老人が椅子に静かに座りながら最後の冒険を体験する。
これはこのアンソロジーの最新話です。皆さんに楽しんでいただければ幸いです。
老人のゴロウは夕方の縁側に腰を下ろし、冷めかけた緑茶を手にしていた。
冬の柔らかな光が、庭の苔をゆっくりと照らす。風はほとんどなく、遠くの国道の音が、ひどく遠い別世界のように聞こえる。
ふとした拍子に、彼の意識は過去へと沈んでいった。
老人にとって「記憶」とは、ただの回想ではなかった。
それは、世界そのものをほどいていく一本の糸のようなものだった。
若い頃のゴロウは、人の目を見る癖があった。
ただの癖――そう思っていたが、いつからか違うものが混じり始めた。
一度、人の瞳を覗き込むだけで、その者が歩んできた季節のにおいを割り出せた。
怒りの奥に隠れた微熱のような想い。
諦めてしまった夢のかすれた輪郭。
誰かから受け取った優しさの色調。
その誰かが、また別の誰かから受け取った微細な痕跡までも。
目の前の人間の歴史は、点線のように見えない場所でつながり、さらに別の誰かの生へと連なっていく。
ゴロウはそれらを「読み取っている」わけではない。
ただ、記憶の底に溜まった膨大な観察のデータが、静かに計算を始めるのだ。
――人は経験を受け継ぎ、また次へ渡す生き物だ。
ゴロウはそう囁く何かをいつも感じていた。
ある日、気づいた。
「これは、人だけじゃない。」
人に付着した粒のような過去は、さらに広がり、土地や街、樹々、海、風の記憶へと繋がっていた。
誰かの呼吸の中には、はるか昔に咲いた花の香りが、かすかに混ざっていた。
その花が咲く前には、別の星の塵が降り注ぎ、
さらにその塵の起源は、遠く離れた恒星の爆ぜる瞬間へと遡ることができた。
ゴロウは怖くなった。
だが同時に、胸の奥に静かな火が灯った。
もっと先が知りたい。
記憶は、個人的な領域の外へ、さらに外へと広がった。
無数の人の視点が集積され、街の構造が見えた。
街から国へ、国から大地へ、大地から惑星の地殻の歴史へ。
やがて、彼は見つかれ得ないはずの「宇宙の記憶」を割り出し始めた。
ビッグバンの瞬間は、音のない白い熱の海だった。
そこから広がり、冷え、沈黙し、形を持ち、また壊れ、また生まれた。
人の記憶を紡ぐ糸は、そのまま宇宙の大河に接続されていた。
それに気づいた瞬間、ゴロウは息を呑んだ。
――人間とは、宇宙の欠片が自分を観察するための窓なのだ。
縁側の風が少し冷たくなる。
庭の苔に影が伸びた。
時刻は、冬の終わりの夕暮れだった。
ゴロウは一度そっと目を閉じ、静かな安堵を覚えた。
彼はついに、物語を最後までたどり着いたのだ。
過去も未来も、個人の記憶も宇宙の歴史も、
すべては一本の途切れない閃光となって胸の奥で結ばれていく。
その光はあまりにも眩しく、あまりにも優しかった。
だが、人が触れてはならない深度の知恵でもあった。
――これは天井だ。ここから先に踏み込んではいけない。
ゴロウは微笑んだ。
その瞬間、光はふっと消え、
彼の体は、春の前触れのような静けさの中で、
最後の呼吸を終えた。
まるで、太陽の近くまで飛びすぎたイカロスのように。
ただし、彼の落下は悲劇ではなかった。
その表情は、長い旅路の果てにようやく降り立った
一人の老人の、穏やかな帰還だった。
この話を楽しんでいただければ幸いです。次の話をすぐにアップロードします。




