【清水伊織】それだけ
私は、アプリを閉じるより先に、携帯を暗くした。
中途半端に口が開いたまま、固まる。自分の心拍数が上がっているのがわかる。
携帯を机の上に置いて、後ろにぐーんと伸びをした。
私がこの小説に引き込まれる理由が明確になった。
恋愛観が、普通と違うからだ。
さっきまで見ていた携帯を再びつけ、ブラウザを開く。
私はそこに、頭の片隅で覚えていた言葉を検索した。
『無性愛者』
自分のセクシャリティーを調べたときに、この言葉を目にしたことがあったから覚えていた。
検索して一番に出てきたサイトを開く。
『他者に恋愛感情や、性的欲求持たない人のことを、無性愛者という』
どうやらこの言葉は、世間にあまり浸透していないらしい。少なくとも私は、身近に無性愛者がいたことはない。
きっと【紫の海になって、】の作者は無性愛者だ。恋愛が苦手、嫌だ、と生理的に受け付けていないように見える。
でも、自分で無性愛者だということに気付いていないような気がする。だから自分が他人と同じように恋愛出来ないことに苦しんでいるようだし、悩んでいるように見える。
家族関係も歪だ。
きっとこういう周りから見ると綺麗で整っているように見えるのに、中身がどろどろである家庭は世の中に無数もある。
客が来るからクローゼットの中にものを詰め込んで、部屋を綺麗に見せているみたいな状態だ。汚い中身は他人では見ることが出来ない。
だから自分からさらけ出すしか無い。実はこんなに汚いのだよ、と自分から発信しない限り、誰にも気付いてもらえない。
【紫の海になって、】は、一見主人公が強がっているようで、触ったら崩れてしまいそうな脆さを感じるから引き込まれる。
決して他人が見ることの出来ない感情を、文にして書いているから見たくなる。ぐちゃぐちゃなクローゼットの中身を覗きたくなる。
書いている本人はどういった気持ちなのだろう。
真っ暗な部屋で、机に肘をつき頬杖をつく。
想像しても、無性愛者でない私にはわからない。無性愛者の人が、どのような時に普通と違うと感じるのか、私にはわからない。
台所の水が、ぽたりとシンクに垂れる音が自室まで響いてきた。
私はヘッドフォンをつけて、最近話題の映画のサウンドトラックを流した。
気がついたら机の上で寝ていた。
翌日の昼休み。担任に小会議室に呼び出された。
ドラマでよく見る、校長と保護者が大切な話をするときに使う部屋に初めて入った。
「先生、こんなところに呼んでどうしたんですかー? 私何かしました?」
光の反射する、皮膚とくっつきそうなソファにもたれる。
成績も悪くないはずだし、素行だって大して悪くない。携帯を持ってくるのは規則違反だけれど、バレていないはずだ。電源はいつも切ってあるし、昼休みの人のいない図書室でしか使っていない。
先生は、ソファに座ることもなく、窓にもたれながら外を見ていた。
「あのな。先生こんなこと言いたくないんだけどな」
先生は顎のひげを触りながら、言葉を詰まらせる。
「先生もな、本当はここまで口出ししたくはないんだがな」
同じ言葉を繰り返す先生。
話の方向が、少し見えてきた。自分で言うのもなんだが私は察しが良い。
ギロリと先生を睨む。
先生は瞬きを増やして、目を伏せた。
「一年の波北と仲が良いのはいいことなんだけどな。波北のお父さんが娘に迷惑かけないでくれって、先週学校に来たらしくてな。波北は学年の首席だし、お父さんもすごくいいところに勤められてるみたいで……」
先生は言い訳をつらつら並べていく。そして、こっちを見た。
出来もしないのにゴキブリに同情するような目で私を見る。私は鋭い目つきで、先生を睨み付けた。
先生はすぐに私から目をそらす。そして、口をもごもごさせながら、言葉を発し始めた。
「とりあえず図書委員はお前今度から金曜日な」
「は?」
口から低い声が洩れる。
「もう決まったことだから。な?」
されるがまま、勝手に決められていく。
先生はこちらに近づいてきて、私を見下ろす。まるで、頷けと、上から頭を押さえつけられているかのような気持ちにさせられる。
私は、言い返すことが出来なかった。
朱音の家へ行ったときの、朱音のお母さんの目を思い出す。
朱音のお母さんはきっと私が気持ち悪いことに気付いていた。私が朱音の、ただの先輩で無いことに、朱音のお母さんは多分すでに気付いていたように思う。
朱音のお母さんの目を、私は知っていた。私のことを探るような目。
今だって先生に、普通とは違う何かを見るような目で私は見られる。
気持ち悪いから、私は気持ち悪いから、何も言い返せない。
「波北は普通の友達と思っていても、お前は違うんだろ?」
先生が半笑いで私に肯定を求めてくる。
私は思わず、失笑した。
先生の最後の言葉に、ひどく安心している自分がいた。
朱音は普通の女の子。
私は普通じゃない女の子。
ああ、良かった。朱音がひどい目を向けられなくてよかった。
ここで声を大にして、付き合っているのだと言える勇気は私にはなかった。そうすれば綺麗な朱音が、誰かに傷つけられるかもしれない。私が普段、受けている目を、朱音を受けてしまうかもしれない。
それは耐えられない。
膝の上で拳を握りしめる。
「頭が良いお前ならわかるだろ? 来年には受験なんだからそっちに集中してくれ」
わからない。
そう言えるほど私は馬鹿じゃなかった。親にすら認められない自分が赤の他人に認められることに期待していない。それにここは社会の常識を教える学校だ。
「それだけだから。頼むな」
先生は、私にわざとらしく笑いかけた。
優しいように見えて、なんにも優しくない笑顔。
先生はそれを残して、私を置いて出て行った。
『それだけ』
その言葉が、先生が出て行った後でも、私の心に重い石のように乗っかっていた。




