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【清水伊織】衝動

 月曜日なのに、図書室へ行かず、家に帰る。

 歩きながら、ふと思った。


――『それだけ』ではないことを証明したい。

 

 何もない一日だった。

 先生に言われた一言なんて、普段私が教室で言われている言葉に比べたら、随分可愛いものだったと思う。

 でも、私の背中を一押しするには十分な一言だった。

 仮に、私は崖の上に立っていて、あと一歩で海に落ちて絶命するとする。そこに立つまでに、色んな人に押されて、自分の足で海に向かって歩いていた。

 そこに先生の一言が、とどめとなって、私は高い崖から海に落ちた。 

 もう終わりにしようか。どうせこれから生きていったって、良いこと何て無いと思う。

 そう思うと、なんだか気持ちが落ちついて、私はスキップをし始めた。


 そして気持ちが変わらないうちにと、マンションへ向かう。お母さんに『気持ち悪い』と言われた時に出来なかったことを、今なら出来る。今からそれをやる。

 耳にイヤホンを挿して、音楽をかける。そして、エレベーターではなく、階段を使って最上階の十階に向かった。

 階段を一歩一歩踏みしめながら、頭の中で遺書を書くかのように、最後に考える。

 私は贅沢をしすぎた。

 好きじゃなくても良いから付き合ってほしいなんてずるい提案をして、朱音を手に入れた。

 まだ抱きしめてもいない。キスもしていない。朱音に好きって言ってもらえてない。

 死ぬ直前だというのに、今もなおどんどん欲が増していく。

 好きじゃなくてもいいなんて言いながら、私は朱音に好きになってもらえるまでずっと待っているつもりだった。

 五階まで上がり切る。歩いているとはいえ、何段も階段を登ってさすがに息が切れる。それでも私は上に向かった。

 朱音に気持ち悪いと言われなくてよかった。

 朱音に否定される前に、別の誰かが私の恋を否定してくれて良かった。

 朱音は、これから大人になって、綺麗になって結婚して子供も作るんだろう。普通の人生を、歩むのだろう。

 そうであってほしい。

 私は階段を登りながら、カバンからスマホを出した。そして、つばさへメール打つ。

『体調悪くなったから、今日は夕食いらないや。ごめんね。おばさんにも謝っといて』

 送信ボタンを押して、送信完了画面をちゃんと確認する。

 私の家のある八階も通り過ぎていく。

 足が重い。それでも取り憑かれたように、止まらず階段を上っていく。

 エレベーターを使う人が大半だから、ほとんど人は来ない。

 最後の九階についてから、私は走って階段を登った。身体が発泡スチロールみたいに軽く感じた。

 

 行ったことのない最上階。

 十階につく。

 ぼんやり遠くの景色を眺めながら、朱音の将来を勝手に想像して顔が歪む。

 ここからは、海が見える。私の部屋の窓からは海は見えないけれど、外の階段からなら見えるんだ。

 綺麗なのはわかっている。でも、私の目は滲んで、もう視界に映る海には色がなかった。

 

 プルルルル……。

 

 手元の携帯が光る携帯の画面には、波北朱音と表示されている。

 今日図書室行けなくてごめんね。修学旅行のお土産渡せなくてごめんね。好きになっちゃってごめんね。無理矢理付き合わせてごめんね。

 携帯に向かって念じるように頭の中で唱えるだけで、私は朱音からの電話に出なかった。今電話に出たら、泣いてしまうかもしれない。

 電話に出ない代わりに、一言だけ『ごめんね』とメールを残した。

 その一言に全てを詰め込んだ。これですべて伝われば良いのに。

 自分の口から言うことを憚られるようなことでも、どうにかして伝われば良いのにな。

 遠くで海が揺れている。

 汚い自分はこれで終わりにしよう。

 思えば一目惚れだった。

 眠かった入学式。休もうかとも思っていたくらいだ。

 そんな中で、新入生代表の挨拶で、名前を呼ばれたのが朱音だった。

 研ぎ澄まされた声に、私は心を打ち砕かれた。

 一文終わる度に少し揺れる綺麗な髪の毛、堂々とした立ち振る舞いに、私は釘付けになった。心臓の場所を教えられているみたいに、鼓動が鳴ったのを今でも覚えている。

 

 部活をしていない私に接点なんてあるわけがない。

 そう思っていたけれど、周りから押しつけられた委員会で朱音に会った。それも同じ担当の日。

 気がつくと彼女に近づき、名前を呼んでいた。朱音は人の名前を呼ぶのが苦手なのか、私の事を「先輩」としか呼ばないけれど、私を見てくれるだけで十分だった。

 私は、下心で朱音の髪の毛に触って、名前を呼んで、ふざけて抱きついて、手を握った。

 私はなんともずるい女だった。

 

 好きじゃなくていいからなんてつけ込んで、毎日電話をしたり、夏休みは毎週遊んだり、家にまで入った。

 警戒心ゼロの朱音と狭い部屋で二人きりになった時は、襲わないように必死になった。今すぐ抱きしめて口にキスをして、ベッドに押し倒す。そんな想像をかき消すために、携帯で小説を読んでいた。あんな狭い空間で、向き合って一緒に宿題なんて出来るわけがなかった。

 

 つばさにバレた時はどうしようかと思った。けれど朱音は「悪いことしているわけじゃない」と言ってくれた。それだけで十分なはずだったのに欲張りすぎた。

 十階から下を見る。

 死にたい。 

 切実に、心から思う。

 

 人が死にたいと思う瞬間、それは必ずしも絶望があるからとは言い切れない。

 絶望を経験して、そのあと幸せを経験する。

 そしたら、もう『死んでもいいや』と思う。

 もうこれ以上幸せになれることなんてないだろうと思うから死にたくなる。

 そして私は今、ちょうど『死んでもいいや』と思える瞬間なのだ。朱音と一緒にいれて、幸せだった。だから、今、死にたい。

 

 芸能人の自殺報道があると、SNSで何があったのか、勝手にと予想し出す人がいる。

 悲しいことがあったから自殺をした。そんな安易な考えを勝手に押し付ける。それから誰かを叩く。

 あいつのせいで死んだんだ。

 あのことがあったから死んだんだ。

 本当かわからないことを正義かのように赤の他人が振りかざしていく。

 

 でもそうじゃない。悪いことが起きたから、死にたいと思ったんじゃない。周りに嫌がらせを受けたから、私は死にたいと思ったわけではない。

 これ以上幸せになれないと思える今、死にたい。

 朱音と出会えたあとだから死にたい。

 朱音の電話に出て、拒絶される前に死にたい。

 幸せな思いで頭がいっぱいのままで死にたい。

 そして、私の本気を証明したい。

 私の気持ちが、『それだけ』なんてものでは片付けられない気持ちであることを知って欲しい。

 その大きな衝動は、にわか雨のように、何の拍子もなしにいきなりやってくる。

 私は、手すりを鉄棒のように掴み、その上を超えた。

 

 身体がふわりと宙を浮く。

 

 あはは。

 思わず笑った。

 

 こんなときでも笑えてしまうなんて。

 

 大好きな彼女を捨てられないから、十階から自分を投げ捨てた。

 十七歳の女子高生の清水伊織を捨てた。

 でも、朱音を好きと思う気持ちだけが、うまく捨てられなかった。

 

 ドン、と大きな音が鳴る。私は気がつけばアスファルトの上に寝転んでいた。

 頭がひどく痛む。目は開かない。足の感覚は全くない。

 周りから雑音がする気がする。


 プルルルル……。

 

 さっきも聞いた電話の着信音。

 私は、それをアスファルトに寝転びながら聞いていた。

 さらに遠くからサイレンの音も聞えてくる。


――あの綺麗な声。最後にやっぱり触れておけばよかった。

 

 私の意識はそこで途絶えた。


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