❨ Act. ⅩⅥ
どこからともなく、悲鳴が聞こえてくる。人々の背後にはビーストがいた。皆、初めて目にする人外の恐怖に怯え、逃げ惑っていた。
「…なんで、ビーストが村に」
ウィルはその光景から目が離せなくなった。これから、引き起こされるであろう悲劇が頭を過ぎった。
「ウィル…アレは、なんなの?」
隣に立つエレーナの顔が、目の前で繰り広げられる、非日常の出来事に戦慄し、ビーストに釘付けになっていた。ウィルには、説明している時間は無かった。下の連中もこの騒ぎを聞きつけて、騒ぎ出している。ゼフィールがいるから、今のところ大丈夫だろうが、あの数をひとりで、どうこう出来るものでもないだろう。ここは助けが必要だ。
「ジゼリアさんとジゼルさんを呼ばなきゃ」
ウィルは咄嗟にそう思った。戦力が必要だと。ビーストとまともに戦えるのはムーンライトである彼らが必要条件だ。生憎、ビーストが攻めて来た場所とジゼリアたちがいるダリアの家は逆方向だ。エレーナを連れて家に戻り、ジゼリアとジゼルをここに連れて来れれば、ビーストを退けられる可能性が高い。ウィルはエレーナの手を掴む。
「エレーナ、着いてきて」
腕を引く。が、エレーナはそこから動こうとしなかった。いや、動けなかった。
「ウィル!後ろ!!」
エレーナが叫ぶ。背後に脅威を感じる。刺すような痛みの感覚は既に知っている。咄嗟にエレーナを庇う。
「なんで、屋敷の中から出てきた?ゼフィールさんが中にいたのに」
もしかしてと嫌な予感がした。ゼフィールがやられたのかと。そうなると、このシャテリー村は跡形もなく消えるだろう。助けを呼びに行くことは不可能に近い。冷や汗が顎を伝う。身体に力が入る。ジリジリと距離を詰めるビーストにウィルたちは為す術がない。逃げようにも、手すりが邪魔をする。もう、後ろに下がることも出来ない。ビーストが長い手を伸ばす。手の平には大きな傷痕があった。見覚えのある傷に思えた。だが、所詮はビースト。過去の戦闘によるものだろうと決め付け、それ以上深く考えないようにする。ビーストとしばらく睨み合いが続く。その間に、良い策はないかと思考を巡らせるが、対して良い考えが浮かぶ訳もない。
恐怖のあまり、エレーナがウィルの手を強く握る。視線の端でエレーナを捉えた。身体を震わせながら、固く目を瞑っている。得体のしれないバケモノを前にして、冷静でいられる方が珍しい。
かくなる上は、捨て身しか思いつかない。自分が囮になっている間にエレーナを逃がすしか無い。そんな考えに思い立った時、閃光が走る。ウィルはこの光に見覚えがあった。ビーストの背後から一撃を放った人は、誰でもない隻眼の彼だった。
「ゼフィールさん!!」
一気にウィルの顔がみるみるうちに、明るくなっていく。ゼフィールはいたずらっ子のような笑みを浮かべ左手を上げた。
「悪い、遅くなった」
ウィルたちの前に立つと、その大きい背中が頼もしく映った。ゼフィールの登場に、ウィルは心の底から安堵した。
「雑魚を蹴散らすのに時間を取られちまった」
両手で柄を握る。確かに手応えがあった。ゼフィールの一撃を食らったはずだ。なのに、茫然と立ち尽くしている。
──────何か妙だ。人を前にしているのに、牙を剥こうともしない。殺戮衝動を抑え込んでいるのか?あり得ない。
「気持ち、悪いな」
この違和感がゼフィールの胸をザワつかせた。そんなことを知らないふたりは、成り行きを固唾を呑んで見守っている。殺らなきゃ殺られる世界だ。生きるためには殺さねばならない。例え、戦意が消失していようとも。ゼフィールの使命がそうせざるを得ない。両刀斧を振り上げようとしたその刹那、ビーストは素早く飛び上がると、そのまま姿を消した。意味を無くした振り上げた両刀斧を、ゼフィールはゆっくりと地に着けた。
「…逃げたのか」
消えていた方角を見つめるゼフィールに、ウィルが駆け寄る。不安げな表情を浮かべているウィルも、先程のビーストが異質に映ったようだ。
「あのビースト、何か様子が変でしたよね?」
遭遇した数はゼフィールより、断然少ないはずなのに違和感を察知するとは良い瞳を持っているようだ。感心していると、ウィルの背後にいる少女と目が合った。ゼフィールは思わず、ニヤついてしまった。
「やり遂げたってワケか」
「ゼフィールさん?」
「ああ、こっちの話だ」
腑に落ちない顔をこちらに向けるウィルに、ゼフィールは急に真面目な顔を見せると、毅然とした態度でウィルに伝える。
「ウィル、お前も見ただろうが、かなりの数のビーストがこの村に入って来ちまってる。俺はムーンライトと、としてこの場に残り奴らを殲滅する。だから、お前はさっさと───」
「逃げません。だけど、僕は戦えない。だから、僕なりの戦い方をします!」
覚悟を決めた瞳は、恐ろしく思えるほどだった。ゼフィールはその深紫の瞳にたじろぐほどに。反対する気持ちは起きなかった。ゼフィールは、分かったとだけ応えると、いつものように力任せではなく、健闘を祈り肩に手を添えた。
「死ぬなよ、ウィル」
去り際にそう告げると、ウィルの瞳をしっかりと焼き付けるかのように見ると、振り返らず二階から颯爽と敵地へ向かって行った。
その背中をいつまでも、眺めているわけにはいかない。ウィルはエレーナへと視線を向ける。
「エレーナ、僕は村の人を避難させる。だから、君は先に僕の家に行って欲しい。そこにゼフィールさんの仲間がいるから」
「ウィル、ダメよ!そんな危険な事をしなくてもいいわよ!だって、アイツらは貴方に酷い仕打ちをして来たじゃない!」
エレーナはウィルを必死に止めようとした。その気持ちから感情が高まる。村人よりも最も大切なウィルを守りたい一心で。でも、ウィルは冷静だった。頭をゆっくりと横に振る。
「それじゃ、ダメなんだ。僕だって、感情がないわけじゃない。だけど、見捨てるなんて出来ない。僕は彼らとは違うから」
「ウィル……。どうして貴方は───」
その先が言えなかった。エレーナは唇を噛む。ウィルのその覚悟を見せられたら、これ以上は何にも言えるはずはない。胸が苦しい。
いつも私の背中に隠れていたウィルが、いつの間にか自分の前に立っていた。人の悪意に脅かされ震えていた彼が、何歩を先を行ってしまった。私だって、ウィルみたいに強くなりたい。ウィルの隣に立ちたい!
エレーナの瞳に光が灯る。ウィルはその瞬間を見逃さなかった。ウィルの好きなエレーナの顔だった。
「いつものエレーナに戻ったね」
その表情を見て、本当に再会を果たせた気がした。今のエレーナなら話しても大丈夫だろうと、もう俯かないで前を向いて、歩いてくれると信じてウィルは切り出した。
「こんな時に話すのは、なんだけど…知ってたんだ。────僕が奴隷商に売られる話」
いきなりの話にエレーナは、耳を疑った。ウィルから目が離せなくなった。
「ここに来る前に、使用人が話しているのを聞いたんだ。僕を売ろうとしてたってね」
感情も無く話すウィルに、エレーナの胸は張り裂けそうになる。何も感じないように、心を守るために、ウィルが無意識にそうしていることをエレーナは知っていたから。だが、その一件に自分自身も少なからず関与しているからこそ、ウィルに言葉を掛ける資格はない。情けなくて、居た堪れなくて、唇を噛んだ。すると、その唇に指が触れた。そっと優しく、労わるように。
「そんなに自分を責めないで」
エレーナの唇を指でなぞる。そのおかげか、痛みなど忘れてしまう。ウィルの瞳に吸い込まれそうになる。指が遠ざかることが名残り惜しく思えた。不意に我に戻ったエレーナはウィルから顔を隠した。顔が赤いのを見られたくない。そんなことなど露知らず、ウィルは話を続ける。
「エレーナ、君を色情狂の変態野郎のもとに売り付けようとしたことも、ね」
エレーナの顔から一気に赤みが消え失せる。ゾワッと逆立つ。息が上手く吸えない。頭が追いつかない。
「最初は誰のことを言っているのか、分からなかった。だけど、君の言葉から嫁ぐと聞いて合点がいったよ」
知らなかったでしょ?と、ニヤッと笑うウィルに若干怯える反面、こんな顔をする子だったかと、驚ろかされる。
「だからね、君が納得しなかったら、気絶させても連れ出してたよ」
「でも、待ってなんで…えっ、兄さんが…」
頭が混乱するエレーナは言葉が上手く紡げない。ウィルはそっと自分の唇に指を添え、そっと静かに口にした。
「……フレッド兄さんはね、
─────ただ、利用されただけ」
ウィルの放つ気配にエレーナは息を呑み、瞳が揺れる。
「フレッド兄さんが全て悪い訳じゃない。全ての元凶は─────」
ウィルはそこで話すのを止めた。全てを話さなくても、エレーナはもう既に理解していた。彼女は信じていたのだろう。肩が震えている。あの偽善者の皮を被った、この村の本当の悪魔を。
「ウィル、分かったわ。私がやらなきゃならないこと。貴方が言ったように、応援を呼んでくる。だけど、その前に少し寄り道をしても良いかしら?」
エレーナはもう震えは止まっていた。顔を上げた瞳は狩りに出る前のあの瞳だった。見定めたのだ。エレーナの中で覚悟が決まった。
「貴方の隣に立つ為に行かせてくれるわよね?」
そういう彼女はもう止まらない。いつも強引なエレーナだ。もちろん、ウィルの言うことは決まっている。
「ご自由にどうぞ。エレーナ、気をつけてね」
ええ、ウィルもね、と返事をするとお互いに向かうべき場所へと走り出した。




