【紫の海になって、】[九話]
家が嫌になってから、ずっとフィクションの世界に逃げていた。
本、映画、音楽。
作品は俺を自由にしてくれた。
今までやらされてきたバスケよりも俺は本が好きだった。
現実では勇気がいることも、物語の中では簡単に経験できる。ただの文字が並んでいるだけなのに、それには価値があった。俺があの家で生きていくのに必要なものだった。
恋愛が苦手な人、
親を殺したい人がいてしょうがない人、
実は心の中で大きな憎しみを抱えている人、
助けてほしいのにそれを口に出来ない人、
死にたい人。
俺はそういった人たちに共感した。共感することは心地が良く、その人と同じ感情を持てることが、ひどく気持ちよかった。
親が嫌いでも、恋愛が嫌いでも許される気がした。
作品に共感するにつれて、愛は共感だと思った。
楽しさの共感。
寂しさの共感。
それが出来る同士でないと恋愛は難しい。俺が悲しいと思っても、相手は悲しくないかもしれない。俺が嬉しくても、相手は悲しいかも知れない。
俺は初めて共感することが出来た。顔も知らない人が描いた物語に共感した。それと同時に俺の中に欲が生まれた。
――共感されたい。
ただそれだけの理由で俺は本を書き始めた。
部活が終わって疲れていても、その日の父親の機嫌が悪くても、俺は毎日夜中まで本を書き続けた。
夜中父親が二階に上がってくる足音が聞こえたら、キーボードを動かす指をいったん止める。そしてまた続きを書く。
どうしても父親にバレるわけにはいかなかった。
父親に許されない物語を作っていたからだ。
自分の人生を詰めた、私小説を作っていた。
言いたかったこと、
言えなかったこと、
苦しかったこと、
実は嬉しかったこと。
全て詰め込んだ。
自分に作家の才能があるわけではない。めちゃくちゃになる文章を整えもせず思いを全てぶちまけた。
うざい。
怖い。
痛い。
気持ちがいい。
褒められたい。
愛されたい。
許したくない。
忘れたい。
許されたい。
許したい。
辛い。
泣きたい。
死にたい。
大好きな人に大好きだと言いたい。
この全部に共感されたい。
自分でない何かになって笑う俺の本心を、包み隠さずさらけ出した。
そんな物語はもうすぐ完結する。
作品が作れたから、これで次死のうとしたとき、俺は踏みとどまることなく、死ぬことが出来る。死んだ後、事実がねじ曲げられたらどうしようなんて思わなくていい。
全てはこの小説にあるのだから。
何回も死のうとした。でも何回も死ねなかった。
死ぬ直前、やり残したことが頭によぎる。
海に行ってからにしよう。
父親に許さないって言おう。
兄貴に助けてくれてありがとうって言おう。
蒼空と日和にちゃんと謝ろう。
本当のことをちゃんと言ってから死のう。
だけれど実際に行動には移せなかった。本当の気持ちを言おうとしても、口から出るのは嘘の言葉ばかり。
汚い自分を知ってほしいのに知ってほしくない。
だから、俺は小説に逃げた。俺はずるい人間だ。
作った小説には、たくさんの批判コメント来た。初め、俺はそれに耐えられないと思っていた。本心にナイフを刺されるのは、血を吐くほど辛いことだと思った。
けれど意外にもそうでなかった。
仮面を被らずに生きている自分に話しかけられているのは、ずいぶんと心地が良かった。
アカウント名が本名のやつが、メールを送ってきたりもした。
アカウント名が本名のプライバシー管理がばがばのそいつは、俺に質問ばかりしてきた。
『どうしてこの小説を書いたのか』と聞かれたから、『遺書として書きました』とメールも送った。しばらく返信が来なかったが、どうやらそいつからのメールが来たみたいだ。
こんな朝型にメールしてくるとは非常識なやつだ。
携帯を開く。
海水に濡れたが、まだ問題なく作動している。
俺は新着メールをタッチした。
白い画面に、文字が並ぶ。
『私、あなたの死にたいに共感しました』
それを見た瞬間。
ちょっとだけ、
ほんのちょっとだけ、嬉しくて笑ってしまった。
俺の小説を読んで、俺の人生を見て、俺の本音を見て共感してくれる人がいる。そう思うと自然と笑いがこぼれた。
こいつの共感は、信頼ができた。こいつの言葉は嘘ではないと知っていた。
こいつの言葉で、俺は初めて作品が愛されていたことを実感できた。
偽物の俺ではなく、
仮面の奥の本音を愛してくれた。
『ありがとうございます。嬉しいです』
最後のメールにも、作品のコメント欄と同様、そう返信をした。
『遺書として書きました』というメールに対し、死なないでくださいなんて無責任なことを、こいつは言わなかった。
それに救われた。
理解されるでも、わかってもらえるでもない、『共感される』ことで俺は愛された気がした。
俺はやるべき事を全て果たして、携帯と靴を砂浜に投げ捨てた。
俺は何になりたかったのだろう。
俺は何になれるのだろう。
太陽にも空にもなれない俺は何だったのだろう。
悲しさが溢れたような潮の匂いが鼻につく。
ゆっくり立ち上がり、膝の辺りが海水で浸かるくらいのところまで歩いて行く。冷たい。
けれどそれ以上に俺が冷たかった。
綺麗な海。
日和の大好きな海は綺麗だ。太陽がいれば海は輝き、海がいれば、太陽の綺麗さは際立つ。
次第に雨が降ってきた。はは。俺に似合う雨だ。
俺の顔を伝う雨は、海と同じ味がした。
生きたくない理由はやまほどある。
辛いことなんかやまほどある。
嫌だったこともやまほどある。
下半身を完全に海水につけた。
もう冷たいなんて感じない。海の温度の方が心地良い。
蒼空のお母さんはどんな気持ちで、死のうとしたのか。
――愛されに行くため? いや、違うな。
俺は水平線の先へ歩みを進めていった。
太陽が淡い光を放ちながら、空に現れ始める。まるで電車がホームにやってくる瞬間のようだ。
あぁ、そうか。愛されに行くんじゃ無い。持て余した愛情を伝えたかったのか。
蒼空のお母さんの気持ちが少しわかった気がした。
今日も変わらず朝がやって来る。
俺は胸の辺りまで身体をつけた。下半身はもう海の中に溶けていったかのようにふわふわしている。
どこにも人がいないから、海の中に下半身を沈めながら、最後に声を張って歌を歌った。
気持ちがいい。
ずっと自由になりたかった。
けれどそれを怖がっていた。
どこに行っても何をしていても、犬ののびるリードをつけられている気分だった。どこに行っても俺は必ず父親に支配されていた。
俺は、今からそれをぶち切るのだ。
太陽が強い光を放ち俺の姿を捉える。
海面から顔だけを浮かばせながら、空を見上げた。
夜はもう来ないのか。
夏祭りにはもう行けないのか。
花火を見ることも出来ないのか。
ぼたりと顔に水が滴る。潮の匂いが鼻につく。
――もう蒼空と日和には会えないのか。
自分の顔からしずくが落ちる。それは雨のように止まらなく流れた。
二人には俺の気持ちをわかってほしかった。
俺の気持ちを言いたかった。
けれどやっぱり言えなかった。遠回しになって、直接言葉に出来なかった。
俺は、お前らに、子供じみた汚い俺を知られて嫌われるのが、ずっと怖かった。
きっと蒼空と日和がいなかったら、俺は夏祭りなんてキラキラしたものに行けなかった。
脳裏に花火を見ている二人がよぎる。
俺が死んでも良いと思えた理由はお前ら二人なのだ。
そう思わせてくれ。他のことは忘れさせてくれ。
俺の顔から落ちるしずくは流れる量が増えていく。
しかし、身体の力が抜けていき、涙と海水は一体化していく。目を開けてもぼやけた青しか見えなくなった。
――最後に言い残したことは?
もう一人の自分が脳内で問いかける。
――そんなの直接言葉に出来ないから、これを書いたのだ。
俺は愛されるのが怖いから、ただ精一杯愛することだけを選んだ。
海になる。
俺は海になる。
海の全てに自分が包まれる。海に抱きしめられているみたいだった。
俺は日和と蒼空を自分の一番にしたかった。別に一番にされなくてもいい。もうそんな贅沢なことは望まない。
それに名前をつけるなら、何だろう。
友情にも負けない。
恋愛にも負けない。
結婚にも負けない。
家族愛にも負けない。
大好きの上があるのなら、一体何だろうか。
俺の小さくて重すぎる感情に名前をつけるなら何だろうか。
愛している。その一言で全て伝わればいいのに。
俺の海の中で二人と抱き合いたい。
俺の海の中に二人を閉じ込めてしまいたいわけではない。俺はちゃんと二人を大切に思っている。
泳ぎに来て。素っ裸で泳ぎに来て。
二人なら俺の海でもきっと『温かい』『綺麗な色だね』って言ってくれるでしょ。
俺のすべてで抱きしめてあげるから。
苦しい。息が吸えなくて苦しいのではない。溜めていたものを吐き出したくてしょうがないのだ。
俺は全て吐き出すかのように息を吐き出そうとした。そこで異変に気付く。
――あああああああああああ!
必死な思いで叫ぼうとした。けれど叫び方がわからない。もう口がない。もう人間でない。きっと海になったのだ。
気がつけば、そこら中一体が紫になっていた。
雨になれないかな。
雪になれないかな。
そうして二人にもう一度触れられないかな。
吐き出した事がないから、どうすればこの苦しみが収まるかわからない。必死にもがいた。
「大丈夫か?」
どこからか声が聞こえた。誰だ。父親に年令の近い、渋いお茶のような暖かい安心感のある声がした。




