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【紫の海になって、】[二話][中学生時代]

 俺は中学に入り、勉強でもバスケでも結果を出した。

 学級委員になり、みんなの雑用を受ける。

 クラスの隅にいる陰キャにも優しく。

 いじめられているブスな女にも、

 いじめている馬鹿な女にも優しく。

 いつも口が臭い先生にも、

 加齢臭がすごい先生にも、

 香水と化粧臭いばばあの担任にも優しく。

 俺はおままごとを続けた。

 

 父親も母親も幸せそうにしていた。

 バスケの試合で得点を決めまくる俺を見て。

 成績表がオール五だった俺を見て。

 周りの人間から好かれていく俺を見て。

 俺は幸せになれるはずだ。こんなにも人気な俺は幸せなはずだ。こんなに頑張っている俺は幸せだ。

 

 そう信じていた。


 中学二年になり、学校に馴染んだ俺は『良い人』という印象をつけられた。

 『優しい』

 『かっこいい』

 と褒められるようになった。

 けれどそのどれも俺を満足させなかった。


「あんたは優しすぎるね。時には休みなさいね」

 担任から雑用をまんまと押し付けられることがあった。

 「ありがとう」なんて口にしながら、担任は優雅にコーヒーを飲む。真っ赤なリップが付いたコップが目につく。

 香水の匂いとコーヒーの豆の匂いが混じって吐き気がした。


「かっこいいね」

 俺の努力を奪おうとするように、女たちが寄ってきた。

 「好きだよ」なんて嘘っぽい笑顔を張り付けて、俺の努力を自分のものにしようとしてくる。

 

 好かれることは快感でもあり地獄でもある。初めて蒼空に名前を呼ばれたときの快感と同じものは、そう簡単には味わえなかった。

 『良い人』なんてものは褒め言葉ではない。

 俺が向けられる『良い人』という言葉は、都合の『良い人』という煽りにしか聞えなくなった。

 

 俺は、女だけでなく、男にも目をつけられた。

 母親に似た俺は、肌も白く女顔。唯一綺麗な顔に産んでもらったことだけは感謝していたけれど、それすら感謝できなくなったのは、中二の秋だった。

 下校中に気持ち悪いじじいから付きまとわれ、俺の知らない蒼空の女友達からはいきなりキスされそうになった。その他にもたくさんある。腕に抱きつかれたり、自分とは違う形の胸を押しつけられたり。

 その全部が気持ち悪かった。

 吐き気がして、帰ってから一人お風呂で泣いた。

 じじいから触られたところを必死になってこすって洗い、女からつかまれた腕も血が出るまでこすった。

 

 汚い。汚い。汚い。

 

 他人からの汚い感情が俺の心をいつもぶち壊した。俺は、真っ赤になるまでお風呂で必死に腕を洗った。痛みなんて頭にはなくて、気が済むまでこすった。

 嫌な出来事すべて洗い流すかのように、体を磨いたら、お風呂に浸かる。

 どれだけ洗っても、どれだけ温かいお風呂に入っても、心は晴れなかった。浴槽の中で、涙と汗をぐちゃぐちゃに混ぜて流していた。

 

 でも、こんなにも不快なのに、俺は父親の支配からは逃れられず、まだ演じることをやめなかった。

 一度始めたおままごとは、終わりが見えなくなっていた。

 完璧な自分が多くの人間に好かれていくにつれて、俺は俺自身じゃなくなっていった。演じて演じて演じて、俺は好かれていくことをもうやめたくなった。

 本当はいいやつなんかじゃないけど頑張っているのだ、と叫びたくなった。

 でも完璧な自分はそんなことを言わない。

 それに、今まで得たもの全部なくなって、みんなに嫌われてしまうことを想像すると、安易にはやめられなかった。

 ピエロのお面のように、俺の顔にはいつも自分の感情以外のものが貼り付けられていた。


「僕彼女ができたんだ」

 中学二年の冬。家族全員での夕食の時間。兄貴が口を開いた。第一志望に落ち、滑り止めのFラン大学に通っている兄貴。高校時代バスケでベンチ入りも出来ず顔も普通の兄貴。そんな兄貴に彼女ができた。

「バイトで同じ子なんだけど」

 言葉を紡ぐ兄貴を父親が遮った。

「どこの大学に通っているんだ」

 父親は食べる手を止めた。

 なぜ大学生だと決めつけているのだろう。そもそもどこの大学かなんて重要だろうか。

 そんな疑問が頭に浮かぶも米と一緒に飲み込んで、俺は傍観を決め込んでいた。

「○○大学の四回生の人で……」

 兄貴がおそるおそる口に出した大学は、俺も知っているくらいの日本でもトップクラスに頭がいいとされる大学だった。

 父親の肩が大きく揺れるのを感じた。

「それはすごいじゃないか!」

 父親は満面の笑みをこぼした。俺が試合に勝った時よりも何倍もの笑顔だった。

 父親の口から米粒が飛び、机の上に付着する。汚い。

 俺は米を運ぶ速度を速めた。

 ものを飲み込むことをやめなかった。

 箸を進めるスピードと同じように、思考が回転していく。俺はその思考を口にいないため、口にものを詰め込み続けた。

 兄貴と同じ大学の人だったら、そうかで済んだのだろう。高卒で働いているやつだったら、きっとやめておけと言ったのだろう。

 俺は米を食べる以外に、口を開かなかった。高卒の母さんも俺と同じようにそそくさと飯を食べていた。

 

 俺は何をすれば父さんに好かれるかを先に知ることができた。彼女にするならば、学歴がある人を選べばいい。父親に認められる相手を選べば怒られない。

 兄貴がいてよかった。兄貴を手本にすれば、俺は絶対に怒られることはない。

 その日の父親はやけに機嫌がよく、ずっと笑っていた。兄貴が父親の機嫌取りに成功した。

「お前も兄ちゃんに負けないように頑張れよ!」

 そして、父親はまた俺に向かって米を飛ばしてきた。


――?

 

 うまくお米が飲み込めなくて喉に詰まった。そのとき頭に浮かんだ疑問を出すより先に、俺は父親に褒められる道を選んだ。

「うん!」

 俺の顔にはやっぱり自分の感情ではないものが張り付いていた。



 それから中学三年になってすぐ、俺も彼女を作った。

 ただ最初に思ったことは、ずっと一緒にいようね、でも幸せにするね、でもない。


――あー。どういう風にドラマチックに別れよう。


 中学三年の四月。初めて出来た彼女に考えたことはそれだった。正しい別れ方を、付き合って過ぎに考えていた。でも結局、思いつかなかった。

 彼女は生徒会の副会長で、頭もよく吹奏楽部の部長をしていた。人前に出ることが多く、随分ハキハキと話すのが特徴的だった。先生からの評判も良く、学校でも有名なやつだった。男からも女からも人気で、顔が可愛いと周りからよく言われていた。

 その彼女とは中学三年の時に初めて同じクラスになり、「ずっと気になっていた」と向こうから告白された。

 彼女に告白された瞬間、俺は恋愛にとんでもない不信感を抱いた。


――付き合うって何?

――恋って何?

――好きって何?

 

 そんな疑問が湧くも、俺は兄貴よりいい人間になるため付き合うことを了承した。今まで告白された女の中で一番スペックが高くて、周りが認めていたから付き合ってもいいと思えた。

 彼女が嫌いなわけではなかった。けれど、一番に好きかと言われたら頷けはしなかった。

 

 月日が経つにつれ彼女の本性は見えてきた。彼女は嫉妬深く、俺が幼馴染みの日和と話すだけで嫌がった。女バレのキャプテンと、バスケ部のキャプテンの俺が体育館のことでよく話しているだけで、女バレのキャプテンの女のことを嫌った。日和の悪口もよく言っていた。

 でも俺の隣にいた男の蒼空にはなぜか媚を売っていた。

 俺はそれを見て思った。


――汚い。


 好きという感情は、世間が思っているよりももっとぼんやりとしていて汚い。相手に求めて期待して押しつけて、勝手な都合で振り回す。相手を不自由にさせる感情だ。

 何で誰しも平然として恋愛が出来るのだろう。なぜ、その汚い感情を押しつけることを当たり前みたいにしているのだろう。

 そんなことを誰に言えるわけでも無く、付き合いは続いた。


 彼女は俺にたくさんのものを求めるようになった。

 手を繋いでデートに行きたい。

 ツーショットを一緒に撮りたい。

 抱きしめてほしい。

 キスをしたい。

 その先だって、もっと。

 俺はその全てを受け入れた。拒むことも喜ぶこともせず、ただ彼女がしたいといったことはすべて叶え、父親の機嫌をとるときのように、先回りして考えた。

 対して、俺は彼女に何も求めなかった。人に期待するなんてことはしない。彼女を支配するようなことはしたくない。

 俺は彼女を大事にしながら今まで通り、全員に優しさを振りまいた。女だろうが男だろうが関係ない。俺はみんなに好かれなくてはいけない。そうしなくちゃ生きていけない。

 そう思いながら、毎日おままごとをやめなかった。


 それから彼女が俺に見せつけるように、他の男と手を繋いで遊びに行くようになった。でも、心底どうでも良かった。

 やりたいならやればいい。彼女に何も期待しないし、自由にしていればいい。

 ただ自分がそういう人の彼氏だという風に広まっていくことだけが嫌だった。彼女以外の人から嫌われたら嫌だから、俺の方から「別れたい」と言った。

 結局最後まで、俺は彼女のことだけを考えられはしなかった。

 『世界のみんなに嫌われても良いから、恋人だけは僕の事を好いていてほしい』

 そんなドラマみたいな台詞は、俺には言えなかった。

 

 別れるときの最終的な彼女の要求だけは、俺には叶えられなかった。

「嫌な気持ちになってほしかった。私にしてほしいことがあれば言ってほしかった。自分から何かを提案してほしかった」

 顔をぐちゃぐちゃにしながら、苦しんでいた。

 それを、傍観するように見ていた。まるでドラマのワンシーンをテレビ越しに見せられているような気分になる。

 感情的に演技する女優を、無意味に見せられているような気持ちになる。同情なんて出来そうに無かった。むしろ反発心が生まれた。

 どうして苦しそうな顔をするのだろう。

 どうして俺が悪いみたいな顔して泣けるのだろう。

 そんな疑問が浮かんだだけだった。

 むしろ、彼女が人の気持ちまでコントロールしようとしていたことに、心底嫌気がさした。

 父親と同じように、彼女も俺を支配しようとしていたのだ。

 

 

 付き合う。

 結婚する。

 恋愛する。

 

 俺の身近にあるそれらはいつも一方的だった。

 父親は母親を支配している。

 そして母親は父親の経済に頼って生きている。

 蒼空が日和を好きだとしても、日和は同じように蒼空を好きではない。

 

 どうしても同等になれないのに、みんな同等を期待するのだろう。どうして友達は恋人以上に出来ないのだろう。

 俺は恋人ができても、蒼空と日和を大切にしたいのに、どうしてそれは許されないのだろう。

 

 俺にとっての恋愛は不快そのものだった。だから彼女と別れて以降、誰かと付き合おうとは思うはずも無かった。

 抱きしめる、キスをするといった行為はやってみてから苦手だとわかった。

 

 結婚が人生のゴールだと言うなら、俺はいつスタート出来るのだ。俺には当たり前についている人の心が無いのだろうか。

 俺の心は、何をしてもいつも冷たかった。他の人より、心の平熱が低かった。


 生徒会の副会長と付き合ったと言った当初、父親は喜んでいた。俺が付き合ったことよりも相手が生徒会の副会長だということに喜んでいた。鏡のようにそれを見た母親も喜んでいた。

 俺がもし、教室の隅にいるような、静かで勉強も運動も出来ない女を選んだらどうなるのだろう。

 想像すると、嫌な顔をする父親の顔が浮かんだ。やめておけ、と正直には言わないが父親の言いなりになって遠回しに気まずそうな顔をして、別の女を勧めてくる母親の顔も浮かんだ。

 その時初めて、無意識的に父親に許されるものを選んでいたことに気がついた。

 何をするにも俺の選択肢はいつも人より狭かった。


 俺が彼女と別れたという噂は簡単に学校中に広まった。

『彼女の浮気らしい』

『男から振ったらしい』

『男かわいそう』

 嘘と本当が混じった噂が、雲のようにまんまと広がった。どうでもよかった。ただ、かわいそうと俺が言われるのは、何か違うような気がした。かわいそうと言われるならば、過呼吸が起こるほどに泣いていた彼女の方では無いかと思った。

 

 俺の噂が広がっていた時のある日、日和は俺と蒼空の部活が終わるのを待っていた。

「一緒に帰りたい」

 日和は蒼空の顔はほとんど見ず、俺の目だけを見て、そう言ってきた。


――日和も俺と一緒なのではないか。


 真剣な顔をした日和と目が合った瞬間、そう思った。

 日和は昔から、恋愛というものに興味を持った様子がなかった。恋バナをしている様子を見たことはないし、日和自身かそういう話を持ちかけてきたこともなかった。

 俺と同じかもしれない。日和ならわかってくれるかもしれない。そんな期待が胸を打つ。

「あんたって意外と良い子じゃないよね」

 二人で歩いて帰った夕方。日和が俺に向かって言ってきた。

「いや、意外でもなんでもねえよ。こいつは意外と悪ガキだぞー」

 それに対し蒼空は笑っていた。

 蒼空と日和は、俺をかわいそうだと言う目で見なかった。

 日和の一言はどういう意味だったのかはわからない。

 意外と女の子にひどいことするんだね、という意味だったのか、そんなことは関係なく、ずっと前から思っていたことなのかはわからない。

 俺は、二人にとって、俺が都合の『良い子』ではなかったことが嬉しくて満面の笑みを二人に返した。

 二人の仮面の中の俺をいつも見てくれていた。

 俺の表面の上澄みだけをただ眺めているのでは無く、奥底まで手を突っ込んで感じてくれていた。

 嬉しくて、スキップしたくなった。


「彼女とはどうです?」

 俺が彼女と別れた二週間ほど後、幸せ絶頂の顔をした兄貴が聞いてきた。

 風呂に上がったあとで一人部屋にこもり、演じるのをやめられる唯一の時間だった。せっかくの安らかな時間を呑気な顔をした兄貴に邪魔され、俺は苛立ちを覚えた。

「別れた」

 学校のやつらには、『浮気されてかわいそうな表情』を作っていたが、そのときはもう面倒になり作らなかった。


――お前も兄ちゃんに負けないように頑張れよ!

 

 脳裏に父親の言葉が浮かび上がった。

 俺は何を兄貴に負けていたのだろう。

 付き合っている人がいないというだけで、恋愛をしたことがないというだけで、俺は何を頑張らなくてはいけなかったのだろう。


――恋愛をしないことは、何か人として劣っているのだろうか?

 

「そっか……。それはショックだったなー」

 目の前の兄貴の残念そうな顔を見て初めて、あの時感じた疑問が明確な言葉として頭に浮かんだ。

 それからすぐに、ドンドンと荒々しい足音が、一階の方から聞こえてきた。

 『しまった』と思ったときにはもう遅かった。

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