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【清水伊織】共感

 最終話を読み終わる。

 そして放心状態のまま、私はまた一話から【紫の海になって、】を読み返し始めた。

 持ってきてくれた朝食の食パンを食べることもせず、ずっと携帯を見ていた。

 

 時間を忘れて、【紫の海になって、】を読み返していると、聞き慣れた足音が遠くからやってきた。朱音の足音だ。

 そうわかっているのに、私はこちらに入ってくる朱音に反応することができなかった。

 入ってきた朱音が近づいてくる。

「あかねー。やっほー」

 私を闇から救ってくれた朱音に挨拶をしながら、全く別のことを考える。

 

 次はあの人にどんなメールを送ろうか。

 質問にした方が会話は続くからその方が良いかもしれない。

 

 朱音がいるにも関わらず、メールアプリを開く。携帯を握り、文字を打ち込んでは消してを繰り返す。

 これも違う。

 あれも違う。

 もっと喋りたい。

 あぁ、でももう一回【紫の海になって、】の最終話をよく読んでから感想を返信することにしよう。今はまだ、頭が整理しきれていない。

 私は携帯をスリープ状態にし、朱音を見た。私服姿だ。可愛い。そして、なにやらプレゼントを持って、そわそわしていた。

「先輩勉強してる?」

「してないよー」

 へらっと笑う。最近は、学校に戻ったときに恥をかかないよう死ぬほど勉強をしているけど、かっこつけたいから嘘をついた。嘘がバレるのはもっとかっこ悪いから、教材の入ったカバンを左手でそっとベッドの下に滑らせた。そして私は話をそらすため携帯を朱音に見せた。

「このね、ハマってた作品が今日終わっちゃったの! すごいよかったんだよ!」

 小説アプリを開き、【紫の海になって、】の作品ページを朱音に見せる。

「あれでしょ。ちょっとよくわからない世界観の話」

「わからないって何!? 朱音、夏休みの時に私が好きだって言ったから読んでくれたの?」

「そういうわけじゃない」

 朱音は少し拗ねているようだ。吊り上がった目。髪を耳にかける左手。寒さによって少し赤くなった耳。

 あんまりじろじろ見ないように、携帯を見ているふりをしながら、朱音を見た。リップクリームを塗っているのか、冬なのに朱音の唇はぷるぷるしている。

 キスしたいな。

 変な衝動に駆られる。

 心臓がぐにゃりと潰れるような痛みが走る。

 ダメだ。

 気持ち悪いことはしちゃダメだ。

 頭の中で自分と戦う。

「ねえ先輩。退院したら、お泊まりしようよ」

「へ?」

 心臓の音が止まらなくなった。秒針の音なんかよりはるかに早い音が私の胸を刻んでいる。

 

 お泊り?

 二人で?

 夜も一緒にご飯食べて、長い時間一緒に過ごして、一緒にお風呂?

 一緒に寝る!?

 

 脳内で、朱音の姿と一緒にいる自分の姿を想像する。おはようからおやすみまでのお泊まり。あれやこれやできるお泊まり。

「しよう!」

 頭の中で下心いっぱいの妄想を繰り広げた。

 お風呂上がりの朱音。

 朱音の寝顔。

 ああ、最高だ。

「先輩お泊まり苦手? 嫌だったらはっきり言って」

 朱音は私の顔を覗き込んできた。

 嫌なわけがない。私は首が折れるほど頷いた。

「嫌じゃない! 私が退院したらすぐしよう! 私の家、基本一人だし布団もあるし! あぁ、でも掃除しなくちゃ! ご飯はつばさの家に行けばいいし、それに――」

「ちょっと先輩、落ち着いて」

 声を荒げて話している私の肩を朱音はゆっくり撫でた。そして、朱音はさっき自分の綺麗な髪に触れた左手で、私の左手を掴んでまた微笑んだ。

「楽しみだね」

 そうだね。ということすら出来ないくらい、ぼーっとした。まるでサウナに入って五分経過した時のような感覚。

 ずるい。

 私は簡単に触れられなくなったのに、朱音は簡単に私に触れてくる。その距離が愛おしくてもどかしい。

 欲望と理性が何度も頭の中を交差する。

 キスしたいな。

 いや、だから、ダメだ。

 キスとかしたらダメだ。手を繋ぐ、それ以上は絶対にダメ。朱音の嫌がることは絶対にしちゃダメ。

 付き合って初めて行ったファミレスで、「キスしないよ」って約束しただろ私。

 でもしたい。したい。手を繋ぐこと以上のこと、したい。

 必死になって右手で携帯を動かす。とりあえず、朱音以外の情報を取り込もうと、携帯に目をやる。もう手は完治したはずなのに、指か震えてうまく動かせない。

 心臓の音で壊れてしまいそうになった。

「ねえ、先輩」

「ん?」

「キスしたい」

 

 私の中で、時が止まった。

『イケメンは滅びろ。』

『ありがとうございます。』

 携帯に映る、【紫の海になって、】の新規コメントを目に焼き付ける。

 

 え?

 

 え? 今キスしたいって言った?

 朱音が?

 


「……へ? 今?」

 空っぽの頭にじゃぶじゃぶとコーラを注がれたような衝撃を受ける。携帯から顔を上げる。胸の音が頭に響いてクラクラした。

「今したらだめ?」

 朱音はさっきより少しだけ私の手を強く握り、じっと私を見つめた。その猫のような目に飲み込まれて目を瞑った。

 朱音が近づいてくる気配がした。

 そして一瞬にして、ふわりと朱音の唇と私の唇が触れ合う。

 朱音と私が唇によって繋がった。

 口から口へと、とめどなく思いが流れ込んでくる。

 ああ、ダメだ。嬉しい。

 自然と涙が出た。最近の私は涙もろい。

 朱音の口から、少し空気が流れ込んでくる。

 

 その時、

 私の『死にたい』の裏側、

 『愛されたかった』が消えた。


 私の『死にたい』を朱音の吐息が、ろうそくを吹き消すかのように消し去った。

 軽く触れた唇が、名残惜しく離れていく。

 私はその瞬間に、自分の顔を掌で覆って隠した。

「ずるい。朱音ずるい」

「ね、先輩」

 朱音の声が耳元でする。

「好きだよ」

 嬉しい。嬉しい。嬉しい。私は小さく頷いて、そして隠していた顔をあらわにさせた。

「うん。私も好きだよ」

 目の前の朱音が、今までにないような幸せを表した顔で笑う。

 それを見て、自分の口から放たれた言葉が、ちゃんと綺麗なものであるということを、私は初めて自覚できた。

 朱音を好きな私の気持ちと、朱音が私を思ってくれる気持ちが同じになった。互いを思う気持ち。そして、互いの幼なじみを思う気持ち。

 その、好きの『共感』だけで私たちは少しだけ強くなれた。

 

 もう一度口づけをする。今度は私から、朱音へ思いを流し込んだ。

 

 外が少し騒がしいけれど、そんなことどうでもいい。誰かに認められなくても、誰かにけなされても、私は朱音が好きで、朱音は私が好きなのだ。

 涙が止まらない。嬉しくて涙が止まらない。私は熱の集まった顔を机に突っ伏した。喜びを噛みしめる。

 朱音が好きになってくれた自分を、もう捨てようなんて思わない。

 ずっと泣いている私を見て朱音が笑う。私も鼻水を垂らしながら、だらしない顔で笑った。

 目を真っ赤にして、鼻水垂らして、多分すっごいダサい状態だけれど、朱音はずっと笑っていた。

 

 二人で笑い合っていると、廊下で誰かが叫んだ。

「嫌だだぁぁああああああああ!」

 まるで注射を嫌がる子供の叫びのようで、私たちは二人同時に肩を揺らした。

 その様子が面白くて、顔を見合わせて笑う。

「すごいね」

 朱音が外の様子を気にしながら、苦笑いする。

「どうしたんだろう。見に行ってみる?」

 私が興味本位で言うと、朱音はそうだねと頷いた。そして二人で立ち上がる。 

 私は松葉杖をつきながら、朱音の背を追って外へ出た。

 部屋から二人して顔をのぞかせる。

 本当に、ただの興味本位だった。

 

 叫んでいる人を見つけて、その人が見ているものも、目にした。


 その瞬間、さっきまで流していた涙が一気に引っ込んでいった。

 衝撃で何の言葉が出なかった。


 でも、朱音の方が私よりも衝撃を受けていた。

 

 朱音は銅像のように、固まったまま動かなくなった。


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