希望の甘いパン
優菜の「もっともっと美味しいご飯にするわよ!」という宣言の通り、調理場には活気があふれていた。
優菜が調理場に立つ頃には、エマとコリンは川から運んだ野菜の仕分けを終え、ロディは山から集めたホウシの葉をまとめ終えるなど、子供たちもそれぞれの作業を終えていた。調理場には、野菜と肉の滋味深い香りが立ち込めている。
優菜は、ティナが市場から仕入れてきたばかりの大麦を、昨日使った後の傷物野菜の切れ端と共に大鍋で煮込んでいた。安価な肉は筋が多く固いものだったが、優菜はそれをまな板の上で丁寧に叩き、ミンチにして団子状に丸めていく。
「優菜さん、そのお肉、硬かったでしょう?叩くの大変だったわね」
ティナが心配そうに尋ねた。
優菜は微笑んだ。
「大丈夫。パン作りで鍛えたこの手で、すぐに柔らかくしました」
鍋の中では、大麦はふっくらと膨らみ、野菜の甘みを吸った滋味深いお粥へと変わっていく。そこへ優菜が肉団子を静かに落とし込むと、子供たちが待ち望む夕食、『大麦と肉団子の野菜粥』が完成した。
子供たちは一斉に食卓へ集まり、目の前に並べられた温かい粥をじっと見つめた。普段の食事は、硬い大麦をただ水で炊いただけの粗末なものだったが、今日のお粥は肉団子が入っている。
「わあ、お肉だ!久しぶり!」コリンが目を輝かせた。
優菜は一人一人に温かい粥を注ぎ、子供たちの顔を優しく見渡した。
「みんな、今日は本当によく頑張ってくれました。おかげで、私たちには新しい材料を買う余裕ができました。このお粥は、その材料の一部で作ったご褒美です」
ロディは一口食べる。硬かったはずの肉は、ミンチにされているため柔らかく、粥の中で濃厚な旨みを放っている。
「うん、美味しい!体が温まるよ、優菜お姉ちゃん!」
エマは、普段は寡黙だが、小さな声で優菜に礼を言った。
「ありがとう、優菜さん」
ルークは、粥をかきこみながら、優菜に熱い視線を送った。この美味しい粥も、市場で売り、この孤児院を豊かに変えてくれるのだろうか、と期待に胸を膨らませていた。
食事を通じて、子供たちの間に明日への活力と優菜への信頼が深まった。孤児院の食卓には、かつてなかった温かな団欒の空気が流れていた。
子供たちが眠りにつき、静かになった孤児院の中。優菜とティナは、テーブルを挟んで向かい合っていた。テーブルの上には、今日の売上から仕入れ代金を差し引いた残りの銀貨六枚と、ルークが持ち帰った木の板の切れ端が置かれている。
ティナは興奮した様子で優菜に耳打ちした。
「優菜さん、今日の売り上げは銀貨九枚よ!昨日の売上を大きく上回ったわ。ここにあるのが仕入れの残りの六枚よ。ルークがくれた情報も、きっと役に立ったのね」
優菜は木の板を指でなぞった。
甘いパン、貴族の奥様が買う。
保存がきく食料は高いけど、日雇いに人気。
「ええ、この二つが、私たちが次に力を入れるべき商品です」
優菜は静かに断言した。
「『甘いパン』は、貴族の奥様という購買力のある層のニーズを満たします。そして『保存がきく食料』は、日雇いの人々という大量消費層のニーズです」
ティナは緊張した面持ちで尋ねた。
「でも、パンなんて作ったことが……」
「大丈夫です。パン作りも得意なんです」
優菜は微笑んだ。
「私の『知識』と、今日ティナが買ってきてくれた新鮮な食材を活かせば、必ず作れます。パン作りに必要な材料はもうそろっています。さっそく明日甘いパンを試作してみますね」
そして、優菜は銀貨六枚の中から、五枚を取り出した。
「ティナさん、明日、このお金で干し肉の仕入れをお願いします。ルークが教えてくれた『保存がきく食料』を、作る準備を始めるわ。それと明日の朝の仕込みで傷物野菜の在庫が尽きてしまうので、明日の行商に必要な分も、いつものように市場から戻る時に調達してきてくださいね」
ティナは、その次の日の仕入れリストの規模に驚きつつも、優菜の揺るぎない眼差しを見て頷いた。
「わかったわ、優菜。必ず、頼まれた通りに仕入れてくる」
翌朝。ティナはルークと共に出発し、子供たちもそれぞれの持ち場(ホウシの葉、川での野菜洗い)で作業に集中している。孤児院に残った優菜は、いよいよ『甘いパン』の開発に取り掛かった。
優菜は、前日にティナが仕入れてきた鮮度の高い牛乳の木桶を調理台の上に置いた。
優菜は、人知を超えた『家事の神業』で牛乳に手をかざした。
優菜の指が牛乳の表面を撫でるように動くと、すぐに木桶の牛乳が分離を始めた。常人なら一日かけてゆっくりと行う作業が、優菜の手の中で数分で完了する。
木桶から取り出されたのは、真っ白なバターの塊と、新鮮なチーズの素、そして大量に残ったホエイ(乳清)だ。
「よし、これでパンに風味とコクを加えられる」
次に、優菜は仕入れてきた上質な小麦に手をかざした。
優菜は、驚異的な速度で仕込んでは、『知識』としてごまかしている『高速な手の技術』で生地を扱い始めた。
通常なら何時間もかかる発酵のプロセスが、優菜の魔法のような動作によって短時間で完了する。彼女はチーズの製造で出たホエイを水分として使用し、バターと砂糖を贅沢に練り込んだ生地を作り上げた。
その生地は、優菜の手から離れた後も、まるで生きているかのようにふっくらと膨らんでいった。
優菜の『神業』は、単に速く家事をこなすだけでなく、素材のポテンシャルを最大限に引き出し、規格外の品質を生み出すという、まさに錬金術のような力だった。
夕方。調理場からは、これまで嗅いだことのない甘く香ばしい匂いが漂っていた。
「わぁ……この匂い、何?」
コリンが目を丸くする。
優菜は、窯から取り出したばかりの黄金色のパンを、ホウシの葉で作った皿の上に並べた。それは、街で売られているどのパンよりもふっくらとやわらかく、表面には溶けたバターがキラキラと光っている。
「みんな、これは私が作った新しいパンよ。明日から、もっとたくさんの人に届けたい、大事な『試作品』です」
優菜は言った。
「さあ、食べてみて」
ルーク、エマ、ロディ、コリン。そして、末っ子のマヤとミリーも。優菜とティナに見守られながら、子供たち全員が恐る恐るパンをちぎり、口に運んだ。
サクッ。モチッ。フワッ。
砂糖とバターの優しい甘さ、そして牛乳の風味が口いっぱいに広がる。貧しい生活の中で、子供たちが食べたことのある「パン」とは、固い大麦を水で練った、カチカチの保存食だけだった。
「優菜お姉ちゃん……これ、すごく甘くて美味しいね!」
コリンが声を弾ませた。
ルークは言葉を失い、ただ目の前のパンを見つめた。このパンこそが、市場で貴族の奥様たちが求めている『希望の味』なのだと、彼は直感した。
「このパンを、明日から市場で売るの?」
ティナは、あまりの美味しさと、これほどのものが自分たちの孤児院で作れたという事実に、目元を熱くしながら優菜に尋ねた。
優菜は静かに頷いた。
「ええ。この『甘いパン』が、私たちの孤児院を救う二つ目の柱になります」
子供たちの笑顔と、温かいパンの香りが、孤児院全体を包み込んだ。