❨ Act. ⅩⅡ
無駄な物は何一つない殺風景な部屋から、窓の外を覗く。そこに見えるのはいつもと何ら変わらぬ人々の日常があるだけ。無邪気に笑う子どもの声を耳にしながら、エレーナは窓から離れて行った。
濃い闇中をある家を目指し、灯りを持たずに急ぎ歩く。活気のあった村の中心も、夜中となれば誰もが寝静まっている。そこから真っ直ぐ進むと、門柱灯が見えてくる。こんな村でこれほど立派な物がある家はここだけだ。家の裏へと回ると、慣れたようにある部屋へと向かっていく。ドアの前に辿り着くと、その部屋の主は既に来るのを知っていたかのように声を掛けた。
「どうぞ」
息を飲む。緊張からか、怒りのせいか、ドアノブを掴む手が震えている。キィーとオイルが切れたような音が響く。ドアの先にいるのは、穏やかな表情を崩さないハンスがそこにいた。机に肘をつき、手を組みながら出迎えたハンスに座りなさいと、空いている席へと促される。だが、呑気に座っている場合ではなかった。意を決したようにハンスへと詰め寄ると、ドンと机に大きな音を立てた。そして、巻くし立てるように口を切った。
「エレーナを、返して下さい!!」
さっきまで、穏やかに笑っていたハンスの目付きが一瞬だけ、変わった。だが、次の瞬間にはいつものように朗らかな表情へと戻っている。
「仕事に来なかったと思ったら、どういう意味かな?」
机に置いてある書面を手に取り、書面に目を通す。フレッドの事など意に介せず、仕事を始める。
「惚けないでください!エレーナがいなくなったのは、貴方の仕業ですよね!?」
フレッドはなにふりかまわず、ハンスに食ってかかる。だが、ハンスは全く表情ひとつ変えずに、フレッドを真っ直ぐ見つめる。
「どういう事か、私には分からないね」
「分からないわけ、ないじゃないですか!?」
「冷静になりたまえ。妹が行方が分からなくて、混乱しているのは分かるがね」
手に取った書面を机に置き、手を擦りながらフレッドと対峙する。言葉を濁すハンスにフレッドの怒りが沸点を超えた。
「ハンスさん!!俺への当て付けでしょ?!俺が失敗したから」
灯りの火が揺れる。ハンスの顔が固まった。すると、椅子にもたれ掛かり、こめかみを押さえて盛大な溜息を吐き出す。
「何を言い出すかと思えば…それはお前がやったんじゃないか?」
「…な、なに?」
「私はただ言っただけだ。あの悪魔がこの村から居なくなれば、エレーナも、まともになり、お前も救われる、とな」
ハンスの穏やかな顔がいつの間にか、別人のような顔へと変貌した。その顔はまさに醜悪の権化とでもいうように。
「はっ、なん...だと」
「だって、そうだろう?私が直接手を下したか?否、私は何もしていない」
白々しくそう言い放つハンスに、フレッドは何も言い返せなくなった。爪が食い込む程に手を握る。
「あの悪魔を奴隷商に売ろうとしたのはお前。妹が居なくなったのも結局は、お前のせいだろう。───因果応報だな」
そして、畳み掛けるかのようにハンスが続けざまに言い放った。
「村の連中に言ったところで、無駄だ。誰の言葉の方を、信じるか言わずとも理解しているだろ?」
ガハハと高笑いが部屋に響めく。その笑い声はハンスの耳にベッタリとこびりついた。
ドアが閉まる。階の死角に身を潜め、背後で人が去るのを肌で感じながら、エレーナはそこで立ち尽くしていた。家鳴りに驚き、我に返ったエレーナはここでは不味いと、元いた部屋に戻ろうと踵を返す。だが、上手く事は運ばなかった。
「何処に行くんだい?」
肩を掴まれる。逃げてもその手からは絶対に逃れられない気がした。振り返らずとも、その人物が誰なのかは分かっている。恐れからか振り返る事が出来ない。声が上擦ってしまう。
「ハ、…ハン、スさん」
「こんなところで何か、あったかな?」
「い、え…ちょっと、」
「────聞いていたんだろ?」
まだ掴んでいる手に力が籠る。グイッと爪が食い込む。
「なんの、ことですか?」
エレーナは誤魔化そうと、惚けてみせるが徒労に終わった。
「全て聞いていたんだろ?お前の兄が────あの悪魔を売ったことを」
耳元に吐息が掛かる。それがとてつもなく、気持ち悪い。
「あー違う。君は知っていたんだ。友人のあの悪魔が売られることを。でも、それを傍観していたくせに、未だに友人ヅラをしている。お前も兄と同じだよ」
図星を突かれ、身体が凍り付いたように動かない。視界が揺れ、手汗が止まらない。
「でも、今ならまだ間に合う。私の話を聞き入れてくれたら、ね?」
勢い良く振り返る。目の前にいた人物は、人の皮を被った悪鬼のようだった。だが、エレーナは藁にも縋る思いでその手を取ってしまった。小さく頷くエレーナを見たハンスは満足気に笑む。
「ありがとう。君の英断であの子は救われる」
エレーナはその場で崩れ落ちる。瞳から一筋の涙を流しながら心の中で誰かの名を呼んだ。
音のない道を黙って歩く。あの笑い声が頭から離れない。何も言い返せず、行動も出来ない自分の不甲斐無さが、心底恨めしい。
自分が村人に真実を語ったとしても、誰も耳を貸そうとはしない。ハンスの言う通りだ。村中の人間はハンスのことを信じるだろう。過去の自分がそうだったように。異質な者を疎外し、力ある者の声に従うのをこの目で何度も見てきたのだから。
ふと、あの日の忌々しい少年を思い出す。自分よりも弱い立場のくせにエレーナのために必死な彼を。
「アイツなら、違ったんだろうな」
自分とは違い、逆境に立ち向かう彼は全く違う道を選ぶのだろうと。そんな事を考えているうちに家に着いた。しかし、違和感を感じた。少し家のドアが開いている。確か、家を出たあとに鍵を閉めたはずだ。もしかして、エレーナが帰ったのかと思い、家に入るが、中はものけのからで、誰かがいる気配はない。期待しただけに、何もする気が起きず、灯りも点さずに愕然と傍にあった椅子に項垂れる。そんな中からクスッと誰かが笑う声がした。フレッドは瞬時に姿勢を正し、暗い部屋を見渡した。やはり、誰もいない。風か、または何らかの動物だろうと決め付けて、暖炉に火を入れようと立ち上がる。
すると、さっきまで曇っていた空が晴れ、窓から月光が入る。そして、月光に照らされ、陰が床へと伸びる。そこにいないはずの、もうひとりの人物が現れた。
フレッドは一瞬にして振り返った。そこに居たのは見知らぬ者。この村の者ではないのは間違いない。フレッドの顔を見てにっこり笑う。
「だ、誰だ…お前は?」
フレッドは目の前の人物に恐怖を覚えた。一見無害そうに見えるが、その笑みは何ともいえない恐ろしさがある。獣に睨まれた獲物とでもいう感じだ。寒いというのに汗が幾度ともなく流れてくる。
「ふふっ、そんなこと気にしない、気にしない」
得体のしれない人物にフレッドは注視する。ニヤリと口角を吊り上げ、短剣をどこから取り出す。刃先が月光に照らされ、冷たく怪しく光る。指先を少し切ると赤黒い血が流れた。その手を差し出しながら、一歩一歩、ゆっくりとフレッドに近寄る。
「く、来るな―――!!」
自分の危機を悟ったフレッドは、その人物から逃げようとするが、不甲斐なく腰が抜けてそのまま、後ずさる。少しでもフレッドは距離を取ろうとするが、あとは無かった。壁に背中が着いた。
「逃げるのは赦さないよ。さぁ──」
その声にフレッドの身体が硬直する。逃げたい意思はあるにも関わらず、身体がいうことを利かない。
「──美味しいよ?」
その言葉でフレッドの口が勝手に開く。嫌がるフレッドの声にならない叫びが反響する。そんな事など、気に留めることなく、腕が伸びる。指から滴る血がフレッドの口の中へと吸い込まれていく。
身体の硬直が解け、何度も吐き出そうとするが、出て来るのは唾液だけだった。視界が狭くなり、意識が遠退く。薄れていく意識の中で、フレッドは最後の力を振り絞り顔を上げる。月光に照らされたその人物の顔は闇にのせいで見えないが金色の瞳が光った。それがフレッドが見た最期の光景だった。
「……のモノに、手を出そうとするから」
ピクッピクッと小刻みに動く身体を一瞥する。口元を押さえ、くすりと笑った。
「ははっ、芋虫みたいだ。─────キミはどんな風に、なるのかな?」
次の瞬間、そこには誰もいなくなった。




