出した。そう言われたら、仕方ないなとゼフィールはジャムサンドを受け取ると豪快に貪り始めた。
「ウィルがいると飯に困らないな。任務地が長距離の場合は野宿なんだが、飯まで気が回らなくてな」
以前を、振り返りながらしみじみ語るゼフィールの他愛のない話にウィルは耳を傾けた。
「こうして、その都度、飯が食えることになるとは思わなかった」
まじまじとジャムサンドをひとしきり眺めると、ひょいと口へと放り込む。この味を忘れないように、噛み締めた。
「またこれからも作りますから、楽しみにしていてください」
ニコッと微笑むウィルに、安心感を覚えつつも、ウィルの月宮での待遇がどうなるのか検討がつかない。長いこと探させたわりには、特別な点は見られない。そこいらにいる平凡な少年と変わらない。月神のことは人間には理解出来るわけがない。こんなことを考えるだけ時間の無駄だった。
ゼフィールはウィルに背を向け、ああ、とだけ応えた。
ちょっとした林を抜けると、何もない平地が広がっていた。ジェナの疲労を考え、ふたりとも徒歩での移動となった。時は昼下がりという具合だ。
「まだ見えませんね。実は僕、どんな村なのか楽しみなんですよ」
期待に胸を踊らしているウィルを横目にゼフィールの口元が緩んだ。左を歩くウィルは、あれこれと妄想を膨らませている。
「シャテリー村から出たことがないんだったな」
「はい!ここまでずっと森、川沿い、林、山……と続いてて、あまり変わり映えしなくて───」
「早く着くためには仕方が無かったんだ」
「それはそうなんですが……ん?」
視線の先に、久々の自分たち以外の人間を見た。馬に跨り、疾風の如く走り去る姿を。
「何を急いでいるんでしょうかね?」
「なんだろうな。だが、もう少しで村に着くぞ」
視界の端から消え去るその者を、気にも留めなかった。走る先に何があるのかも、知る由もない。
ただの平地の先に小さき人工物が見えて来た。道の端に刺さっている看板にはこう書かれていた。この先オグナ村、と。
「本当に村があるんですね!」
「あるって言っただろう?」
「ちょっと半信半疑になってました。なかなか、そういった物が見えなかったので」
バツが悪そうに笑うウィルに、ゼフィールは肩に腕を回した。乗せられた腕の重さに、バランスを崩しそうになる。
「まだまだヒヨっ子だな、ぴよウィルくん」
「意地が悪いなぁ、ゼフィールさん」
そんなふたりをよそにジェナは、パカパカと歩みを止めずに歩き続ける。そんなジェナの足が横に逸れた。ゼフィールがそれに釣られ、引っ張られた。何事かと視線を向けると青々した葉を食んでいる。眉を寄せる。この葉は、確か────。
「ニュウガ草が、こんなにも……」
見渡せば、ニュウガ草があちらこちらで青々と育っている。ウィルは更に注意深くこの辺りを見張った。そして、気が付いた。ここいら一帯が耕された形跡があることを。
「ここ、畑ですね。よく見ると、シナイモを植えてありますし」
ウィルはシナイモの茎を手に取った。手入れされず、長いこと放置されたせいで生育不良で萎びてしまっている。
「ニュウガ草は、揉んでから切り傷や火傷した患部に貼ると良く治るんですが……」
「良く分かるな」
「辺鄙なところに住むと、色々な知識が生きる術になるんです」
感心するゼフィールをよそに、ウィルは瞳にはあまりにも異常な光景だった。ゼフィールから見ればここは季節外れの青い草原に見えただろう。だが、ウィルからしたら、ここは荒れ果てた畑を通り越し、放棄された畑のように感じた。
「ニュウガ草は畑に生えたらすぐに対処するのが鉄則です。放置なんかすれば、作物の生育に支障がでます。なのに────」
ウィルは口を閉ざした。オグナ村を目前にして、違和感を覚えた。生活の匂いがない。この時間帯なら煙の匂いがするはずなのに、全く感じられない。まして、人の声さえも聞こえては来ない。
どうした?と尋ねるゼフィールはまだ気が付いてはいないようだ。
「ゼフィールさん、この村……変ですよ」
悪寒がする。この明らかな違和感に。腕を擦りながら、ゼフィールの顔を見る。そんなゼフィールも、この異質さを感じ取ったようで、顔が険しくなる。
「確かに、妙だな…」
ゼフィールはオグナ村へと鋭い視線を送る。
「この村……何かあるかもな」
そう言いつつも、ふたりは引き返すことはなかった。むしろ、望んでいるかのように先へと歩を進めた。この先に何が待ち受けているとも知らずに。




