コーヒーの中の黒い幼女と、世界を侵す微小神々
これはこのアンソロジーの最新話です。皆さんに楽しんでいただければ幸いです。
その日、ヒキコモリ作家志望の井森は、満たされない焦燥をごまかすため、場違いだと分かりつつもメイド喫茶へ足を運んだ。
店内には過剰な可愛らしさが充満し、まるで現実を曇らせる人工的な霧のようだった。
「お待たせしました〜。ブレンドコーヒーです♡」
ぎこちなく会釈しつつ、井森は湯気の立つカップを覗き込んだ。
その瞬間――
彼の喉がひきつった。
カップの黒い液面、その中央に、黒い瞳をした小柄なアフリカ系アメリカ人の幼女が立っていたのだ。
年齢の分からない、無表情で静かな、異様にかわいい顔立ちの子ども。
肌は褐色で、髪は夜のように黒い。
体は液面に沈まず、まるでコーヒーそのものに溶け込んでいるようだった。
「……あの、メイドさん。私のコーヒーのカップには幼女が……入ってるんですけど?」
古典的な「コーヒーに虫が入ってます」のノリで言ったつもりだったが、声は震えていた。
しかしメイドは一瞬目を泳がせ、
「えっ? い、いえぇ〜? 何も入ってませんよぉ〜♡」
と、わざとらしい声で返す。
明らかに「見えているのに見えていないふり」だった。
押し問答を続けていると、メイドが急に真顔になった。
その顔だけ、店内の空気から浮いている。
「……その子、連れて帰ってください。」
「は……?」
「お願いします。あなたが連れて行くのが、いちばん安全なんです。」
何がどう「安全」なのか。
井森には理解できなかった。
ただ、少女はカップの底からこちらをじぃっと見上げ、
どこか「選んでいる」ようなまなざしだった。
結局流されるようにして、井森はその不可思議な少女――名前も分からぬまま――を自室に連れ帰った。
■ 少女の正体
その子は、ほとんど喋らなかった。
しかし静かに部屋の空気を見つめ、時折、井森には見えない方向に少し怯えるように首をすくめた。
数日後、井森は気づいた。
少女は、空気中に浮かぶ何かを目で追っている。
「……何が、見えてるんだ?」
問いかけても答えない。
ただ、ある瞬間、少女は井森の額にそっと手を当てた。
皮膚の下に冷たい何かが流れ込むような感覚。
そして次の瞬間――
世界が反転した。
部屋の空気に、無数の“存在”が渦巻いていた。
大気の粒子ほどの大きさなのに、形状は異界的で巨大なクトゥルフ神話生物の縮図のようだった。
触腕。眼球。歪んだ甲殻。
そのどれもが物理法則を嘲笑うように、ねじれながら空間を噛みしめている。
「な、なんだ……これは……」
息を吸うたび、肺に“それら”が触れ、
体温のすぐそばで蠢いている。
少女は小さな声で、やっと言葉を発した。
「……みんな、昔からいるよ。」
「昔……?」
「この星が生まれたときから。
人間が気にしてなかっただけ。
空気みたいに。彼らはこの宇宙を創造した者たちであり、その中で起こるすべてのことをコントロールしています。」
井森の背筋に、ぞわりと氷の柱が立つ。
気にしてなかっただけ――
つまり、ずっと「共存していた」ということなのか。
■ 物語になる恐怖
井森は、その恐怖を文章に変えた。
少女に触れられたときの感覚、大気の奥底に潜む形容しがたい生命――
そのすべてを筆に託す。
やがて原稿は編集者の目に留まり、連載が始まった。
ホラー界で瞬く間に「新星」と話題になる。
だが成功の影で、井森の胸にはいつも疑念が渦巻いていた。
――この子は何者なのか。
――どうして“見える”のか。
――そもそも、なぜ自分を選んだのか。
ある夜、井森は少女に問う。
「お前は……怖くないのか?
あんなものに囲まれて、生きてきて……」
少女はコップの水を見つめながらつぶやいた。
「怖がっても意味、ないよ。」
「……どうして?」
少女はゆっくりと視線を上げ、
井森の胸に、ズシンと落ちる一言を告げた。
「だって……人間なんて、海の底の貝と同じ。そしてあいつ等が、私たちの運命を決定づける波を作り出す者たちなのです。
波がどう動くかなんて、考えても仕方ない。
波の気分ひとつで、ぜんぶ決まるから。」
幼女の瞳に映るのは、井森ではなく、
部屋一面を覆う“微小な宇宙の怪物たち”だった。
井森は悟った。
――自分たちはただ、
潮の満ち引きに怯える小さな貝類にすぎない。しかし、自分がまったくコントロールできないものを恐れても意味がない。
その理解の瞬間、
少女は微笑んだ。
その笑みは、子どものものではなかった。
古代から続く何かの観察者のような、
永い永い時間を閉じ込めた微笑みだった。
この話を楽しんでいただければ幸いです。次の話をすぐにアップロードします。




