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偽勇者に失望したので、本物の暗殺者になった。

これはこのアンソロジーの最新話です。皆さんに楽しんでいただければ幸いです。

湿った夏の夜だった。

 古びた雑居ビルの屋上で、ひとりの男がじっと下界を見下ろしている。

 痩せた影。小柄な軍人——いや、殺人者。

 アメリカ軍特殊計画部隊所属。コードネームは 《Waker》。

 たとえ風が止まっても、彼だけは静かに揺れているように見えた。


 今夜、彼が消すべき標的があった。

 それは、ビルの出口から今にも姿を現そうとしていた。


 ——その瞬間、Waker の胸裏に、古い思い出が浮かんだ。


■ 過去の影


 彼の本名は、誰も知らない。

 少年時代の彼を知る者でさえ、もう覚えてはいないだろう。


 学校の廊下で、背を丸めて歩く細身の少年。

 バスケ部の大柄な連中に囲まれ、押され、殴られ、笑われる。


 その中心にいたのが 山斗(Yamato) だった。


 少年——まだ “Waker” ではなかった彼は、プロレスを信じていた。

 「無慈神むじがみ“無敵な”武藤」。

 テレビの中で暴れ回るそのレスラーを、彼は英雄だと思っていた。


 ラリアット。

 チョップ。

 フライングの技。

 月面宙返り——ムーンサルト。


 「これさえ習得すれば、俺も強くなれる」と。


 だから、彼は山斗に向かっていった。

 チョップを打ち込んだが、腕を掴まれ、床に叩きつけられた。

 ラリアットを試したが、軽く受け止められ、また倒された。

 無謀にもハリケーン・ラナを仕掛けようとして、逆に背中から沈められた。


 それでも彼は、何度も、何度でも挑んだ。

 プロレスならば、正義は勝つ。

 技を信じれば、敗北はない——そう思い込んでいた。


 そして、ある日。

 自分から仕掛けることを決意した彼は、廊下に積まれた椅子の前で走り出した。


 「——ムーンサルト!」


 跳んだ。旋回した。

 だが、山斗は一歩、横に避けただけだった。


 次の瞬間、鋼のような椅子に背中と首を叩きつけられ、世界は白く跳ねた。


 その日を境に、彼は 動けなくなった。

 背から下が、静かに、冷たく、沈んでいった。


 何年も、彼は天井を見つめた。

 憎しみと失望の坩堝の中で、ただ一つの考えだけが彼を熱くした。


 ——プロレスは嘘だ。

 ——俺に夢を見せて、砕いた。

 ——あいつらは全員、偽物だ。


■ アメリカの影


 そんな折、彼の前に現れたのが アメリカ陸軍の老将、ゴードン・ウェブスター だった。


 戦後の混乱を越え、アメリカを頂点に置き続けるために生きた男。

 だが、その強大な軍事力がもたらした“豊かさ”が若い世代を弱らせていくことを、彼は誰より憂いていた。


 怠惰で、肥満し、ゲームとネットに溺れた若い兵士候補たち。

 「この国を守れる器ではない」と、老将は結論した。


 ゆえに、軍は一つの計画を立ち上げた。

 ——どんな青年でも“戦える兵士”に変える血清を作る。


 研究班はそれを 《Simsシムズ》 と名付けた。

 完全なスーパーソルジャー・セラム。


 老将は、病床の少年に言った。


 「二度と立てない人生を、このまま受け入れるのか?」

 「お前が欲しがっていた“力”なら、ここにある」


 彼は迷わなかった。

 失うものなど、もう何もなかったからだ。


 《Sims》を投与されたあと、三年間の地獄の訓練が続いた。

 キックボクシング。

 極真空手。

 ムエタイ。

フリースタイルレスリング。

 グレコローマン。


 最高峰の指導者たちに殴られ、蹴られ、投げられ続けた。

 筋肉は再構築され、神経は再配線され、痛覚は研ぎ澄まされた。


 やがて、彼は立った。

 歩き、走り、殴り、蹴り、殺せるようになった。


 老将は笑った。


 「お前は、最軽量級(フライ級)の“殺戮機械”になる」


 その通りになった。


■ 復讐


 最初の任務が下される直前、彼は一つだけ願いを口にした。


 ——武藤に会いたい。


 老将は、黙って許可した。


 夜の郊外。

 武藤の自宅。

 マスクをかぶった黒い影は、玄関先の灯りを踏み越えた。


 プロレス技ではない。

 真の格闘術だった。

 カウンターの拳、ローキック、組み技、締め。

 そのすべてが、テレビの中の英雄を凌駕した。


 武藤は崩れ、荒い息の中で呟かされた。


 「俺たちは……見せ物だ。

  みんな、知ってる……。私たちは情けなくて、弱い男たちだけだ」


 その告白が、遠くのスマートフォン越しに日本中へ流れた。

 生配信の赤いランプが点き続け、コメントがあふれた。

そして武藤はブラジリアン柔術の絞め技で絞殺された。


 黒い影は、静かにそこを離れた。

 誰も彼の顔を知らない。

 知るのは、コードネームだけ。


 ——《Waker》。


■ 現在


 湿った夜風が、また吹いた。

 ビルの出口が開き、標的が姿を現す。


 Waker の呼吸は乱れない。

 復讐もやる気も、とっくに結んだ紐のように胸の奥でしずかに落ち着いている。


 「……行くか」


 影が動いた。

 小柄な影が、獲物の背を追って街路へ溶けていく。


 何も問わず、何も振り返らず。

 ただ任務だけを抱え、Waker は歩き始めた。


—— 終 ——

この話を楽しんでいただければ幸いです。次の話をすぐにアップロードします。

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