【波北朱音】おかしな人
翌週もまた、先輩は私より先に図書室にいた。正確に言えば、先輩はもう本の世界へ行っているみたいだ。私は今日もそれを一目確認してから、カウンターに座る。今日はテスト前なので、英単語をひたすら覚えよう。
自作で作った単語帳をパラパラめくって、空っぽにした頭の中にドバドバと単語を詰めていく。
中間テスト前だから、グラウンドは静かだ。誰も部活をしていない。野球部のバットとボールがぶつかる音も、陸上部の準備体操のかけ声も聞こえない。いつもなら何人か来る生徒も今日は来る気配はない。きっとみんな、そそくさと帰って勉強しているのだろう。
ふたりぼっちの空間で、私たちはひとりぼっちになっている。ただ、このひとりぼっちには不安は存在せず、ひとりぼっちがもう一人いるという安心感があった。
私は、一人で過ごすことが好きだ。他人に干渉されず、自由でいられる時間が好きだ。でも、一人で過ごすことは、自由すぎて時折寂しくなる。その寂しさは自分で感じるものでもあれば、他の人から感じさせられるものでもあった。
一人で過ごすことの多い私はよくお母さんに『何か嫌なことはない?』と心配されている。『嫌われているのでは?』『いじめられているのでは?』と遠回しに聞かれる。選びたくないものを選ぶしかないのかもしれないと、私が自分で選んでいる一人をお母さんはいつも心配している。全く余計なお世話だ。
「勉強してるー」
気が付かないうちに隣に座っていた先輩が、私の邪魔をしてくる。
「勉強やらないんですか」
私は先輩に構わず、ノンストップで単語帳をめくり続けた。
「勉強嫌いだからやらないー」
「そうですか」
一瞬チラリと先輩を見ると、退屈そうにあくびをしていた。
先輩の回答に意外だなんて思わない。今までの行動と照らし合わせて当然の答えだ。勉強している先輩の様子なんてうまく想像出来ない。きっと家でも、絵を描いたり、本を読んだり自由きままに過ごしているのだろう。
「ね、好きな子とかいないの? よく一緒にいる男の子と付き合ってたりする?」
話題がぐるぐると変わっていき、頭が追い付かなくなる。英単語の知識が、先輩によって止められる。脳内に何も入ってこなくなった。
先輩は椅子を私の方へ寄せた。私の膝と先輩のすねがこつんと当たる。
空っぽだった頭の中はいつのまにか先輩の猫のような声でいっぱいになる。
よく一緒にいる男の子と言われ、思いつくのは雄大ぐらいだ。特に約束したわけでもないけれど、雄大とはクラスが同じなこともあり、流れで委員会のある月曜日以外は一緒に帰っている。
私は先輩を委員会以外で目撃したことが無いのに、この人はどこから私を見ているのだろう。
好きな子。確実にライクじゃなくてラブの対象を聞かれている。でも私はそういった経験をしたことがないからわからない。一番近い人は誰だろう。奏も雄大も好きだけど、先輩が聞いている好きな人には当てはまらない。
人が真剣に考えているのに、先輩は図書委員のノートにこの前描いていたブサイクな猫を描き始めた。目の前の先輩は私の回答より猫に夢中だ。
自由すぎる。しかも持っているペン、また私の使ってる。
ペンを持つ指を見る。
本当にこの人、肌が白い。それに指も長くて綺麗。
先輩の手に注目しすぎて、聞かれている質問の答えが遅れた。
「好きな人いないし、そういう経験もないです」
「そうなんだぁ」
先輩は質問しておいて、回答に興味がなさそうだ。
こういう話題をするときのクラスメイトは盛り上がっている。声を高らかにして教室中に響かせている。だけれど、目の前の先輩は、何かに納得したように静かになった。表情は下を向いていてうまく読み取れない。
友達も少なければ恋人もいないんだ、なんて馬鹿にしてくるかと思ったが、予想外の反応だ。
先輩が口を動かさなくなったので、私も黙って手元に目をやり、わざとらしく手を動かし始めた。
先輩は気分屋な猫のようにそろそろと黙って本棚の方へ戻り、廊下からは見えない、いつもの定位置である本棚の側面に行き、もたれるように座り込んだ。
今日はつばさの演奏はテスト前ということでお休み。私たちは同じ空間にいつもより少しだけ長くいた。けれど、今日は心地いい時間の共有ではない。いつもは心地良い時間が、なぜか慌てふためくように進んでいる気がした。先輩の感情がわからない。秒針の音も私の耳には入ってこなくて、ただ先輩のことを考えていた。私は怒らすようなことを言ってしまったのだろうか。
私は理解できないものが嫌いだ。わからないという感情は、不快だ。わからない、知識不足ということは、自分に欠陥があるのではないかと思わされる。
でも先輩に対してのわからないは、違った。また、新しい違和感だ。
先輩に対しては、わからないことが不快というよりも、理解してみたいという好奇心がある。あの人の本気で怒る顔とか、本気で泣く顔を見てみたい。
他人に対してそう思ったことは、今までにあっただろうか。
自分のことが自分では上手く理解出来ないような変な感じがする。
私は手元を見ながら先輩の様子をちらちら見た。先輩は本を読むでもなく、ただ黙って爪をいじくっている。
英単語はそれからうまく頭に入れられなかった。入れられなかっただけでなく、穴の開いた空気の抜ける浮き輪みたいに、しゅうしゅうと少しずつ頭から抜け落ちている気さえした。
十七時のチャイムが鳴る。私は単語帳をカバンにしまった。
そして座り込んでいた急に先輩は立ち上がり、まるでさっきの話はなかったかのように、私の方へ向かって歩いてきた。
「かえろっかー」
いつも通りだ。いつも通り、小学生のような声と表情で私に笑いかけてくる。
そして、考えていることが全くもって読めない。
わからない。
――知りたい。
私たちは鍵を閉め、二人で職員室に向かった。先輩は職員室に行くまでの間、以前と変わらず、今日の学食の日替わりランチがおいしかったと嬉しそうに話し出した。今にもスキップしだしそうなテンションで歩いている。
なぁんだ。怒らせたのかと思っていたさっきまでの自分がバカバカしい。
私のことなんてお構いなしにどんどん変わっていくこの人に、私はうまくついていけなかった。
私はわからないことが嫌いなはずだった。知らないことは恥ずかしいことだと思っていた。でも、今は不思議すぎるこの人を理解してみたい。その興味心だけが私の心をくすぶっていた。
部活がない学校は静かで、私たちの足音だけが響いた。お互いの制服が時々触れ合う。そのたびに、心のどこかに穴を開けられているような変な気分になる。
やっぱりまだ、私はこの距離間に慣れていなかった。
来週はテストだから、次このおかしな人に会えるのは再来週か。
ショックを受けている自分もどこかおかしな人間だった。




