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【紫の海になって、】[四話]

 高校一年。七月の祝日。海の日の部活帰り、だらだらと帰っていると、日和を見かけた。

 日和は、綺麗な女と手を繋いでいた。

 

 もう夏だというのに、繋いでいる手を隠すように暑苦しく二人はひっついていた。

 日和にべたべたと触れる女の人を、俺は知っていた。

 学校中で気持ち悪いと噂されている女の人だった。

「お誕生日おめでとう」

 その女の人に優しく笑いかける日和。

 日和の見たことの無い顔に、俺はおもわず足を止めた。二人がどういう関係なのか、日和の顔を見るだけですぐにわかった。


 二人は夕日に照らされてキラキラしていた。二人とも綺麗だと思った。二人はお似合いだと思った。

 日和は、俺と同じでは無かったのだ。

 そう決定づけた瞬間だった。

 日和は、俺とは違う温かい心を持っている。心の汚い俺とは違う。

 その事実が、俺の心を締め付けた。


 学校での昼休み、教室でお弁当を食べていると、こちらに米粒を飛ばしてくるやつが二人いた。

「昨日遊んだ二組の女の子いるじゃん? 顔はかわいいのに私服が無理だったわ」

「わかる! 地雷系っていうの? ただカラオケ行くだけだったのにすげえ格好してきちゃってひいちゃった」

「それな!」

 教室内では毎日汚い会話が繰り広げられる。賛成したくないけれど、クラスのリーダ格のこいつらに目をつけられるのも面倒だから、黙って聞いていた。  

 教室内の雰囲気を自分たちの機嫌だけで左右するこいつらは、何もできないくせに態度だけはでかい。

「お前は部活だったもんなあー。さすがのお前も見たら引いてたよ、あれ」

 生ぬるい息で俺に話しかけてくる二人の男。


 気持ち悪い。

 吐き気がする。


 自分がさも選べる側だと思って女を選別していくその目。

 俺を同類にするな。お前らの態度に引くわ。

 何か無駄なことを言えば俺の印象が悪くなる。それはご免だ。

 だから、俺は口に食べ物を詰めて、頷きも否定もせず笑った。

「そういやこの前も、告白されたらしいじゃんお前?」

「あの四組の可愛い子な! あれ選ばずに誰選ぶんだよ」

「お前が選ぶのは、さぞ美人の女なんだろうなー」

 気持ち悪い男たちは、俺を箸で指して笑ってくる。

 選ばないを選びたい。そう答えたかったがやめておいた。

「いや、僕部活忙しいから、悲しませちゃうと思うし」

 これが正解。わざと周りに聞こえるように少し声のボリュームを上げた。俺の言葉に『フゥー!』と周りが盛り上がる。

 本当は、こんなこと微塵も思っていないのだけれど。


 話題は目まぐるしく変わっていた。よくそんなに話すことがあるものだ。それも他人のことばかり。

 口に米を詰めたまま、男は話し出した。

「俺らの学年の首席の子。あの子もかわいかったよな。狙ってみようかな」

「あの大人しそうで、キレイ目の子!? 俺も狙ってるんだけど!」

 汚い男たちは話題を日和へ変える。

 入学式の新入生代表で挨拶をした日和は、学校中に名前が知れ渡っていた。昔から男に人気だが、蒼空が番犬のように日和を守っているから、なんとかなっていた。

 日和を取られたくないのが見え見えだから、蒼空には女が寄ってこない。それを日和は、蒼空がモテないと勘違いしている。

 なんとも不憫で見てられない。

「そういやお前知り合いだったよな! 連絡先教えてくれよ!」

「俺も俺も!」

 下心でいっぱいの目で汚い男たちは、日和の連絡先をねだってきた。

 まぁ、こいつらと同じくらい俺の心も汚いか。

 俺はゴクリとトマトを飲み込んだ。そして、口を開いた。

「でも、日和恋人いるよ」

「……は!?」

 俺の一言に男たちは、狙っていた獲物が実はごみだった時のような目をした。


 俺は一ミリも信用していないこいつらに言ってやった。

 じわじわと心の底から感情が湧き立ってくる。

 俺は、こいつらを信用していないから言った。

「あんまり言わないでほしいんだけど……。日和は女の子と付き合ってるよ」

 小さい声で、放心している男たちに告げた。

 言わないでほしいなんて一ミリも思っていない。

 噂が広まってほしい。

 劣等感まみれで生きてきた俺の心を早く楽にしたい。

 日和が俺と同じところまで落ちぶれてしまえばいいのに。

 それならもっと日和のことを好きになれる。

 俺はいつも通り、笑ったまま、食事を続けた。


 俺が汚い男たちに告げてからすぐ、まんまと日和の噂は学校中に広まった。

 俺の話した内容はやっぱり真実だった。噂は、尾ひれがついていき、あることないこと言われていた。

 一緒にいた女の先輩に、前よりひどい噂が流れるようになった。

 しかし、俺の心は全く晴れなかった。


 部活終わり、部室を占領しながら着替える二年生が、俺が流した噂を口にしていた。

「俺らの学年のレズの子いんじゃん? すげえ美形でスタイル良い子。あの子、一年の首席の女の子と付き合ってるらしいぜ」

「まじかよ。俺らの貴重な女たち減らすなよな」

 俺は着替えながら、湧き出る汗をタオルで拭き取った。

「いやー、しかもあの二人顔は可愛いじゃん? もったいなくね?」

「それなー。あの顔なら俺全然あり!」

 女を選ぶ立場にない先輩たちが、狭い場所で着替える俺たちに見向きもせずに、のんびりと外へ向かって出ていった。

 俺はため息をついた。

 気持ち悪い。

 男なんて気持ち悪い。

 全員の汗の匂いが混じるむさ苦しい空間で着替えながら、何度も息を止める。そして、脱いだ服をぐちゃぐちゃにカバンに詰め込んでいく。

「おーい、一年早くしろー」

 部室の外で片付けもせずに、先に着替えた三年生の声がした。

 俺は、わざとゆっくり着替えて部室から出た。


 男なんて気持ち悪い。

 俺は、まるで自分が男ではないかのようにいつもそう思っている。


 男女で性行為すれば、男は必ず抱かなければならない。まるで自分の意志でそうしているのが当たり前と言われているような気分になる。中学三年の時、付き合っていた彼女に抱かれたいといわれた俺は泣きそうなほどそれを感じた。

 女は自由だ。

『抱かれた』

 その言葉はいい意味にも悪い意味にも捉えられる。

 嬉しかった。

 気持ち悪かった。

 どちらもその一言で済む。責任をすべて男に押し付けるような発言を平気でする。

 男女での恋愛は不平等だ。女は、「女を大事にしろ」と言うくせに、女は自分を大事にする。男の俺たちのことはいったい誰が大切にしてくれるのだろうか。

 俺は日和が人を好きになって、好きになってもらえることが妬ましくて仕方なかった。

 

 だから噂を流した。

 

 親にも愛されて、蒼空からも異常なほど愛されて、付き合っている相手からも愛されている日和。

 みんなから嫌われてはいないけれど、愛されるほど必要不可欠な存在ではない俺。

 男でない日和は必ず俺よりも綺麗だ。

 兄貴に感じる埋まらない差による劣等感を、俺はずっと日和にも感じていた。

 

 俺のせいで日和は『学年一位の女の子』から『同性愛者と付き合っている女の子』へと一瞬にして変わっていった。

 

 日和はそれでも、あまり避けられなかった。付き合っている先輩の方は、もともと周りから避けられているみたいだったけれど、日和は『同性愛者』というくくりにはされなかった。

 どちらも愛することが出来る、広い心を持った女の子だと思われているようだった。

 無理矢理相手から付き合わされているという噂も耳にしたが、一緒にいた様子を見る限り、そういうわけでは無いと、俺は確信していた。

 

 どうして俺は、恋愛が出来ないのだろう。人に好意を持てないのだろう。

 

 日和に対する劣等感という汚い感情で頭の中が埋め尽くされる。

 それはどうしても拭うことは出来なかった。


 夏休みの、ある日の夕方。

 部活が少し早く終わったから、俺は町を回るようにランニングをしていた。

 家で過ごすより、走る方が楽だった。何も考えなくてよくて、走っている時間だけは自由だった。

 腕時計を確認する。時刻は十九時になろうとしていた。

 そろそろ帰ろうと学校の前を通り過ぎる。

「あれ……。こんにちは」

 前から蒼空の母さんが歩いてきたので、軽く会釈して挨拶した。蒼空は確か、今の時間バイトに行っているはずだ。

 蒼空のお母さんから反応は返ってこない。

 パジャマのような格好、ぼさぼさの髪、手入れのされてないガサガサの肌。ふらふら歩いている様子はまるでホームレスだ。

 見ているだけで恥ずかしくなる。

 靴も履いていない。何してんだこいつ。

 周りからすごく視線を浴びているのに、それに気付いている様子も無い。

「もうダメだ、疲れた。死にたい」

 目の前のホームレスは、ぼそぼそと呪文を唱えるようにしながら、俺を素通りして、駅の方へと向かっていった。

 もしかして人違いか、と思ったが、何回見ても蒼空の母さんだった。


 死にたいなんて、父親がいなくなっても元気に笑っている蒼空が聞いたらどう思うだろう。

 ふらふらと歩く後ろ姿にいらだちが増した。

 大人は汚い。

 愛情も汚い。

 愛する人がいなくなっただけで、あんな風になってしまうのを見て、恋愛への嫌気がさらに増した。

 

 ハイペースで走りながら家へ戻っていると、次は買い物帰りの日和のお母さんの後ろ姿が見えた。

 蒼空のお母さんとは違って、目元にもちゃんと色を使って化粧していて、唇も赤い。ちゃんと身なりに気を遣っていた。

「あ、日和のお母さん久しぶりですね。こんにちは」

「あら、久しぶり。元気ね。ランニングして」

 好きでやってるんじゃない。家にいたくないから走っているのだ。

 俺の黒い部分が、喉元までせり上がってくる。

 

 そしてそれは、別の言葉となって爆発した。

 

「日和も、最近恋人が出来たみたいで、元気ですよ」

「恋人?」

「一個上の女の先輩とお付き合いしているみたいですよ」

「え?」

 神のように優しい日和のお母さんでも、顔が歪んだ。

 あはは。

 日和も親から嫌われてしまえばいい。

 それなら俺と一緒だ。

 俺はお得意のおままごとで完璧な笑顔を貼り付けた。その日は貼り付けたのは、『同性愛にも差別しない優しい人』のお面だった。


 差別しないという意識が人を不快にしていることがよくある。それは差別しない自分に酔っている、自身の体裁のための意識だ。

 同性に恋愛しようが、異性に恋愛しようがただ普通に恋愛しているだけ。俺にとっては人を愛せることも、愛されることも羨ましい。人を心から愛することは、愛される覚悟がある人にしかできないことだと思う。

 けれど、俺は愛されている日和が憎いくせに、誰かから好かれるのは嫌だった。

 俺が人から好かれるのはいつも、俺が好きでもないバスケで活躍したとき。

 夜中泣きながら机に向かって勉強して結果が出たとき。

 どんなにしんどいことでも笑ってこなしたとき。

 俺は無理をしているときにしか人から好かれない。昔からそうだ。

 作り物の俺を誰かに死ぬほど愛されてしまったら、俺はもう本当の俺に戻ることはできないのだ。

 だから俺は人を愛せない。受ける代償に耐えられる自信はないから、愛せない。偽物の俺が愛されるのは嫌だ。だから、愛せない。

 俺は俺のまま誰かに、めいいっぱい必要とされたい。でもそれは、俺がおままごとをやめることから始めなければならないのだった。それに気づいていたが、おままごとをやめようとは到底思えなかった。


 夏休み、観測史上最高温度を記録し、最悪の夏だった。蝉はうるさいし、男はさらに臭くなる。最悪だ。

 そんな夏休み、蒼空は補習を受けに学校に来ていた。

 本当に馬鹿で呑気だ。

 補習になっても生きていることが羨ましい。

 俺ならとっくに父親に殺されているだろう。

 俺は、ランニングしながら蒼空のいる教室を眺めていた。

 

 補習の最終日。とにかく暑かった。

 先輩を抜かすと怒られるので、手を抜かなくてはいけない。

 顧問に怒られない程度に、ゆっくり走っていた。

 他人のペースに合わせるのは嫌いだ。もうこんなのやめてしまいたい。

 試合に出られなくていいから、俺も蒼空と同じようにアルバイトして、お金を貯めて、高校卒業と同時に家を出たい。

 蒼空のいる扇風機の回る教室をもう一度眺める。

 

 思わず立ち止まった。

 ランニングなんてどうでもいい。こんなランニング何の役にも立たない。

 俺は蒼空の教室に近づき、蒼空をまじまじと見つめた。

 

 そこには亡霊のような蒼空の姿があった。不自然に顔にあざがあって、それを必死に隠すように、必死に顔を傾けたり、ペンを持っていないときは頬杖をついたりしていた。

 まるで心配してくださいとでも言いたげな表情で、蒼空は補習を受けていた。


 フラフラと歩くホームレスのような女を思い出す。

 蒼空のお母さんを最近、頻繁に駅前で見かけるようになっていた。きっと蒼空がバイトでいない時間に散歩していたのだろう。

 蒼空は『疲れている』というより、『壊れかけている』という言葉の方が正しいように見えた。

 クマのある目で、だらしなく笑っている。

 初めて俺に「かっこいい」と言ってきた、眩しいあいつの笑顔では無い。無理矢理貼り付けたものだ。

 勉強でもない。

 バイトでもない。

 日和の恋人でもない。

 何かどうしようもないものに、自分じゃどうしようもないものに傷つけられている。どうしてそう思ったのか理由はわからない。

 教室の中で先生に話しかけられた蒼空は、太陽のようにきらきらと歯を出すいつもの笑顔とは違って、唇をだらしなく横に伸ばしているだけだった。

 どうしようもない気持ちになり、誰にも見られない場所に行きたくなった。

 俺は、さっきのランニングよりもはるかに速いスピードでトイレに駆け込んだ。そして、個室に入って鍵を閉める。


 感情が溢れて止まらない。


 汚い感情と同じように、汗がたくさん顔から流れてきた。


 あいつがうらやましい。

 顔にあざが出来るほど、誰かに傷つけられているなんて、うらやましい。

 蒼空は虐待を受けた保護犬のように、かわいそうになっている。

 俺も目に見える傷が出来れば、きっと父親がクソなことをわかってもらえる。


 怪我をするまで殴られたい。

 殺されるほどに殴られたい。


 贅沢すぎる願いに馬鹿馬鹿しくなる。

 肩を上下に揺らしながら下を向く。

 笑い声が聞えてから、自分が笑っていることに気がついた。

 

 それから体育館に戻り、顧問に「体調が悪くなってトイレにいた」と嘘をついた。

 人生そのものが偽物のような俺は、嘘をつくことなど容易だった。

 小学校では「嘘をつくことはいけません」なんて言うけれどそれこそが嘘。

 ごまかして、人のために嘘をついて、愛想笑いして、お世辞を言うことを本当は求められている。それが美徳とされている。

「大丈夫か?お前がしんどいなんてな」

 心配そうに俺を見る顧問を見て声を出して笑ってしまいそうになった。

 

 蒼空がうらやましい。俺もかわいそうになりたい。

 日和がうらやましい。愛し愛される日和がうらやましい。 

 

 俺の嫉妬心はどんどんと大きくなっていき、今にも爆発しそうなほど肥大になっていた。


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