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【紫の海になって、】[三話][中学生時代]

 『しまった』と思ったときにはもう遅かった。

 兄貴の背後から、鬼のような形相の父親が階段を登って現れた。

「別れたってなんだ? まだ二か月も経ってないんじゃないか」

 辺りに凍り付いた空気が流れる。目の前の兄貴もしまったという顔をしてうつむいた。

 俺は冷静を装いながら、なんとか模範解答を考えた。

「相手とうまく合わなくて」

 言葉だけでなく、表情までも感情とは違う模範解答を作った。付き合っていた彼女と別れて悲しいというお面を被った。

 それでも父親は不機嫌そうに鼻息を荒くしていた。

「お前は本当に兄ちゃんと違って、人も大事にできない。わがままで反抗的。そりゃそうなるわ、こんなクソみたいな男。お前は俺の息子とは思えない」

 父親は酒で酔っているのかいまいち呂律が回っていなかった。

 また比べられた。

 飽きるほど聞いた。

 兄ちゃんと違って。兄ちゃんと違って。兄ちゃんと違って。

 

 いつも父親は、大学三年の兄貴と中学三年の俺を比べた。比べては罵倒して、比べては罵倒しての繰り返し。俺はいつもその差を埋めるのに必死になった。でも、俺はいつも兄貴よりも下だった。

 当たり前だ。年上というのは、年上というだけで威張れるほど偉いのだ。部活の先輩だってそう。年上というだけで、自分が何かすごい才能を持っているかのように威張る。

 イライラで貧乏ゆすりが止まらなかった。俺は削れるほどに、歯を食いしばった。

「俺には恋愛はうまくできなかった」

 自分の口から出た言葉が数秒後に頭に入ってくる。

 久々にした『本音』は心地が良くて、自分のことを『俺』と言ったのに気付いたのも、数秒後だった。

 その間に、だんだん父親の顔が歪んでいくのがわかった。目の前の兄貴は背筋をぴくりと動かした。父親の雰囲気を察して、冷や汗を掻いている。

 ビビっているのだ。ダサい。本当に兄貴はダサい。

 一瞬、時が止まったかのように静かになった。

 父親の鼻息。兄貴の引きつるような呼吸。俺の歯がミシミシとなる音。些細な音でも耳に入った。

「どうせお前のわがままで傷つけたんだろう」

 眉間にしわを寄せた父親は、兄貴を押しのけて俺に指を指しながら、顔を近づけた。半笑いで煽るような口調が、俺をさらに苛立たせた。

 なぜか、父親はいつも自分の憶測が絶対に正しいことを信じている。頭がおかしいのではないだろうか。

「何もしてない」

 俺は感情を抑え、無表情で父親を見た。俺はわがままなんて言った覚えはない。真冬に放り出されて死にかけた時から、俺は誰にもわがままなんて口に出来ていない。

「恋愛が出来ないなんて自分が悪いのに口だけで言いやがって」

「俺のどこが悪いんだよ?」

 疑問が口から湧き出た。その時手元に米があれば、俺はその疑問を米と一緒に呑み込めていたかもしれない。

 俺は昔から恋愛が出来なかった。どんなに可愛い女の芸能人を見ても、学校で一番綺麗だと言われている女を見ても、部活のやつらと一緒に裸の女の人の動画を見ても、俺の心は一ミリも揺さぶられなかった。むしろ不快感で吐き気さえした。

 一度男が好きなのかと思ったことがある。けれどそう考える方が、不快感がした。蒼空と口づけをする想像なんてした日には、気持ち悪くて夕食が喉を通らなかった。

 でも、俺に愛情がないわけではない。蒼空と日和は好きだ。

 ただ、俺の中の一番大きい愛情は、従来恋愛している人にとっては、ごま粒のように小さい。蒼空が日和に対して持っている愛情の半分も、きっと俺は持てていない。

 それでも悪くはない。俺は恋愛が出来ないだけで、悪くはない。恋愛は必ず人生で必要なものではない。恋愛しなくても、生きていける。

 そうわかっているから、俺は自信満々に父親に尋ねた。テストの採点ミスを見つけたときのように尋ねた。

 間違えてるよ。自信満々に言っているけど、お前、間違えてるよ。

 そう訴えかけるように、蔑んだ目で父親を見る。

「その目は何だ! お前はふざけているのか! ああ、やっぱりお前はそうだ。お前なんか産むんじゃなかった! 言うことも守れない。いつも父さんに恥ばかりかかせる! 失敗作が」

 父親に一気にたくさんの言葉を投げられると同時に、身体に衝撃が走った。まるで映画のワンシーンのように、俺の体は宙に浮いた。まるでスローモーションみたいだった。

 そして、俺は部屋にある机の角に頭をぶつけた。頭に強い衝撃が走り、首が痛んで、思わず机に当たったところを抑えた。反抗しようとするも、立ち上がる暇なく父親は、俺に馬乗りになった。

「親に反抗するな! 誰のおかげでこの家に住めてると思ってる!」

 そう言う鬼のような父親は俺を痛めつけた。分厚い汗の滲んだ手で、何度も平手打ちされる。

 痛いはずなのに、ただ目の前の光景を目に焼き付けていた。父親が顔を真っ赤に染め上げ、目を引きつらせながら、必死に俺の顔に平手打ちを食らわしている。それと同時に一定のスピードで俺の顔に衝撃が走る。反論するため声を上げる余裕は無い。鬼は止まらず平手打ちを続けた。

 

 この状況を蒼空に見せてやりたい。カメラに収めて警察にでも届けてやりたい。

 ずっと俺よりも兄貴のほうが気に入っていた。兄貴は成功で俺は失敗。失敗は許さない父親に俺はいつも殴られていた。


――そうだ。俺は演じないと人から好かれないんだった。


 殴られている中、ふいに頭にその考えがよぎり、俺は笑顔を作った。

 失敗作は、どうにか成功のフリをしておけばいいのだ。そうして、くそみたいな父親を騙しておけば良いのだ。

 目を細め、歯を無理矢理に出した。

「何笑ってんだ! お前、本当に頭がおかしいんじゃないのか?」

 父親は顔を歪め、平手打ちのスピードを速めた。

 頭がおかしいのは、お前の方だろ、と心の中で叫ぶ。

「ちょっと……、父さん」

「お前は黙ってろ」

 弱々しい兄貴が間に入ろうとするも、父親はそれを優しく手で制した。兄貴は言われるがまま口をつぐんだ。

 だっさ。

 ダサすぎて、笑いすら出てこなかった。

「大丈夫だ。こんなんじゃ死なないから」

 父親は兄貴にそう言いながら、俺を殴り続けた。

 何が大丈夫なのかわからなかった。

 死んでしまえと言いながら殺さないお前は弱い。お前の方が自分で言ったこと一つ守れないクソだ。

 そんなこと考えながら、ずっと顔を叩かれた。抵抗すれば父親も喜んだだろうが、サンドバックのように、死んだ魚のような表情をしたまま、叩かれ続けた。

 悪いことはしていないのだから、俺はダメージを受ける必要はない。俺は悪くない。俺は悪くない。悪いのは子供殴る父親の方だ。

 俺は、頭の中でひたすら唱え続けた。

 ふと視線を動かすと、もう兄貴が俺の視界から消えていた。自分の部屋に戻ったようだ。

 兄貴は俺とは違う。兄貴は、『都合の良いやつ』なんかじゃない。

 兄貴は優しい。けれど、俺は都合良く兄貴に救われることなんてなかった。


――あれ、優しいってなんだっけ。


 だんだんと頭が朦朧としてきた。舌を噛んだのか、口の中で血の味が広がっていた。

 鬼は疲れてきたのか、平手打ちのスピードを緩めていった。そして、息を切らしながら、立ち上がり、俺を蹴り飛ばした。

 脇腹にぐっと大きな岩を落とされたような衝撃が走る。すぐに咳き込んだ。

 そして、鬼は俺の部屋を出て行き消えていった。その後すぐに、うるさいドアの音が、聞こえた。自分の部屋に閉じこもったみたいだった。

 あいつの負けだ。

 一方的に殴り続けても、俺を殺せなかったあいつの負けだ。

 脳内で、笑いがこみ上げ、次第に声を出して笑っていた。

 それから、目をつむって、しばらく床に寝転んでいた。

 何分間、殴られ続けただろう。

 大きなため息を吐いてから、立ち上がった。何分も重い大きな鬼に乗られていたから、足がジーンとしびれていて思わずよろけた。

 手すりにつかまりながら階段を下りて洗面所に向かい、鏡で自分の顔を確認した。

 目に見える傷は、頭をぶつけたときに出来たたんこぶくらい。あとは、叩かれた顔が赤くなっているだけだった。

 こんなの一時的なものだろう。

 顔しか叩かれていないのに、なぜか胸が苦しく痛んで何度も咳き込んだ。まるで喉に石が詰まったかのように、呼吸をするのも一苦労だった。

 顔を洗うため、蛇口から冷水を出し、手で掬った。そして、ゆらゆらと掌に浮かぶ水を見つめた。

 

 あんなやつが社会で活躍して金稼いで、良い父親だなんて言われるのか。虐待のニュースを見て、「かわいそう」なんてぼやいていたくせに自分は同じようなことするのか。

 でも、この世には愛を持って殴る親もいて、それを受け入れる子供もいる。虐待って何だ。誰が決めるんだ?

 もし、決めるのが子供だとしたら、自分が不幸だと自分の口で決めることになるのか?

 頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。俺は何度も何度も冷水で顔を洗った。

 そして、濡れた顔を乱雑にタオルでゴシゴシと拭いてから、洗面所を後にする。

 リビングを通ると、母親が気まずそうにこちらをチラリと見て、すぐに目をそらした。


――ああ、俺、こいつらが嫌いだ。


 このときはっきり両親が嫌いだと確信した。ずっと感じようとしなかった感情を、心の中心ではっきり感じた。

 でも俺は、声を大にして親が嫌いと言うことが出来なかった。

 ご飯もあって、バスケもさせてもらえて、帰る家もある。

 それに、性格のまっすぐな優しい兄貴がいる。

 親を嫌いだと思うのは、俺の心が狭いせいか?

 俺が失敗作だからか?

 もっと綺麗な心の持ち主なら、こんな親でも好きになれたのか?

 

 そんな思いを抱えたまま、中学を卒業しようとしていた。

 そして、中学卒業間近にして、蒼空の父親が事故で死んだ。

 親がいなくなって悲しんでいる蒼空を見て、親がいなくなってほしいなんて言えるはずがなかった。そんなことを言って、蒼空に嫌われたくなかった。

 いったい、家族を嫌う俺を誰が好きになるというのだ。

 親を嫌うという行為は、俺自身もみじめにさせた。

 次第に、自分が父親の支配に打ち勝つよりも、いっそ殺されるほど殴られたいと思うようになった。傷をたくさんつけられたら、誰かに見つけてもらえるのではないか。そう思った。


――かわいそうになりたい。


 罪を犯してまで、俺を救ってくれる何かを俺はひたすらに待っていることしかできなかった。そして、そんな幼稚な頭のまま、俺は高校生になった。

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