【波北朱音】読書する意味
翌週の月曜日もまた雨が降っていた。図書室に入って十分が経っても、野球部のランニングの掛け声は聞こえてくることはない。
相変わらず先輩はいつもの定位置の本棚にもたれて、本を読んでいた。
ただ今日の様子は尋常じゃなかった。
図書室に入ったときから、先輩は真っ赤に目を染めていた。そして、しばらくして嗚咽を漏らし始めた。何があったのかと先輩の様子を見ると、目から涙をこぼして床に落としていた。流れっぱなしの涙は今もなお、止まることはない。
鼻を啜っている音の元を見る。先輩は、今にも切れてしまうんじゃないかというほどに、唇を強く噛みしめている。
悲しいというより、どちらかと言えば悔し涙の方が近いように感じた。
感情的に地団駄を踏んで泣きそうな印象とは裏腹に、先輩は静かに泣いていた。
いつも余裕ぶっていて、何をするにも余力がある先輩が、泣いている。
目の前の先輩は、まるで自分の身にあることかのように悔しそうで、それが見ていて苦しそうだった。この人は人の悲しいことでも、自分のことのように泣いてそうだ。
今日だけは、この空間にも外と同じように雨が降っているようだった。先輩の鼻をすする音と、ページをめくる音を耳に入れながら、宿題を広げる。
先輩が鼻を啜るズビズビという音が、図書室に響く。
全然集中出来ない。
シャーペンを持ちながら、綺麗な海水を落とす先輩の横顔を眺めては、手元を見て、そしてまた鼻を赤くする先輩を見て、を繰り返していた。
次に手元を見たとき、パタンと本を閉じる音が聞えてきた。
先輩がこちらにやってくる気配がする。
「あー! この本すっごくよかったー!」
先輩は私の隣に座り、カウンターに置かれているティッシュを勝手につまんで鼻をかみ出した。
なんとなく気まずくて、宿題をやっているフリをしながら、先輩の顔を見た。先輩は、いつものおちゃらけた雰囲気に戻っていた。
「これ、本当に良かった。読むの三回目だけど」
「は?」
宿題を進めているフリをしている手を止め、先輩の顔を見た。私の声が静かな図書室に響き渡る。
三回目であんなに泣くということは、この人はよっぽど記憶力が乏しいのだろうか。
「いやぁー、重要な人物が三人いるんだけど毎回別の人になりきって読んでるんだよ。今日が一番感情的になっちゃったね」
「何でそんなに本を読むの?」
疑問が多すぎて、気が付けば敬語が外れていた。
先輩はティッシュを自分のもののように手元に置いてから、話を続けた。
「本を読むとね、自分のことが整理できるんだよ。例えば、現実でもどうしてこう思うんだろう思うことあるじゃん?」
そう言われて、私にも思い当たることがあった。
テストで一位になったのは中学生の頃からだった。それまでも、百点以外は取ったことが無かった。
でも私は、一位であることに喜べないでいる。その理由ははっきりしない。
嬉しくない訳じゃ無い。でも、私が一位であることに対して、他人が喜んでいるのを見ると、どうして私より喜んでいるのだろう、と思ってしまう。
こんなこと誰に言っても嫌味に聞えるだろうから、相談したことは無かった。
「全く同じ内容じゃなくてもさ、あぁ確かにこういう気持ちわかるかもなーっていうのが本にはあって、そんな形容しがたい感情が言語化されているんだよ。それにさ、自分が経験したことないことって、その人の話を聞かない限り理解できないじゃん? 例えば、異性のこととか、家族を殺された人の話とかさ。知りたいけど、詳しくはうまくわからないじゃん。だから、こうやって本を読んで知るんだよ。そうしたらわからないこととか、経験出来ないことに近づけるんだよ」
目の前の先輩が饒舌に話し出す。先輩が真面目に本のことを話すのを聞いていると、なんとなく勉強の出来る理由がわかる気がした。
「これ読む?」
私が興味深そうに先輩の方を見ていたからか、先輩はさっきまで読んでいた本を私に差し出してきた。
「読む」
私は先輩が差し出した本に触れた。
先輩に触れたわけではないのに、なぜか先輩の心のうちに触れたような感覚がした。ハードカバーの本は、意外と冷たかった。
「先輩、テスト八位だったね」
「あ、そうらしいね」
勉強なんてどうでもよさそうな様子で先輩は答える。
私は勉強が何より大事だと思って生きてきたから、先輩のその返答が面白かった。そして少し救われた気がした。
――この人の前では嘘をつくように喜ばなくて良いんだ。
私は宿題を放り、先輩から借りた二人の女の子が手を取り合っている絵が表紙に描かれた本を開いた。
『私にとって人を愛するということは、その人自身も殺してしまうようなものだった。私が人を愛することは罪だった』
誰の言葉かもわからない発言から、物語は始まる。そしていきなり物語は、取調室へと場面を展開させる。
「朱音! 髪の毛貸して!」
読書をしている私の邪魔をするように、先輩は私の髪の毛で超巨大なお団子を作り始めた。まるで、泥団子を作る子供のようにケタケタ笑いながら、私の髪を束ねている。
泥団子作りのために、髪の毛を引っ張られる。
「痛い、痛い」
私がそう言っているのに、先輩は構わず夢中になって私の髪の毛をねじっていく。頭皮に指先が当たる。先輩の長い指が耳の近くをさらりと触れる。
いとこの四歳児と同じ事をされているにもかかわらず、私は意味のわからない動悸に悩まされ、読書が全く進まなかった。視覚よりも触覚が敏感になっていた。
「可愛いね」
そして聴覚に移っていく。ド直球に向けられた言葉に胸が詰まる。いつもと同じようにケタケタ笑っている様子はまるで四歳児なのに、そのまっすぐな声に息が出来なくなる。
私は読んでもいない本のページをめくった。とにかく、動揺しているのを隠したかった。
「髪綺麗だね」
先輩は、そう言いながら作ったお団子を崩していった。そして私の髪を優しい手櫛で梳き始める
時々手が耳に当たって、声が出そうになるけれど、私はそれに反応しないように本を読んでいるフリを続けた。
「邪魔しないでください」
「朱音、猫ちゃんみたいで可愛いね」
先輩は、本当に頭がおかしい。呆れるぐらい自由で、他人の事情なんてお構いなし。
かと思えば、私から離れ、本棚へそろそろ近づき、本を読み始めた。
まるで休日に娘に振り回されるお父さんのように、先輩に操られているような気がする。
チラリと先輩を見る。先輩は、もう別の世界へ行っていた。今度は携帯を見ながら、いつも読書をしているときのように抜け殻になった。
先輩の方が十分猫っぽい。自由気ままな猫だ。
私は毎週毎週、四歳児のような猫のような、清水伊織に身も心も振り回された。




