❨ Act. ⅩⅨ
ハンスはエレーナを連立ち、丘の上に立った。見下ろす、その瞳はもう、自分以外は人として見てはいない。エレーナを跪かせ、足で背中を踏み付ける。首元には剣を添えて。
「このッ!」
もがけばもがくほど、土がの味がする。ジャリジャリと音を立てる。首に刃が食い込もうとも、目に物見せてやると喰らいつく。
「すぐにあの世に送ってやるから、安心しなさい」
取って付けたような穏やかな顔を見せているが、本性の傲慢さは隠せてはいない。首から血が流れるのもお構いなしにエレーナは抵抗する。
「アンタなんか、月神さまから天罰が降るわ」
「月神など怖くはない。私が信じているのは金だけだ」
不敵に笑みながらハンスは片手を広げ、声高らかに宣言する。自分が神にでもなったかのように。
「私は、お前らの為に己の手を汚そう!バケモノを呼んだ悪魔を処刑し、その血でバケモノを鎮めようぞ!!」
刮目する。自分を殺す相手を瞳に焼き付ける。悲鳴など上げてたまるか。爪が土を抉る。
群衆はただ見上げている。何もできない力無き羊は、眺めていることしかできない。
剣が振り上げられた。
無意識にウィルは前に出た。振り上げられた剣を止めようと。何も持たず、ただ前に。
────────その刹那。
風がウィルの顔を切った。その風に乗せられた匂いは心の傷を抉る。
黒いバケモノがハンスの後ろに姿を現す。
─────ビーストだ。
予期せぬ来訪者に、無力な人間たちは悲鳴を上げることしかできない。統率のない群衆は散り散りに逃げ惑う。時が止まったように、全て事象が緩やかに見えた。
私は悪くない。ただ、無価値だった人間に価値を与えただけ。その者の人生を貶めたとしても。
来訪者が、ハンスへと大きな口を開けた。
「あ…っ、や、やめ────」
ウィルもエレーナも、目を逸らすことはなかった。
瞬く間に肉に牙が突き刺さり、内臓、骨を砕かれた。血が吹き上がり、上から下へ流れていく。そこに居たハンスだったモノは下半身だけが立っていた。
エレーナは恐怖を今更ながら実感した。
濃縮した血の香り。目の前に迫る生命の危機をひしひしと感じる。足が笑い、口がわなわなと震えている。
口から血を流すビーストは、エレーナが後退るとまた一歩また一歩と距離を詰めた。
「く、来るな!」
恐怖で勝手に涙が流れる。血の気が引いていく。
嫌だ。いやだ────兄さん!
ビーストがエレーナに手を伸ばす。その平には大きな傷跡。エレーナはその傷跡を知っている。しかし、すぐに頭から消した。
「エレーナ!僕の手を掴んで!!」
エレーナはウィルの手を掴み、自分の胸へと引き寄せると、エレーナを支えながら後方へと走った。
ウィルと立ち代るようにジゼリアとジゼルが、ビーストと相対した。
「さあ、私たちが来たからには───」
光のない目は一点だけを見つめていた。ビーストはジゼリア達を見もせず、用はない、興味はない、というように立ち去った。その異質さにジゼリアもジゼルも目を丸めた。後を追うことを忘れる程に。
「なんなの…アイツ?本当にビーストなの?」
あまりの呆気なさに、ジゼリアは消えた方角に地団駄を踏みながら、文句を言い連ねた。フンッと鼻を鳴らし、ジゼルに身体ごと向き直る。しゃがみ込み、頬づえをしながら盛大な溜息をつく。
「はあ、今日も主様のお役に立てなかったわ…。せっかくのビーストとの戦闘だったのに」
しょぼんと落ち込むジゼリアを慰めようと、ジゼルは声を掛ける。
「姉さんは、そのままで充分だ」
「ダメダメ!褒めて貰えないじゃない!!私は主様の為に、愛の為に生きてるんだから」
今から追うわよ、いきり立つジゼリアを止めるでもなく、ただ眺めていたジゼルは小さく笑った。
地に腰を付けたウィルは、エレーナの無事を確認するように、顔に両手を添える。
「大丈夫。ね、私、死ななかったでしょ?」
震える手にエレーナは手を重ねた。ウィルの震えを止めるように。冷たい指先で、そっと優しく包む。
「無茶し過ぎだから、心臓がもたないよ」
「いつもと逆ね。これで少しは、私の気持ちも分かったんじゃない?」
意地悪な笑みをしながら首を傾げるエレーナに、ウィルはハンカチを取り出すと、何も言わずにエレーナの首の傷へ当てる。
「こんなに血が出てる。傷、絶対残るよ」
「狩人には傷跡は勲章よ」
「女の子なのに」
「プッ、心配してくれて、ありがとねー」
口を尖らせるウィルに頬に人差し指を突き立てた。
「ゼフィールはどこだ?」
頭上から声が落ちた。声の方へと顔を向けると、ジゼリアとジゼルが立っていた。
「えっ、あ、ゼフィールさんは、ビーストの群れをひとりで討伐に───」
ウィルはジゼルから話し掛けられるとは思わず、言葉に詰まった。ウィルはジゼルから二の句を急かされた。
「いる方角を教えろ」
ジゼルに表情はないが、瞳に焦りを感じた。最後に見たのはハンスの屋敷だ。そこからどこへ行ったのかは、ウィルにも分からない。屋敷の方角を指差そうと腕を上げるところで、土を踏む音が。聞き馴染んだ声がした。
「よう、俺をお探しか?」
ニヤリと笑うゼフィールが両刃斧を担いで現れた。ウィルは顔を見て、意識せずに笑顔を向ける。
「ウィル、無事で何よりだ」
「ゼフィールさんも、ご無事で良かったです」
先程とは打って変わって、落ち着いた様子でウィルを受け入れた。その姿は、あの多勢をひとりで凌いだという事もあり、返り血や土で汚れてはいるが、傷は見当たらない。さすがは、ゼフィールといった具合いだ。ウィルが感心していると、ジゼルが神妙な顔を見せながら、ゼフィールに耳打ちしている。あの無表情のジゼルが、あんな表情を見せているとなると何かあったのではと胸が騒ぐ。だが、ゼフィールは何事もないかのように笑い飛ばしている。気にする必要はないのかと、緊張の糸を緩めるが何だか気になってしまう。思わず、口を出してしまった。
「何か、あったんですか?」
「ん?ああ、大丈夫だ。お互いに何があったか話していただけだ」
そう言うと、ぞろぞろと人々が集まって来た。逃げ惑っていた村人たちが、弱弱しい表情を浮かべ擦り寄って来た。
「あ。あのう…ムーンライトさま」
その中のひとり、痩せこけた背の高い男がモジモジと話掛けて来た。ジゼリアとジゼルは、その男が見えていないのか相手をするつもりはないらしい。
ん?とゼフィールがその男に対し、反応する。
「あの、あのバケモノは、どうなりましたか?」
申し訳なさそうに話す男にゼフィールは淡々と答えた。
「村に来たバケモノ、ビーストは全て屠ったから安心していい」
「ありがとうございます!これも、ムーンライトさまのお陰でございます!皆もお礼を────」
「礼は俺たちだけってのはおかしいんじゃねーか?」
空気がピリつく。村人はお互いの顔を見合わせながら、ゼフィールの顔色を伺っている。ジゼリアはそんな雰囲気の中、呑気に切株に腰掛け足を組みながら欠伸までしている。
「そ、それはどういう?」
「お前らが助かったのは、コイツのお陰だろう?」
親指を立て、それをウィルへと向ける。ゼフィールは民衆を威圧するように見据える。弱弱しい彼らは、さらに縮こまる。
「バケモノから救ったのは俺だけどな、お前らの命があるのはコイツ、ウィルのお陰だ。分かったな」
ゼフィールはそれだけ伝えると、背を見せてその場から離れた。ここに残されたウィルはただ黙っていた。お互いには気まずい雰囲気のまま、暫し時が流れた。
そんな空気に耐え切れなくなったひとりが口火を切った。
「す、すまない。そして、ありがとう。お前のお陰で生き残れた」
そう話したのは木こりだった。続けて、エレーナにも声を掛ける。
「お前のおかげで、娘のことを知れた。何がなんでも連れ戻す。ありがとう」
頭を下げる。その姿を見ていた者達も次々に頭を下げ始める。皆、心からの謝罪と感謝を述べた。
しかし、その言葉をすぐには受け入れることは出来なかった。彼らがウィルに対してした仕打ちはあまりにも根深く、すんなりと受け入れることは難しい。だが、少しだけ心が軽くなったような気がした。
「僕ができることをした、だけです。救えた命は皆さんだけですし」
言葉通りだった。救えたのは元いた村人の四分の一。それ以外はビーストに殺られたか、崩壊した建物に巻き込まれたかのどちらかだ。今のウィルの手で救えたのはほんのひと握りだけだった。それでも、村人たちは感謝してくれた。ウィルの見る目が変化した。自分が変わったように、村人たちも変わって行くのかもしれない。そんな期待をしてしまうのはいけないことだろうか。
そう胸に秘めながら村人たちと別れた。村をあとにするウィルたちとは逆に、ゼフィール達は村に残った。後始末やハンスの悪事の一件のことを、教会と王城へ報告しなければならないらしい。あのゼフィールが、書類仕事がめんどせぇと愚痴っているのを思い出した。
「何だか、ウィル嬉しそう」
「そうかな?それより、首はどんな感じ?」
「全く痛くないよ。それにしても、ホント凄いわね。ジゼリア様のお力」
「僕もしてもらったことがあるけど、まさに神秘というか、奇跡だよ」
そうね、と改めてムーンライトの力の尊さと有難みを実感した。それを従える月神はそれ以上の別格な存在なのだと。そのお方が自分に会いたいと探してくれたことが、本当に恐れ多い。身震いがする。
「ウィル?」
「なんでもないよ。それよりお腹空かない?」
ウィルは肩掛けに手を突っ込むと布で包まれた物を取り出した。色々とあって若干潰れてしまったが、布をめくるとそれはダリアが作ってくれたパニーニだった。
「これ、ダリア婆の?!」
うん、と首を縦に振る。明らかに大興奮したエレーナに手渡すと、一目散に口に頬張った。言わずとも分かるその表情は美味しいと確実に言っている。その顔を見ながらウィルもひと口食べる。口の中に広がる、小麦の甘みとベーコンとチーズの塩味が丁度良いバランスだ。アクセントの黒胡椒も良い味を出している。味わいながら、ウィルは生を肌で感じた。
「─────生きて、帰って来れた」
「ん?なに?」
なんでもない、と首を横に振る。ふーんと、あという間に食べ終わったエレーナが、寄越せと言わんばかりに、パニーニをしつこく狙ってくる。奪い取られまいと攻防しながら、ふたりは家へと急いだ。




