貴族をターゲットに
翌朝。
ティナは、いつもよりずっと緊張した面持ちで、ルークと共に馬車を引いていた。通常のきんぴらとピクルスといった総菜の他に、優菜が丹精込めて焼き上げた黄金色の『甘いパン』が、丁寧に籠に並べられている。
「ルーク、今日はいつもの場所じゃなくて、貴族街の入口の、人通りが多い場所に露店を出してみるわ」
ティナは声をひそめた。
「優菜のパンは、高くていいものを求める奥様たちにこそ、響くはずよ」
ルークは、昨日あのパンを食べた時の感動を思い出し、胸を高鳴らせた。
「わかった、ティナ姉ちゃん。いつもよりずっと立派な場所に行こう!」
ティナとルークは、市場の喧騒を抜け、門番が立つ貴族街の入口付近に露店を構えた。周囲の店は、どれもきらびやかな装飾が施され、高価な香辛料や美しい工芸品を扱っている。いつもの市場の騒がしく、土埃の舞う空気とはまるで違い、そこには洗練された静けさと、上質なものだけが持つ、満ち足りた気配が漂っていた。
ルークは不安そうに尋ねた。
「こんなきらびやかな場所で、いつもの総菜が売れるかな……」
「総菜はついでよ。今日の主役はこれ」
ティナは、優菜から教わった通り、パンの入った籠を最も目立つ位置に置き、ホウシの葉を添えて飾り付けた。
「優菜が教えてくれたの。『商品の価値を最大限に見せる工夫』よ」
優菜のパンは、その見た目と香りが、周囲の露店とは一線を画していた。硬い大麦のパンが主流のこの街で、黄金色に輝くバターのパンは、それ自体が目を引く贅沢品だった。
しばらくすると、身なりの良い黒服をまとった、老練な執事が通りかかった。執事は、周囲のきらびやかな商品には目もくれず、急ぎ足だったが、ふと立ち止まり、ティナの露店を興味深げな表情で見つめた。
「これは……。新しい甘味の香りですな」
執事は静かに鼻を鳴らした。
ティナは緊張しながらも、優菜に言われた通り、堂々とパンを差し出した。
「お客様、これは『黄金色の甘いパン』と申します。当店自慢の職人が、特別な牛乳と上質な小麦を使って焼き上げた、街で一番やわらかいパンです」
執事は、恐る恐るパンを手に取った。そのパンは、彼が普段屋敷で見かけるカチカチのパンとは異なり、驚くほどふっくらと軽く、表面は艶やかに輝いている。
「ふむ……本当にこの街で焼かれたものか」
執事は疑いの眼差しを向けたが、籠からふわりと立ち昇るバターの芳醇な匂いに抗えず、たまらず鼻を鳴らした。
ティナはさらに言った。
「味見だけでもいかがでしょうか?お口にしていただければ、必ずご満足いただける自信がございます」
執事はちぎって口に運んだ。サクッ。モチッ。フワッ。
瞬時に、砂糖とバターの優しい甘みが口いっぱいに広がった。執事の目が見開かれた。それは、異国の菓子のような洗練された味わいでありながら、どこか懐かしさも感じさせる、この街では滅多にお目にかかれない、深く上質な甘さだった。
「これは……!奥様への献上品に申し分ない!この街でこんな品が出るとはな!」
執事は興奮して言った。
「実に見事な出来栄えだ。して、この品のお値段は?」
ティナは深呼吸をし、優菜と決めた値段を告げた。「お一つ、銀貨一枚でございます」
ルークは「高すぎる!」と驚きで声を上げそうになったが、ティナの背中を見てぐっと飲み込んだ。
銀貨一枚は、ティナが売る総菜三つ分(銅貨九枚)よりもさらに高い、まさに破格の値段だった。
しかし、執事は顔色一つ変えず、懐から銀貨を取り出した。
「結構。この籠の分、全ていただきましょう。ところで、この品を作った職人はどこにいるのだ?」
ティナは、パンがすべて完売したこと、そして銀貨が九枚にもなった事実に、手が震えるのを抑えられなかった。
「あ、ありがとうございます!誠に恐縮ながら、職人は体調が優れず、外には出られない身でございます。代わりに、わたくしが明日、同じ時間にお持ちいたします!」
執事は不満そうだったが、
「このパンは、奥様が大変お喜びになるだろう。明日、この倍の数を用意してくれ。奥様のお友達の奥様方にも配ることになるからな」
と言い残して去っていった。
露店を片付けながら、ティナはルークと抱き合った。
「ルーク、見たでしょう?銀貨九枚よ!たった数時間で、昨日一日分の利益が出たわ!」
ルークは、興奮のあまり言葉が出なかった。優菜が言っていた「貴族をターゲットにする」という意味が、この強烈な成功で初めて理解できた。
「優菜お姉ちゃんは、やっぱり魔法使いだ…!」
露店を片付けたティナとルークは、そのままいつもの市場へ急ぎ、残りのきんぴらやピクルスといった総菜も売りさばいた。優菜に頼まれていた干し肉などの仕入れを済ませ、今日の驚異的な売上を計算すると、二人はその収益を抱きしめ、急いで家路についた。甘いパンの利益が桁違いだったためだ。その日の夕方、孤児院に戻ったティナは、売り上げが合計銀貨十五枚になったこと、執事からの注文内容を優菜に報告した。
「優菜さん、執事さんが言っていたの。『倍の数』を明日用意してほしいって。優菜さんは、これだけの数を作れそうかしら?」
優菜は、笑顔で頷いた。彼女の瞳には、揺るぎない確信と静かな決意が宿っていた。
「ええ、もちろん作れるわ。ティナとルークが頑張って仕入れてきてくれた干し肉でも、さっそく保存食の第一号も作ってみるわ!貴族街の入口付近には、日雇い労働者も多く通るはずよ」
優菜の頭の中には、すでに『保存食』の製造工程と、『甘いパン』を大量生産するための孤児院の役割分担が、完璧に描かれていた。