Vol.1 戦争前夜
――編者注記
本書の第1部は、2101年から2106年にかけて記された手記を収録している。
記者・***(実名は伏せられている)が、日々の報道活動の合間に残した記録であることは、残存する署名や通信記録によって確認されている。
この時期、世界はまだ「平時」の表情を保っていた。少なくとも、新聞の一面を飾る記事は国内の経済政策や災害対応であり、米中の対立もまた外交的な応酬の範囲を出なかった。だが、行間を読み解けば、ほつれ始めた国際秩序の縫い目がじわじわと広がっていたことがわかる。
特筆すべきは、2103年に起きた一人の米国人青年の事故死である。この一件は当初、地方紙の片隅に小さく報じられるにすぎなかったが、やがて米中双方の強硬姿勢をあぶり出し、国際経済の流動を大きく揺さぶる。
手記の筆致はまだ冷静である。記者は現場を見つめ、事実を淡々と記録している。だがその筆先のかすかな震えを、後世の我々は読み取らざるを得ない。
第1部は「戦争前夜」の記録であり、静かな崩壊の音をとどめた唯一の証言である。
2101年6月12日 北京・大使館前
「報じられなかった死」
午前7時、北京の官庁街で一人のアメリカ人男性が死亡した。観光客ではない。外交官でもない。事故とされるが、その名はすぐに皆の記憶から忘れさられた。
新聞の端に数行だけ、彼の死は載った。私はそれを切り抜き、ノートに貼りつけた、これが日課である。
――些細な死。だが、これは確かに始まりの音だった。
注1:アメリカ人死傷者の記事は、当時の北京市内新聞に小さく掲載されたが、当局により即日回収された。誰が彼であったかは今も論争の的である。
注2:一部資料では「軍事技術企業の上級顧問」であったとされるが、真偽は定かでない。
2102年2月1日 ワシントンD.C.
「凍りつく交渉」
アメリカ政府は遺族への説明を要求した。よくある事故のよくある対応である。
しかし、予想と異なり中国は拒否した。
以後、関税協議は凍結され、互いに貨物船を港で滞留させた。
ニュースでは「一時的な緊張」と報じられる。
だが、街頭のガソリン価格は上がり、インフレの数字が静かに跳ねた。
注3:この頃のアメリカ政府声明は「説明責任」という表現に終始していたが、裏では軍需産業が政権へ強い圧力をかけていたとされる。
2103年9月17日 東京・永田町
「日本の影」
国会は、アメリカか中国のどちらに寄るかを巡って荒れている。
だが与党議員の多くは、ただ自分の地盤を守ることで頭がいっぱいだ。
私は傍聴席で見ていた。
隣に座っていた学生が「どっちが勝っても、日本は沈む」と呟いた。
注4:当時の日本政府は「第三の道」を標榜したが、実際には両国の輸入依存から抜け出せず、脆弱さを増すばかりだった。
2104年4月29日 上海港湾
「貨物船の炎」
深夜、港に停泊していたアメリカ籍貨物船が爆発炎上した。
死者は十数名。中国政府は「整備不良」と発表。
アメリカは「意図的攻撃」と断じた。
現場に居合わせた日本人商社マンの証言は、記事にできなかった。
彼の目は「見てはいけないもの」を見てしまった色をしていた。
注5:上海港事件は、その後「第二の発火点」として扱われる。米中双方の強硬派にとって格好の口実となった。
2105年11月3日 東京・自宅
「未来の兆し」
街に外国人労働者が増えている。中国から逃れてきた者もいる。
夜、駅前で酔った男が中国語を話す青年を殴っていた。
止めようとした私は、逆に「売国奴」と叫ばれた。
記事にしようと思ったが、編集部は「今は触れるな」と言った。
――触れてはいけない真実が、増えていく。
注6:この時期、日本国内では反中感情が表面化し始めた。だが多くの大手新聞は、経済界の要請もあり報道を控えた。
2106年7月14日 ニューヨーク
「声なき葬儀」
あの「最初のアメリカ人」の葬儀が、五年経ってようやく公に行われた。
出席者は軍関係者、議員、企業役員。
家族の姿はなかった。棺は閉ざされ、中身は誰も見なかった。
私は記事に「星条旗の下に葬られた影」と書いた。
編集長に削られた。
注7:この葬儀は、すでに情報操作の一部となっていた。棺に遺体が入っていたかどうかすら、今も確認されていない。
本手記の初期記録は、ある種の「冷静さ」に貫かれている。
記者はあくまで第三者的立場から、些細な外交事件が大国間の火種へと変わる過程を記録した。
読者はここに、国家間の摩擦が必然的に拡大してゆく「機構の冷たさ」を見るだろう。
あの時点で止められる者がいたのか。
それとも歴史とは、常にこうした必然の階段を踏み外すことしかできないのか。




