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【紫の海になって、】[六話]

 夏祭り翌日の部活終わり、父親の運転する車で、蒼空のいる病院へと向かっていた。

「お前、どうして大人に言わなかった?」

 バックミラー越しに、父親と目が合う。

「何のこと」

「『何のこと』、じゃねぇよ。蒼空くんのお母さんのことだよ。祭りの日、様子がおかしいのに、気付いていたんだよな? 俺が蒼空くんのお母さんを見かけなかったらどうなっていたか」

 父親はなかなか右折出来ないことに舌打ちをした。いや、俺に対してかもしれない。まぁどっちでもいいけど。

「蒼空くんのお母さんの携帯からお前の声が聞えてきたんだよ。『大丈夫、大丈夫』って言ってたな。何がだ? そうやって何も出来ない子供のくせに口だけは達者だな」

「一一九に通報したよ」

「そうじゃねぇだろ! 死のうとしてたんだぞ! お前は目先のことばっかりだな。電話してるのに気付いてたなら、それを誰かに言ったらよかっただろ!」

 父親はハンドルを持ちながら、人差し指で一定のリズムを刻み、苛立ちを表していた。

 そんな父親を見て思った。


 こいつは頭がおかしいのではないか。

 『俺は正義のヒーローですよ』とでも言いたげだけれど、相手からしたら迷惑かもしれない。

 お前こそ、自分のことしか見えていない。

 あんなホームレス、死んだらよかったのに。死にたがっているなら死なせてやればよかったのに。

  

 自分の悪いところがいまいちわからないまま、蒼空のいる病院に着いた。

 蒼空は、相変わらず馬鹿そうな顔で笑っていた。

 こっちはあんなに怒られているというのに、こいつは本当に呑気だ。

 俺の隣にいた父親は、蒼空のいる病室に入った瞬間、『良い父親』という外面モードに入った。こいつもある意味、おままごとをしているのかもしれない。でもこいつの場合、おままごとをしている状態としていない状態がちゃんと出来ている。俺とは違う。

 俺はもう、その境界線が消えかけている。

 病室に響く、いつもよりワントーン高い父親の声が異常に耳障りだった。

 俺は蒼空に一つの望みを託した。


 蒼空の話を聞けばこいつらも反省するかもしれない。

 子供を殴って、傷つけることの凶悪さを身にしみるかもしれない。これまでの自分は間違っていたのだと理解するかもしれない。

 

 そんな望みを託した。


 蒼空は俺たちに向かって、か細い声で話し始めた。蒼空の消え入りそうな声を聞いたのは、これが初めてだった。

 感情がめちゃくちゃになっているのか、話が飛び飛びになっていた。

 父親が死んでから、母親がおかしくなったこと。

 姉が家に帰らず遊んでいること。

 親に殴られ、否定され死にたいと思っていること。

 俺はぐっと拳を握りしめた。

「俺……。こいつみたいに才能もないし何も出来なくて母さんを惨めにさせちゃって」

 蒼空は俺の方を見た。

 いいや。俺も父親を惨めな気持ちにさせた。俺には才能なんてない。あるとすればおままごとの才能ぐらいだ。俺を勝手に才能の一言で片付けるな。俺だって努力している。

 心の中で蒼空を否定する。

「死にたいなぁって」

 わかるよ。

 なあ、死にたい。

 俺だって、死にたい。蒼空を苦しめた暴力と言葉。俺も同じものに苦しめられた。

 蒼空の涙に、俺もつられそうになった。

 でも、一瞬にして引っ込んだ。


「かわいそうに……。そんな冷たいこと言う親はいないよ。きっとお母さんはそのとき頭がいっぱいいっぱいになっていたんだ。そんな言葉信じなくて良いからね」

 寒気がして身体が震えた。父親は自分が蒼空のヒーローだと錯覚している。こいつは頭がおかしい。自分の罪に気付かない。

 ふつふつと湧いてくる苛立ちで貧乏ゆすりが止まらなかった。大きく動かない自分の体と、うごめく自分の心の反比例さに気が狂いそうになった。

 

 父親は自分のやったことを簡単に許した。俺に殴ったり、暴言を浴びせたことを簡単に忘れて簡単に許した。思えばずっとそんなやつだった。ありがとうもごめんなさいも言わない。俺が見てきた父親はずっとそうだった。

 怒りと悔しさと何かわからないものが溢れてきそうで、何度も息を呑んだ。

「そうよ。蒼空くんは何も悪くないわ」

 もう一人の偽物が口を開く。俺の鼻息は徐々に荒くなっていった。

 

 俺はそんな言葉望んでいない。そんな冷たいこと言う親はいないというなら、お前らは俺の何だ。

 俺はどうして何も悪くないと言ってもらえないのだ。


――許せない。


 平気で嘘をついて、嘘をついていることにも気づかずに、俺の心を平気で踏みにじるこいつら許せない。

 俺のことを失敗作だと言った父親も、そんな様子をただ見ているだけの母親も目の前にはいなかった。目の前にいるのは、優しいという仮面を被った偽善者しかいなかった。

 耳を塞ぎたい。

 今すぐ逃げ出したい。

 そう思っているのに、俺は蒼空の寝ているベッドの隣に座ったまま、偽善者たちの顔をただ見ていた。

 父親と目が合う。お前も何か言え、ということだろう。

 俺は小さく息を吸い込んだ。


「大丈夫だよ」


 ここでこの言葉を使う俺は、本当に最低だと思う。父親がひどく冷たい目つきで俺を見ているも、気付いていないフリをした。

 蒼空が大丈夫じゃないことなんか、見ればわかる。

 俺は日和の次は蒼空を傷つけた。何も知らないやつから言われる「大丈夫」ほどいらつくものは無いだろう。

 わざわざこんな言葉を言うなんて、俺は子供じみている。

 子供じみた心が、大人になる蒼空と日和に置いて行かれているのを感じる。 

 蒼空の涙の溜まった目には、俺の偽物の笑顔が映っていた。

「ありがとう」

 蒼空は揺れる声でそう言ってから、わんわんと泣きだした。

 それを父親は、偽善の笑顔で見ていた。

 対して母親はこちらを見ていた。俺が無駄なこと言わなかったからそれに安心した顔をしていた。

 俺は、頭を抱えたい気持ちを必死になって抑えた。


 それから蒼空と二人で購買へ買い物に向かっているとき。

「ありがとうな」

 蒼空が俺にそんなことを言い出した。

 『ありがとう』

 そう簡単に口に出されたことに、腹が立った。適当にその場を流し、購買へ向かった。

 俺は何もしていない。せめて蒼空が俺に一番に真実を打ち明けてくれたら、俺の心は晴れたかもしれない。

 知らないことだらけだった。母親にそこまで苦しめられていたことも、姉貴が蒼空を置いて逃げていることも、蒼空が俺の両親に話すのを聞いて初めて知った。

 俺の力では、何も出来なかった。

 俺はお前の手をとることすら出来なかった。

 お前の本音を聞き出すことすら出来なかった。

 変化に気づいても嫉妬心をむき出しにすることしか出来なかった。

 お前の傷ついた様子を見てトイレで泣きながら笑うことしか出来なかった。

 それに加えて俺はさっき、お前に故意に「大丈夫」と言った。

 お前が父親と母親の冷酷さに気づいてくれなくて、俺は拗ねていたんだ。

 レジに並びながら、頭の中で思いを溜めていた。

 そうして、購買でアイスを買って、再びエレベーターに乗り込み、蒼空の病室へと戻った。

「蒼空はさ……」

「ん?」


――俺も死にたいと思ってるよ。


 エレベーターという二人きりの空間で、出かけた言葉を飲み込む。そして代わりの言葉を投げつけた。

「お母さんに対してむかつくとか、うざいと思わなかったの?」

 俺は汚い蒼空を見て、どこか安心したかったのだと思う。

「うーん……。むかつくって思う前に助けてもらったからなー。死ねっていうお前が死ねよ! とか思いたくなくて……。でもどうすれば解決するのかもわかんねぇじゃん? 俺、お前とか日和みたいに優秀なわけじゃないし」


――お前が優秀だって思う俺も『死んでしまえ』って言われたよ。『失敗作』って言われたよ。


 口に出せない言葉が、胸に溜まっていく。

 蒼空の声はいつもより大人びていて落ち着いているように聞こえた。

 俺より辛いはずの蒼空はどうしてこんなに綺麗なのだろう。

 こんなにも恵まれている俺はどうしてこんなに汚いのだろう。

 蒼空よりも俺は恵まれている。蒼空がやりたくても続けられなかったバスケを俺は続けていて、バイトをしているも俺は家にいて、殴られたのも怒られるときだけ。それも傷がつかない軽い程度に。

 俺はここで声を大にして辛いとは言えなかった。

 親の凶器じみた嘘と、自分だけ恵まれた環境にいることで蒼空から嫌われたんじゃないかという心配で心がめちゃくちゃになった。

 

 蒼空と俺の辛さは明らかに同じではなかった。


「本当お前らが幼馴染でよかったよ。お前もなんかあればいつでも助けるからな。言ってこいよ」

 蒼空の言葉に息が詰まった。

 お前に俺は助けられないよ。

 俺は闇の中にいるから光のお前は入ってこられないよ。

 俺みたいな汚いやつ、

 お前は嫌うに決まってるよ。

「まあ俺なんかに言うことなんかねえか」


――言いたいこと。いっぱいあるよ。


 開いたエレベーターの中で、俺は立ち止まっていた。蒼空はそんな俺を振り返って見た。

 

 ここから出たら、またいつものように笑わなくちゃいけない。

 覚悟を決めるように、エレベーターという空間から広い空間へと出た。

 

 何が辛いかもわからないのに、ずっと悲しい。

 しんどい。

 辛い。

 

 蒼空の手を取りたいわけじゃなかった。お前を助けたいなんていう気持ちよりも、他に大きな気持ちがある。

 

――俺は、蒼空に、日和に、救われたい。


「美味しいな」

 アイスを食べながら、蒼空は満面の笑みをこぼす。

 アイス一つでこんなに喜んで、こいつは本当に眩しい空みたいなやつだ。

「うん、美味しいね」

 また嘘をついた。

 味なんて到底感じない。

 俺の心の奥のどす黒いブラックホールに、真っ白なアイスクリームは跡形も無く消えていった。



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