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【清水伊織】肯定

 ああ、わかる。わかるけど、わかりたくない。

 暗くなった部屋で一人、天井のシミを眺める。

 親が嫌だと思うことがわかってしまうけど、本当はわかりたくない。そんな自分がいることを知りたくない。

 そんなリアルな葛藤が、小説を読むことで湧き上がってくる。

 この小説に共感する度に、自分が隠している黒い部分があらわになっていく。共感したくない、のめり込みたくない。そう思うのに、何度も読んでしまうということは、きっともうこの本に飲み込まれてしまっているということだろう。

 携帯を棚に置き、身体をだらりとベッドに預ける。

 この小説の続きは、どのような展開を迎えるのだろうか。

 この主人公はいったいどのようなラストを迎えるのだろうか。

 そんなことを考えていたら、眠たくなって眠りについた。


 そして翌週になり、十一月も中盤に差し掛かって来たころの夕方。

 いきなり背筋に寒気がした。予感というものか。誰かがここにやってくるのだという気配がして、携帯を触っていた手を止め、思わず姿勢を正した。

 カツ、カツ、カツ。

 その力強くて高い音が、看護師さん、朱音、つばさのものとは違う、他の誰かの音ということは、すぐにわかった。

 足音が近づいてくる。


 勢いよくヒールの音を鳴らし入って来たのは、私のお母さんだった。

 顔を合わせたのは多分、私の中学の卒業以来だと思う。

 私は決してベッドにもたれることはなく、姿勢を正していた。

「あんたさ、迷惑かけないでくれる? 私、学校からも病院からも電話かかってきて大変だったのよ? 私、あんたみたいに暇じゃないのよ」

 久しぶりに顔を合わせたお母さんは、顔に疲れと苛立ちが見えた。多分それらの半分くらいは、私のせいだ。

 冷たい氷のようなお母さんの声が、私の心に突き刺さる。

 それは私の心だけで無く、身体までも固くしていく。布団の中で足がどんどん固まっていく感覚がした。

 ヘラヘラと音の付くような笑いを、そっと浮かべたときだった。

「死のうとしたくせに今もヘラヘラ笑って本当気持ち悪い」

 お母さんは、何か電光を飛ばすかのような鋭い視線で私を睨んだ。と同時に、私は自分の顔から表情を消した。

 野球選手が股抜けをする瞬間のように、心臓がきゅうと痛む。笑おうなんて思えない。

 笑う、というのは嬉しいときの感情表現なんかじゃない。私にとっては、ただの自己防衛だ。辛いことから自分の心を守るために、私はいつも笑っている。

 でも、お母さんの鋭い言葉のナイフから身を守るための笑顔も、簡単に剥がされた。

 廊下で足音がして、でもそれはすぐに止まった。

「女の子が好きだとか言ってたけど、あんたみたいな気持ち悪い人間、誰も好きにならないでしょうね。笑える」

 笑える。

 お母さんはそう口にしたのに、口角が上がる様子はなかった。

「もう大人なんだから、迷惑かけないでね」

 母親の言葉というものは、赤の他人のものよりも鋭さは増す。その攻撃力は異常だ。

 大人。私はいつの間に大人になったのだろう。

 うつろな目でお母さんを見る。

 お母さんは言いたいことを私に言ってから、ドアを乱雑に開けて消えていった。

 何を考えれば良いのかわからなくなり、放心していた。


 

 すぐに、入れ替わりのように朱音が入ってきた。

「朱音だぁー」

 目を細めて笑った。朱音は何も言わず私の方へと近づいてくる。

「……え?」

 いきなり、朱音に抱きしめられた。腑抜けた声が漏れると同時に、凍った心がじんわり溶けていく感覚がした。朱音とじゃれ合いながら抱き合うことはこれまでにもあったけれど、こんなに愛情を持って抱擁をしたのは初めてだった。

「気持ち悪い?」

 朱音が私の耳元でそう尋ねてきた。聞いたことがある質問だった。


 私がいつも朱音にしていた質問だった。入院する前のことを思い出す。


『気持ち悪い?』

 私は付き合ってから朱音の手を取るときいつもそう聞いていた。

 ずっと人を愛することが怖かった。真っ向から人を好きになってしまうことを、怖がっていつも余裕ぶっていた。朱音のことが大好きなのに、私はいつもそれを朱音にぶちまけて気持ち悪い人間と思われること怖がっていた。

『別に先輩手汗かいてないよ』

 でも朱音はいつも私の予想の先を行っていた。気持ち悪さに気付いていないのか、受け入れてくれているのかわからなかった。いつも、都合良く解釈してしまいそうで怖かった。

 

 何度も朱音に『気持ち悪い?』と聞いていたことを思い出す。


「ううん、気持ち悪くない」

 声が震える。泣きそうになった。

「私も同じだよ」

 朱音はさらに私を強く抱きしめた。私は左手を朱音の背に回した。

 しばらく抱き合っていた。静かな部屋に、どくんどくんと心臓の音がふたつ、鳴っていた。

 朱音に抱きしめられて、私は初めて自分の愛情を肯定できた。決して気持ち悪い感情なんかじゃない。私だって、ちゃんと綺麗な愛情が持てて、それを受け取ってくれる人がいる。

 私の愛情を受け取って、そしてこんなに鼓動を鳴らしてくれる人がいる。

 朱音の心臓の音が、とくんとくんと私の耳にまで届いた。

 涙が溢れそうになる目を、必死にこらえる。そして、朱音の耳元で小さくささやいた。

「朱音さ、私がお母さんと話してたとき、廊下の近くにいたでしょ?」

「なんでわかったの?」

「朱音のにおいがした」

「……引く。先輩変態みたい」

 朱音は、私から離れて、冷たい目でこちらを見る。

「ヒエー! 冷たい朱音ちゃん!」

 私は両手で肩を震わせるそぶりをした。  

 四二八号室には、けらけらと二人の笑い声が響いていた。

 

 それから、私はこれまで話してこなかった自分の話を始めた。

 両親の仲が昔はよかったこと。

 お母さんは男の子がほしかったから、すでに妊娠が決まったころから名前を決めていて、それが『いおり』という名前だったこと。

 お父さんは読書が好きでよく面白い本を勧めてくれたこと。

 家族で水族館に行ったのが楽しかったこと。

 その時に見た海が綺麗だったこと。

 両親の仲が悪くなって水族館には行かなくなったこと。

 それからたくさんの本を読んで生活するようになったこと。

 女の子を好きになったときにお母さんに気持ち悪がられたこと。

 両親が離婚したこと。

 お母さんの作るオムライスが今はもう食べられないこと。

 

 うまく話せないだろうと思っていた事柄も、まるで人生という物語の内容を語っているかのようにすらすらと話せた。

 私が一通り話している間、朱音は何も言わずに黙って聞いてくれていた。

 そして、ようやく話が終わった時、朱音はこちらを力強い顔で見ていた。

「私がオムライス作るし、水族館も一緒に行く」

 朱音は鼻をふんと膨らます。

「……えへへ、それはうれしいねえ」

 笑みがこぼれる、という言葉通り、私の顔は笑顔で満ちていた。

 それは自己防衛なんかじゃない。自分では到底作れない顔をしていたと思う。

 それからも、朱音はたくさんの約束を私に持ちかけた。

 クリスマスプレゼント持ってくるね。

 「あけましておめでとう」って言いに来るね。

 春休みにはお花見しよう。

 オムライス作ってきてあげる。

 ゴールデンウィークには水族館に行くんだよ。

 先輩の好きな作家さんの作品来年の九月に映画化するんだって。

 

 朱音の想像する未来に、必ず私の要素があった。

 嬉しくて、嬉しすぎて苦しくなった。甘いおいしいケーキを一気にお腹に詰め込んだみたいな感じする。


 クリスマスプレゼントなんて、私は買いに行くこともできない。この病院で閉じこもっているだけだ。

 朱音が作るオムライスなんて、嬉しくて吐いてしまうかもしれない。

 朱音と水族館に行ったら好きなものだらけで、また死んでもいいって思えそう。

 

 楽しそうに話す朱音を目の前にして、妄想が膨らむ。

 幸せを感じる度に、また次の幸せを望んでしまう。朱音といると幸せの最大値が霞んでいってしまう。その先を、その先を、と望んでいって、最大値はずっと手に届かない。

 ずっとうつむいていた目を上げると、朱音とぱっちり目が合った。

 心臓がいきなり変な動きをした。

 

 ああ、私、朱音のこと好きだ。

 

 何度も何度も思う。きっとこれからも、新しい朱音を見る度に、朱音を好きになる。朱音の可愛いところ。芯の強いところ。そしてまだ見たことの無い朱音の弱いところ。それを見る度に、私はきっと今よりもっと朱音を好きになっていく。

 私は朱音の手を自らぎゅっと握り絞めた。『自分の気持ち悪い愛情が伝わらないように』ではなく、私の最大限の愛を注ぎ込んだ。

 朱音もぎゅっと手を握り返してくれた。

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