【波北朱音】エメラルドオーシャン
テスト明けに見た先輩は髪の毛を切っていた。もともと短い髪の毛がさらに短くなっていた。
いつもと同じ本棚にもたれて本を読んでいる様子は、やっぱり猫みたいだった。気が付けばどこかに行ってしまいそうな印象もどこか猫っぽさがある。
今日の委員会では、五人ほど生徒が来た。どれも数学の解き方や、現代文のテストに出た物語の小説など、テスト勉強に使われたであろう本ばかりが返却された。
「ありがとうございます。ここに本を入れて下さい」
テンプレの言葉を投げかけ、確認のはんこを押していく。「はーい」という返事とともに人は消えていく。
今日はテスト明けで宿題も出ておらずやることが無い。暇を持て余し、委員会のノートをぺらぺらと眺めていくも、もちろん私の知らない名前ばかりだ。その上私の知らない本しかない。
ページをめくり続けると昨年度の分になって、何度も先輩の名前が出てきた。清水伊織。清水伊織。清水伊織……。
大体二週間おきに先輩の名前は書かれていた。
この人は普段読書以外には何をしているのだろう。もしかしてこの人は、現実世界にいるよりも本の世界に行っている方が長いのではないだろうか。
先輩に対しての謎は深まるばかり。
ちらっと先輩の方を見るも、こちらには目もくれない。時折首の骨の音をポキポキと鳴らしながら、本を読んでいる。
今はどこに行っているのだろう。そんなに楽しいのだろうか。
本の世界に入り込むなんてこと、できっこない。
そう思っていた。先輩と会うまでは。
先輩は、本の世界に入るという言葉を体現しているかのような有様だ。
頬杖をつきながら、ぼんやりと青い空を見る。前回とは違い、窓の外からは気合の入ったかけ声を出しながら、ランニングしている野球部の声や、数を数えながら体操している陸上部の声が聞えてくる。
その音が私をみじめにさせる。
私にも何か熱中できるものはないだろうか。
奏は小学生のころからずっとバスケを続けている。雄大は、小三で転校してきてから、中学まで奏と一緒にバスケをやっていて、高校に入学してからは、多くの時間をバイトに費やしている。
私は何がしたいのだろう。将来何になるのだろう。
想像してもぼんやりとした自分しかそこにはいない。なりたいものもやりたいこともない。
先の見えない暗いトンネルに、一人ぽつんと取り残されたかのような閉塞感を感じる。
外が一瞬静かになって、そしてまた声の束たちが私を襲った。
本当に孤独な気がした。自分だけどこかに置いて行かれているような気分に襲われる。宿題のない私は何も出来ない。人からこれをやりなさい、と言われなければ私は何もできない。高校を卒業したら私はどうして生きていくのだろう。
漠然とした大きな津波のような不安が、何の予兆もなくやってくる。
先輩は、私の方へ来ることもなくずっと本を読んでいる。時計の針の音は私の耳には届かず、時間が進んでいないようだった。
先輩をおかしな人だと馬鹿にしているけれど、こうして夢中になれるものがあることはすごいことだ。思えば私は、自分から何かを選べたことが一度もなかった。昔からそうだ。
お父さんがランドセルを買ってくれた時のこと。
『朱音は女の子だから赤がいいんじゃないか?』
女の子だから、というお父さんの言葉に何の疑問も抱かずに、私は赤のランドセルを選んだ。
一年生の時の同じクラスの子が、綺麗な水色のランドセルを持っていて、羨ましいなと思った。
十歳の誕生日の時もそうだ。私は選べなかった。
私は、たまごっちと、可愛いクマの人形の二つで迷っていた。
『二つとも買ってあげる』
お母さんにそう促されて、私は二つとも買ってもらった。
嬉しかった。確かに嬉しかったのだけれど、今思えば喜ぶことを強要されていたように思う。
私は感情を自分で選ぶこともほとんどなかった。私の感情はいつも両親に決められていた。
気が付けばこんなにも伸びた髪もお母さんに決められていた。
『長い髪の方が綺麗なのよ』
小学生の頃、髪の毛を結んでもらいる時に、何度も何度もお母さんに言われた。私は疑うこともなく、髪の毛は長い方が綺麗なのだと思いながら生きてきた。短くすることは私の選択肢には存在しなかった。
本当にそうだろうか?
本を読んでいる先輩の短い髪の毛をチラリと見る。
優しい両親に育てられたと思う。塾にも行かせてもらえているし、今でもほしいものは何でも買ってくれる。
でも、私のこれまでの人生はいつも選べる範囲が決まっていた。二人の許してもらえるもの、女の子らしいもの。二人が決める定義の中だけで私は生きてきた。だから、先輩と会っておかしいと感じた。
部活を頑張っている友達のところに勝手に入ったり、私の勉強を邪魔したり、勉強するよりもひたすら本を読んだり。先輩は私の選べないものを選んでいる。選択肢に存在しないものを、当たり前かのように選んでいる。その自由さに私は気付かないうちに、惹かれていたのだろうか。
「朱音! 帰るよー!」
先輩の声で我に返る。気付けば、十六時五十分になっていた。
床においてあるカバンを拾って先輩の方へ向かった。
「先輩はランドセル何色でした?」
「え? 何、急に! ランドセル? なんて名前の色だったっけ」
先輩はドアの前で立ち止まって、過去の記憶を辿っている。今でもランドセルは似合いそうだ。
先輩は「あ!」と声を上げると同時にガチャリと図書室の鍵を閉めた。
「エメラルドオーシャン!」
「えめらるどおーしゃん?」
かっこいい宝石みたいな名前の色を、頭ですぐに作れなかった。
「確か、その年の夏休みに家族で海に行って、それに似た色だったからかな!」
海の色……。いいな……。
自分の好きなものを選べた先輩。
――この人はどんな人を好きになるのだろう。
自由の象徴のような先輩は、指で鍵をくるくると回している先輩の背中に必死について行く。少し目を上げると、髪が短くなったことにより先輩の首と耳たぶが前までよりはっきり見えた。この短い髪も私の気持ちを躍らせた。
先輩は海みたいだ。広くて落ちたら出てこれなそう。それに、深くて底まで知るには時間がかかりそうだ。
「おーい、つばさー! 今日も来たぞー!」
声高らかに声を上げて先輩はつばさのいる教室へ入る。今更だが、部活中の人の邪魔をしているという自覚は、微塵もないようだ。
教室の中には、怪訝そうな顔で楽譜とにらめっこをしているつばさがいた。持っている楽譜を破り出しそうなオーラを漂わせている。もともと怖い顔つきだというのに、さらに怖さは増している。
「え、どったのつばさー? 失恋した?」
気遣いのない先輩の発言に耳を疑う。もし、本当に失恋してもこうして馬鹿にしたように笑ってきそうだ。本当に怖いのは、デリカシーの欠片もない先輩の方かもしれない。
先輩がいつも座っている椅子に座ったところで、つばさがやっと私たちに気付く。そしてその瞬間、つばさの威厳が急に消えた。
「いおりー、俺の演奏聴いてくれー。今度のコンクールで新しい一年とオーディションするんやけど、うまいやつやねん。自分じゃ何が悪いんかいまいちわからへんから、頼むわ」
つばさは助けを求めるような目で先輩を見た。関西弁が見た目によく合っている。
なぜ先輩に聞いてもらおうとするのだろう。
そんな疑問が浮かぶも黙って見ていた。先輩の返答も聞かず、つばさはクラリネットを吹き始める。立ったままだった私は、先輩の隣に音を立てないようにして座った。
つばさが弾き始めたのは、先輩がいつもリクエストするマイナーな洋楽とは違い、甲子園でよく聴く、定番の応援歌だったので、吹奏楽に疎い私でも聴いたことのある曲だった。
私はまたみじめになった。
こんなに吹けるようになるまでどのくらいかかったのだろう。私が呑気にお菓子を食べている時間もこの人はクラリネットを吹いていたのだろう。将来、演奏家になれる人なんて一握りだろうけど、こうして何かに向き合う経験をしていることがすごいことだと思う。
つばさの演奏を聴きながら、俯いて床の木目を迷路のように辿る。以前より音になれたのか、耳が痛くはならなかった。
つばさが一通り吹き終わると、先輩は顎に手を置きながら、話し始めた。
「うーん、なんだろう。なんか無理矢理感が強いんだよね。丁寧さが足りないというか」
まるで審査員のように、先輩はつばさの演奏を酷評している。そして、つばさはそれを聞いて、フンフンと頷いている。
私は目の前の光景に疑問しかなかった。
なぜ先輩はプロの演奏家みたいにつばさを評価しているのだろう。それに対してつばさもなぜ、偉い人からの評価を受けたみたいな顔をしているのだろう。
私なら、お前がやってみろよ、って思うと思う。というかそもそも、先輩に助言は求めない。
「タンギングも適当感がすごい。肺活量だけで乗り切ってる感じ」
二人ともいつもの穏やかな雰囲気とは違い、触ったら刺されてしまいそうな、鋭く真剣な表情をしている。もしかしたら先輩は、楽器のスペシャリストなのかもしれない。
そう思うほど、いつも幼い先輩が大人っぽい。
つばさは先輩の言葉に、なるほどなぁと納得して、なまりのある「ありがとう」を言った。
つばさが醸し出す雰囲気が少し軽くなる。つばさが私たちを置いてまた吹き出したので、私たちは黙って退出した。
「先輩って楽器詳しいんですか?」
「へ? 違うよ? これまで楽器なんて音楽の授業でしかやったことない」
職員室へ歩きながら、先輩は「ん?」という言葉と共に、私を不思議そうに見た。その顔をしたいのは私の方だ。
じゃあどうして、あんな風につばさにアドバイス出来るんだ?
「ただ音楽を聴くのが好きなだけ。色々なジャンルの音楽聴くよ。バンドもクラシックもレゲエとかも。演歌もたまに聞くし、洋楽以外にも日本の歌もときどき聞くよ」
先輩はあれやこれやとアーティストの名前を言い出したが、私はどれもわからなかった。
今まで好きになれた男の子も、興味を持てた趣味もない、誰かに大切にされることはあっても何かを大切にしたことはない。
先輩のおかげで、纏っていたオーラが少し明るくなったつばさを思い出す。
好き、だけで誰かの力になれるのか。
まるで、海の向こうから朝焼けが顔を出したときのように気持ちが昂ぶる。私は、先輩、清水伊織に興味を持ちだしている。
認めたくないけれど、多分、とてつもなく、興味を持っていると思う。
「ちなみに音楽好きから言わせてもらうと、朱音の声は超良いです」
「え?」
さっきまでのプロの審査員みたいだった先輩は幻だったようだ。
顔の横でピースしながら、ウインクをするというふざけた行動を取っている先輩は。真剣な先輩はちょっと格好良かったのに勿体ない。
そんな先輩を無視して、職員室へ向かった。