❨ Act. ⅩⅧ
掴まれた髪が腕づくで引きずられる。逃れようと手を伸ばす。自分の甘さと悔しさで顔が歪む。ハンスの目と合った。怒りのあまり、目が血走っている。いつもの穏やかさが剥がれ落ち、欲にまみれた醜い顔。まるで別人だ。
「また、盗み聞きかな。いや…盗っ人の間違いだな!」
「うガッ」
そのまま、壁へと押し付けられ、腕で首を圧迫された。ハンスの腕を振りほどこうと、爪を立てる。顔に荒い息が掛かる。エレーナの苦しむ顔に不敵な笑みを見せる。
「せっかく、助けてやろうと思っていたのに」
残念だよ、と思っても無いことを、厚かましく述べるその口を、今すぐに塞いでやろうと噛み付く。
「何が、助けてやるよ!全てアンタが仕組んだんじゃない!!」
「フッ、自分が売られると知ったのか」
「兄さんもウィルも…悪魔はアンタよ!」
「それがどうした?利用されるお前らが悪いんだろ?」
エレーナはハンスを睨めつける。ハンスが腕に体重を掛けてくる。息が苦しい。頭に酸素が行かず、意識が朦朧とする。ここで、負けたくない。エレーナは隠し持っていたペーパーナイフを突き立てた。そのナイフはハンスの太ももに突き刺さった。
「ウグッ、な、何をする!」
ハンスはその場に腰から倒れた。首の拘束が解かれた。エレーナは首を押さえ、咳き込みながら、ハンスを横目で見やると、エレーナはそのまま走り出した。
「オイッ、待て!!」
刺されたせいで動けず、ただ叫ぶことしか出来ないハンスを無視し、エレーナはひたすら走った。
「クソッ、殺してやる!!」
刺さっているペーパーナイフを、一気に引き抜くとハンスはエレーナの後を追うべく、ある場所へ向かった。
胸が痛くなるほど走った。途中で転び、怪我した右膝が痛い。でも、約束したダリアの家はまだ先だ。なぜか勝手に涙が出てくる。初めて人を刺してしまったからなのか。今になって震えがきた。
その時だった。背後から馬の蹄の音が聞こえた。エレーナは振り返り、絶望した。馬に乗って現れたのは、今一番会いたくない人物だった。
「逃がさんぞ!小娘がっ」
人の足と馬の足では速度が違い過ぎた。瞬く間に、ぐんと距離が縮んでいく。よく見ればハンスの手には剣を手にしている。どうやら、捕まえるだけでは終わらなそうだ。エレーナ、無我夢中で走り続ける。少しでも希望がある限り、足を止めるつもりは無かった。無情にも、蹄の音はもうすぐそこまで来ていた。振り返る余裕はない。少しでも前に前にと気持ちを奮い立たせる。だが、結果は目に見えていた通りだ。馬が真横を通り過ぎた。視線が歪む。腕に何かが掠めた。鋭い痛みが遅れて伝わる。手で押さえた服に鮮血が広がっていく。目の前にはハンスが道を塞ぐ。行く先を絶たれてしまった。エレーナは苦虫を噛み潰した顔を向ける。ハンスは今一度、剣を振り上げた。
「終わりだ。お前を八つ裂きにした後、証拠を…」
ハンスが固まった。エレーナは振り返る。視線の先にはウィルと村人達がふたりを見つめていた。
「─────エレーナ!?」
ウィルがエレーナのもとへ駆け寄る。エレーナの腕の傷を見て青ざめる。ウィルは自分の服を一枚脱ぐと、傷口に当ててやる。そんな顔を見たエレーナは、痛みなどすっかり忘れ、笑った。
「そんなに心配しなくても、傷は浅いわ」
「だけど、こんなに血が…」
「大丈夫。これくらいじゃ、死なないから」
ね、と笑顔を向けられる。傷に目をやる。エレーナはそうは言うが、痛いはずなのに、彼女はこんな時でも笑える強さがあると、身をもって教えられた。エレーナを見ると身体の至るところに怪我や鬱血が見られる。かなり、無理をしたんだと俯き奥歯を噛み締める。なぜ離れたのかと後悔の念に苛まれる。
「ウィル。今、自分を悔いてるでしょ?そんなのやめて。私が選んだ結果なんだから。それにちゃんと、見つけたわ」
眉間をグリグリ押される。そう言ったエレーナの顔はハツラツとしていた。確かにそうだ。エレーナで選び抜いた道を自分がとやかく悩むのは失礼だ。
「エレーナ、良くやったね」
言葉が、勝手に口から零れた。本当に心からそう思った。
「だけどね、まだ応援が…」
エレーナが申し訳なさそうにしているが、そこは問題無さそうだ。なぜなら、こちらに向かうふたりの姿が見えているから。もう、心配する必要はなさそうだ。
「エレーナ、大丈夫。あの人達は来てくれた」
エレーナはウィルが見つめる先を見た。あの人と、ウィルがゼフィールと呼んだ彼と同じ服を着た人達を。
どこか気を張っていた身体が徐々に和らいでいく。安堵の溜息を吐いた。
「ハンス村長…何をしてるんですか?」
あの穏やかなハンスが、剣を振りかざし少女を殺めようとする様を見た村人たちは、ざわめいた。群衆の視線がハンスに集中する。
「違うんだ。この娘があのバケモノをこの村に呼び寄せたんだ。だから、私が始末を───」
取り繕うハンスを皆は疑いの目で見つめている。その中から髪を束ねた若い男が口火を切った。
「あれって、エレーナだよな?居なくなったって騒いでた」
「私たち、騙されたの?あの悪魔は今までの仕打ちをバケモノを使って果たそうとしているの?」
群衆の中で意見が別れた。ハンスを疑う者とそうでない者たちが、対立し始める。統率の取れない群衆は烏合の衆と化す。更にハンスが焚きつける。すでに群衆はハンスの味方についたと思われた。だが、それが一気に崩れていく。エレーナは立ち上がり、群衆へと持っていた証拠をバラ撒いた。
「皆んな、アイツの言葉に惑わされないで!コレを見て!自分の目で真実を見定めて!!」
「オ、オイッ!拾うんじゃない!!」
ハンスが撒かれた紙を手当たり次第、拾おうとするその手を髭を蓄えた木こりが踏み付け、見下ろした。その瞳は信じたくない思いと憎しみが込められていた。
「なんで、なんで───オレの娘の名前がここにあるんだ!!」
木こりはハンスへと詰め寄り、胸倉を掴む。その後ろでは、木こりのように怒りを露にする者やその場で泣き崩れる女もいた。ハンスは明らかに歯切れが悪くなり、挙動もおかしくなる。化けの皮が一枚一枚剥がれていく。
「どういう事だ!?娘はちゃんとやってるって言ったじゃないか!!」
「ハンスさん!!息子は町で元気にやっているって、この前も……」
「全部、嘘だったのか…?売ったのか?俺の大事な息子を…おい、こたえろよ!!」
群衆がハンスに群がる。皆が答えを求め、口が開かれるのを今か今かと待っている。だが、ハンスは気が触れたのか、静かに笑い次第にその声は大きく変わっていく。
「言わせておけば、好き勝手に言いおって…何が悪いと言うんだ?」
ハンスの言葉に皆の耳を疑った。目の前で話す者は、もう人では無かった。化けの皮が剥がれ切ったハンスは、欲にまみれた醜貌を晒した。
「私は悪くない。この村の為、お前たちの為にやったんだ。お前も、お前も、見覚えがないとは言わせないぞ!」
ひとりひとりに指を差し、興奮しているハンスは語気が強まり、飛沫が飛ぶ。指を差された人物は後ろめたいようで、視線が泳ぎ、冷や汗を流した。
「お前らだって無関係じゃないぞ?お前の子どもを売った金で、その道具があるんだぞ?」
木こりは動揺し手を離した。その隙をハンスは見逃さなかった。
「────お前だけは、殺してやる!」
ハンスはエレーナの腕を掴んだ。瞬時のことでエレーナの反応も遅れた。
「エレーナっ!」
ウィルはエレーナを助けに行こうと走り寄る。落ちていた剣を拾ったハンスは、卑怯にもエレーナの首に切先を向けた。それ以上、近づくなと無言で圧力を掛けてくる。不気味な笑みを浮かべ、こちらが動けない様を楽しみかのように。
身動きが取れない。為す術なく歯がゆくて、ズボンを握り締める。このまま、指を咥えて見ているしか出来ないのか。何かできることはないのか。思考を巡らすが、この状況を好転出来ない。自分が不甲斐なく唇を噛んだ。
(何かいい手を思いつけ!エレーナを救うんだ)
音が掻き消えた。無音に包まれる。
次の瞬間、耳を劈く咆哮が轟いた。




