【波北朱音】違和感
翌週、図書室に入ると、すでに先輩がいた。先輩はこちらに見向きもせず本棚にもたれながら座って本を読んでいた。
本を読んでいるとこ邪魔するのは悪いな、と思ったので、挨拶はしなかった。
私は、すり足であまり音を立てないように歩き、カウンターに座った。
図書委員のノートを広げ、先週と同じように宿題を取り出す。今日は数学の宿題だ。今日習ったところの演習問題をやってくるという簡単な宿題だ。
遠くにいる誰かのはしゃぐ声が聞えるほど、図書室は静まりかえっていた。まるでテスト中の教室のような静けさだ。
鼻をすすることも、唾を呑むことさえ憚られるような空間で、私は宿題に手をつけた。
生徒が来なくても、私たちは決して話すことはなく黙ってそれぞれ違うことをしている。
先輩は、本を読んでいる間、私が話したことのある先輩ではないように思えた。集中という域を超えて本の世界へ行っている。
そんな先輩と同じ空間で、時計の針をBGMに宿題を進める。先輩の存在が本の世界に行っているから、私は何にも気をとられず集中できた。
頭が空っぽにでき、やけに頭が冴える。けれどもそれは、先輩の声で途切れた。
「ね。下の名前なんて読むの?」
さっきまで遠くで読書をしていたはずの先輩が、私の左隣に座っている。この人は瞬間移動でも出来るのだろうか。
先輩は椅子を私の方に寄せる。上靴越しに爪先が触れ合う。この人は距離間がおかしい。近すぎる。
「あ、あかねです。波北朱音」
急に聞こえた声と近い距離間に動揺して、声が上ずった。
「へぇー、可愛いね」
先輩はナンパ師が言いそうな薄っぺらい「可愛い」を口にした。私はそれを無視して、今日の最終問題を解くため、シャーペンの芯を出した。
「ねー、朱音は部活入らないの?」
「入らないです」
先輩は覚え立ての子供のように、あかね、あかねと繰り返す。私はシャーペンの芯を出した。
「朱音、髪の毛綺麗だね!」
「ありがとうございます」
先輩は私の髪の毛を指に通し、表面を撫でる。私はシャーペンの芯を出した。
「朱音って猫みたいだね!」
「先輩の方が猫っぽいですよ」
「そうかな?」
私はシャーペンの芯を出した。
「朱音の声好きだなー」
……。
ポキリ、と無意味に出し過ぎた芯がワークの上で踊り出す。
『好き』という言葉に動揺して、うまく反応できなかった。
「あ、ごめん、変な意味じゃないよ」
そう言う先輩は、心底どうでも良さそうな涼しい顔をしていた。自分から私の隣に来てこんなに近づいておいて、私には興味がなさそうだった。きっとこの人は誰に対してもこの距離間なのだろう。私の周りにはいないタイプの人だ。
違和感を感じた。
私は、昔からやたらと距離間の近い人や、無意味に触って来る人が苦手だった。そのはずなのに、先輩は特に不快だと思わなかった。
なぜだろうか。
何かこれまでの自分の感覚を否定されるような、今の自分が今までの自分と何か変わってしまったような、なんとも言えない感じがする。
話し方に幼さがあるからからだろうか。園児と戯れている感覚と同じようなものだろうか。
園児……。
自分で思ったことに対し、クスリと笑いがこみ上げる。しかし、それは度の過ぎた例えでは無く、事実だった。
目の前の先輩が、お絵かきタイムに入っている。先輩の精神が園児だと言うことが、たった今証明された。
目が重たくて、口はとんがっている。不愛想で今にも噛みついてきそうなブサイクな猫。そんな猫を図書委員のノートの隅っこに描き、その周りにハートマークを描き始めた。
「見てー、朱音。可愛くないー?」
先輩はやっぱり何に対しても可愛いと言うタイプの人だった。
気がつけば一問も宿題が進まず、先輩が絵を描く様子を見ていた。子守をしているような感覚になる。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、愛らしいな、なんて思えた。
無邪気に笑う、先輩の笑顔のせいだろう。
「先輩は、本を読んでいるとき、何を考えてるんですか」
さっき質問攻めされたので、私も質問を返してみることにした。先輩はブサイクな猫を生み出すのをやめて、ペンを顎に当てて考え出した。そのペンは私の筆箱から勝手に取られたものだった。
いつの間に取ったんだろう。それにしても勝手だな。
小さくため息をついて、心の中で苦笑いする。
「うーん、なんだろう……。何も考えてないかな」
先輩は真剣な顔つきで、天井を見つめている。こうして真剣な顔をしているときは、年上らしさが垣間見えるのに。
コロコロ変わっていく先輩の表情をまじまじと見る。そして、疑問をぶつける。
「何も?」
「登場人物になってるからね、本を読んでるときは自分じゃないんだよ」
ストンと、理解出来ていなかった数学の問題が理解出来た時みたいに、腑に落ちた。
「確かに、先輩、本読んでるときは頭良さそうですもんね」
馬鹿にするように先輩を見る。
私の言葉に対し、先輩はケラケラと笑いながら、頭を軽く叩いてくる。全然痛くはなく、どちらかと言えば頭を撫でられているみたいだった。相変わらず距離間は近い。
「いった。先輩のせいで馬鹿になった」
眉間にしわを寄せ、先輩を見る。
怒ったフリをする私に、先輩はうるさいなぁと言いながら、何回も頭を叩いてきた。私は、図書室だというのに大きな声を上げて笑った。
すると、先輩は急にきょとんとした目で私を見た。
「笑った顔初めて見た。笑わない冷たい子だと思ってた!」
悪意なんて一ミリもなさそうな、まっすぐな顔で、先輩は失礼な発言をしてくる。冷たい子なんて良く本人の前で言えるな。
私はまた怒ったフリをした。今度は真顔にして、本当に怒っているふうを装った。
しかし、それもすぐに耐えきれなくなり、吹き出した。つられて先輩も笑い出す。私たちは笑い方がそっくりだった。先輩の、子供のような素直さ、なんとも憎めない。まるで、波の出るプールに自分から飛び込んでいくように、先輩のペースに呑まれることが楽しい。
静かな図書質の中で私たちの笑い声は一つになって、溶けていった。
「朱音面白いね」
先輩は笑いすぎて涙目になった目を擦る。
「先輩はちょっとおかしいよ」
先輩は私の顔をまじまじと見てから、笑い出した。まさか、自分がおかしいことに気付いていないというのだろうか。
先輩の純粋無垢な笑顔は、端麗な外見の先輩をより一層綺麗にさせるスパイスみたいだった。
つばさの今日の演奏を聴くために、今日もまた十六時五十分に図書室を後にした。決まったように先輩の後ろをついていき、決まったように二年二組の教室に入る。そして、先輩は今日もまた、私の知らない曲をリクエストした。
先輩はまた、必死にクラリネットを弾くつばさをほったらかして、本を読んでいるときのように脳内がどこかへ行っていた。人形のように表情がない。頭の中でコンサートにでも行っているのだろうか。
先輩が脳内で旅立っていても、つばさは真剣な顔で、クラリネットを吹き続ける。
素人でもわかるぐらい、つばさの音には重みがあった。この間は目に映る現実を処理するのに必死で気付かなかったけれど、つばさの吐く空気は人より少し重い気がする。まるで耳元で、フーセンガムが弾けるかのように、音が踊っているのがわかる。
圧倒されると同時に、楽器の音に慣れていない私は、思わず耳を塞ぎたくなった。耳が耐えきれない。私には威力が強すぎる。
私は先輩みたいに、目を瞑ってオルゴールを聴いているようには聞けなかった。
やっとの思いで、音の強打に耐え終わる。隣の先輩はまだ、先輩はまだコンサート会場の中にいた。
本気でおかしい人なのか。そう思うと同時に、こんなに何かに浸れる先輩にうらやましさを感じた。
そんな先輩は、急に息を吹き返したかのようにパチリと目を開けた。
「いやー、今日も良かったよ、つばさくん。ね! 朱音!」
いきなりの変わりようにびっくりして、思わず肩を揺らした。
「えっ? あ! はい。指の動き早くてすごかったです」
いきなりのフリに動揺して大きな声が出ると、つばさはまじまじと私の全身を見た。
先週は先輩のことばかり見ていてつばさのことをあまりちゃんと見ていなかったけれどこの人、体はごついし、顔は怖いし、肌は黒いし、腕の筋肉はすごい。柔道部とか野球部にいそうな見た目をしているのに、なぜ吹奏楽部なのだろう。雄大や奏よりも存在感がある。数学的に言うと、とてつもなく体積が大きい。身長はきっと奏の方が大きいけれど、この人には貫禄がある。
「ありがとうー。嬉しいわー」
つばさの重みのある低い声が耳に響く。
つばさは不愛想だと思っていたが、笑ってみればそうでもないみたいだ。笑うと、鼻が強調されるようにぷくりと大きくなる。
「二人は随分仲ええんやな。もう名前で呼び合ってるし」
「そうなんだよ! ね! 朱音!」
キラキラした目で先輩は私に同意を求めてくる。肩を抱き寄せられ、先輩の肩と私の肩がぴったりひっつく。私の体は海に足をつけた瞬間のように跳ねた。だから、距離間……。
決して名前で呼び合ってはいない。ただ先輩が勝手に私の名前を呼んでくるだけだ。仲良くはない。
先輩の言葉を否定しようかと思ったが、その後の先輩の処理が面倒くさそうだったので「はい」と小さな声で同意しておいた。先輩は一瞬驚いたように私を見ては、心底嬉しそうに笑った。それに悪い気はしなかった。
二人で図書室の鍵を返しに行き、正門をくぐる。先輩は、好きな作家の新刊が今日発売するのだと、すぐに私に背中を向け早足で帰って行った。
その後ろ姿をしばらく眺めていた。