❨ Act. 終幕
─────コンコン。
乾いた音が部屋に響く。談笑しながら食器を片付けていたふたりの顔がほんの少し曇る。少ない荷物をバッグに詰める手を止め、ウィルの視線がドアへと向く。迎えの合図だ。
エレーナが素早く食器を棚にしまうと、ドアへと向かい、彼を出迎えた。隻眼の男を。
「よう、良い朝だな」
ドアから一歩後ろで凛としたゼフィールがそこにいた。
「おはようございます、ゼフィール様」
頭を下げ、エレーナも挨拶を返す。緊張のあまり、顔を見ることができない。エレーナはそれを隠すように前髪を触る。
「ウィルは?」
「えっ、あ、少し、中でお茶でも?」
たどたどしいエレーナは、部屋の中からダリアがお茶でもと誘う声をなぞる。
「いや、非常に残念だが時間が惜しい」
空を見上げ、太陽の位置を確認したゼフィールは、申し訳なさそうに謝った。お偉い身分にも関わらず、驕らないゼフィールにエレーナは親近感が湧いた。
「あ、あの……」
エレーナが声を掛けようとするが、後ろから準備を終えたウィルが顔を出した。エレーナは差し出した手を、ゆっくりと落とした。どうやら、その事は誰も気が付なかったようだ。
「あれ?ジゼリア様とジゼル様は?」
ウィルは辺りを見回すが、ふたりの姿は見当たらない。
「アイツらは馬車で先に月宮に帰った。色々と報告することが多くてな」
「そう、ですか…」
明らかに残念そうなウィルを見たゼフィールは、ポンと肩に手を置いた。
「月宮に行けば嫌でも顔を合わせることになる。だから、そんな顔すんなよ」
その言葉を聞いて、冗談ではなく本当の話だと実感する。
「別れは済ませたか?」
ゼフィールは真面目な顔を見せた。その表情はもうここには戻れないと言っているようだった。ギュッと胸が苦しくなる。だけど、ここで涙を見せたくはない。唇を噛んだ。
「はい。済ませました」
そうか、と吐息混じりで返事をするゼフィールは、ウィルの背後へと視線を送る。
「ウィル…」
名を呼ぶダリアの声が震えていた。今、振り返ったら我慢した涙が堰を切りかねない。深く息を吸う。泣くな、笑えと自分に暗示をかけてから、後ろを振り返った。
「ダリア、エレーナ、行って来るね」
上手く、笑えただろうか。溢れ出す前に、ウィルは馬と一緒にいるゼフィールのもとへ歩いた。住み慣れた家と家族に別れを告げ、ウィルは新たな一歩を踏み出した。
どんどん離れていく背に声を投げる。俯かずただ前を見据えて歩くあの子へ。
「行ってらっしゃい、ウィル」
あんなに小さく思えた子が、この数日でひと回りもふた回りも大きく成長してみせた。そして、あの子は自分の足でこの家を出て行った。いつ再会できるか分からない。もう、一生会えないかもしれない。頭の片隅に置きながらも、引き留めもしなかった。
(これで、良かったんだろうか?グリオネル……)
返っては来ない相手に心で呼びかけた。向かい風が頬を撫でる。小さくなる背中が揺らぐ。頬を伝うものを拭うのも忘れ、その方向を眺めていた。
「ダリア婆、風が冷たくなったわ。家に入ろう?」
「ああ、そうだね」
エレーナがダリアの手を引きながら、家へと誘う。今一度、振り返る。名残惜しく感じながらもダリアはドアを閉めた。
「もう、良いのか?」
ゼフィールはそれ以上、余計なことは話さなかった。
ウィルは黙って頷いた。キラッと光る涙をゼフィールは見て見ぬふりをした。表情が大人びたと言えど、まだ少年には変わりない。
「じゃあ、行くか。相棒?」
拳をウィルの目の前に突き出す。涙を拭う。それに応えるように、ウィルはゼフィールの拳に己の拳をぶつけた。
「はい!ゼフィールさん」
白い息を残しながら、ふたりは冬空の下を歩き出した。
光を失った朝の月が、静かに見守っている。
温度を感じさせない白き一室に月明かりが差していた。無音の中、外を眺めながら佇んでいる。そこに、静寂を壊す者がカツカツと近づいてくる。
光が届かない位置で足を留めると、その場で跪く。顔を伏せ、許可があるのを待った。未だに外を眺める人物は、抑揚もない声を発した。
「どうかしましたか」
身動きもせず、振り返ることもしない。ただ一点を見つめるのみ。
「主よ、見つかりました」
「……そうですか」
感情のないただの音が、何もない空間に響く。その人物は蒼白い満月を仰ぎ見る。そして、こちらへと静かに振り返る。
「早く会いたいですね」
月光に照らされた人物の影だけが、揺れていた。




