【紫の海になって、】[一話][小学生時代]
大人がいつも、他人の表面しか見ていないことに気付いたのは、小学二年生の頃だった。
当時クラスに勉強はできないくせに先生に媚を売って、成績を上げていた女がいた。いつもニコニコして、先生の頼みごとも積極的に引き受けるそいつは、案の定先生から気に入られた。
無愛想で先生から嫌われていた俺が、いくら百点をとっても、その女より成績表の評価は悪かった。幼なじみの日和も俺と同じだった。勉強ができるのに、発表せずにぼーっと外を眺めていたり、赤いリップクリームをつけてきたりして、よく先生に怒られていた。日和の見せてくれる成績表に『よくできる』はほとんどなく、『できる』ばかりだった。
自分に都合の良いものには、よくできると評価し、自分に従わないものには評価を下げる。
その様子に大人の汚さを感じた。
俺は、「あの女、勉強は出来ないし、影で日和の悪口をこそこそ言っていて、先生に媚びを売っているだけだ」と、担任に楯突いたことがある。けれども、担任は『あの子は頑張っているから』の一言で済まし、その後、その話を誇張して俺の両親に伝えた。
俺は家に帰ってから、父親に「恥ずかしい」とひどく叱られ、夜中ベランダに放り出された。そしてベランダに出されてから、二時間くらい経った頃に、ちょうど二階にある自分の部屋に上がってきた兄貴に出してもらった。先生に楯突いて、父親に恥をかかせた俺のことを、唯一日和だけが笑ってくれ、「わかる」と共感してくれた。
汚い大人は先生だけでは無かった。俺の母親も同じだった。
母親は家では頼りなくて父親の言いなりなのに、外では金持ちの日和の母親と一緒にいることで見栄を張り、他の母親を見下していた。
汚い大人ばかり見ていたから、俺は小さいころから、大人の汚さを身に染みていた。
俺の家では失敗することは許されない。失敗は成功のもと、なんて言うけれど俺の家では失敗は恥だった。俺がバスケで失敗すると、父親にひどく怒られ、テストで少しのケアレスミスをした日には、どうしてそうなったのか一時間ほど正座して問い詰められた。
そんな俺はどうにか怒られない方法を考えた。その果てに、俺は出来ることにしか取り組まなくなった。
サッカーは苦手だからいつもドッチボールをしていた。
筋トレが苦手だからとにかく走って体力をつけた。
出来ないから頑張る、ではなく出来ないことは怒られるからやらない。
俺が怒られずに楽しく生きていくにはそれしかなくて、今思えば、無意識的にそうしていた。
そうして小学校三年生のとき、クラスに蒼空が転校してきた。
青い色をしたランドセルがやけに似合っていたそいつは、転校してきた初日から騒がしかった。
教室で女と戯れて、外では男とドッチボール。勉強はできないくせにすぐに先生のお気に入りになったそいつを、俺は最初避けた。無意識的に媚び売り女に似ていると感じたからだ。
そう思っていた矢先、蒼空は俺の入っているバスケのチームに入ってきた。
「よろしくな!」
近寄ってくる蒼空に、俺は母親から学んだ愛想笑いを返した。
「かっこいいから、名前。一番に覚えちゃった」
蒼空の思いがけない言葉に、作り笑いしていた顔をしかめた。
そんな恥ずかしいことを、まっすぐ伝えてきたこいつの方が、俺なんかよりも何倍も眩しかった。
蒼空は三十人程いるクラスメイトの、たった一人の俺の名前をすぐ覚えていたらしい。
暑い夏に、クーラーの効いた涼しい部屋に入ったときと同じような快感を覚えた。人から気に入られる快感を、蒼空が初めて俺に教えた。
それからすぐに蒼空とは打ち解けた。蒼空は日和とも仲良くなっていた。俺の幼馴染だからという理由ではない。蒼空が日和と仲良くしたがる理由を、俺に向ける顔と、日和に向ける顔の違いから、すぐに察した。
それに嫌気が差した。
でも、その感情は、どういうものだったかわからない。よく、覚えていない。
強いて言うなら、強い太陽の照りつける日なたから、日陰で涼む人を見ているような少し不愉快な気持ちだった。
蒼空が輪の中心にいるのは人に媚びを売っていたからでは無かったことはすぐにわかった。
蒼空は騒がしいだけではなく、周りのやつらの雰囲気に合わせていた。随分と、大人びたやつだな、と思った。
うるさい奴といるときは騒がしく遊ぶ。そして、静かなやつには、誰も見てないところでこっそり給食の手伝いをしたり、日直の仕事を手伝ったりしていた。
女の髪の毛の変化や、持ち物の変化にすぐ気づいてひたすらに褒める。何が可愛いのかわからないデザインの筆箱を褒めていたのも覚えている。
自分の持っている筆箱を可愛いと言ってもらえた女たちは、まるで自分が可愛いと言われたかのように喜んでいた。
蒼空は媚を売って優しくしているのではなく、根っからのいいやつだった。それが兄貴と被ってなんとも嫌になった。
六歳年上の俺の兄貴は、運動も勉強も出来ないし、顔も大してかっこよくない。
でも、性格だけは段違いに良かった。
性格の善し悪しを図るのが、一体何かはわからないが、きっと百人に聞いたら百人が、兄貴のことを性格が良いと言う。聖人のような人だった。
蒼空が転校してきて一か月経った頃、俺は気が付けば日和と蒼空と一緒にいるのが当たり前になった。蒼空から、三人で祭りに行こうと誘われたり、一緒に宿題をしようと週末三人で集まることもあった。
そんな俺たちは、同級生から浮いた存在となった。勉強の出来る日和。人に優しい蒼空。
俺は二人の隣にいるだけなのに、勝手に良いやつ扱いされた。まるで、何もしていないのにお金持ちの生活をできているみたいだった。
それと同時に、何も出来ないくせに見栄を張っている母親の顔が浮かんで、俺はこの事実をうまく受け入れられなかった。母親と同じような人間にはなりたくなかった。
――みんなから好かれる人になりなさい。
小学四年の冬。父親が兄貴と俺にそう言ってきた。俺と兄貴はその訴えを守らなくては生きていけなかった。父親はキレると恐ろしく怖かったからだ。
小学校に入ってすぐの頃、夕食後にお腹がすいて米を多く食べてしまい、仕事帰りの父親の分が少なくなってしまった時、ひどく怒られた。
「お前なんか家から出ていけ」
「人のことを考えらない子は俺の子じゃない」
「俺の視界に入ってくるな」
そう叫ぶ鬼のような父親に対して俺は言い返した。
「父さんもこの前俺のお菓子勝手に食べたよな」
関係ない話まで持ち込んで、自分をどうにか劣勢に持っていこうとした。けれど結局、父親は
「俺の家だから」
と言って俺を悪者にして話を終わらせた。
兄貴は俺と違って反抗もせず、父親に怒られてもすぐに謝っていたから、ひどく責められることは少なかった。
怒りを表す父親に、頭を下げて謝る兄貴は俺の目にはみっともなく映った。
だから、俺は決して謝らなかった。
だからだろう、俺の方が何倍もひどい言葉をぶつけられた。
寒い日の夜中、外に追い出されたり、食事を抜かれたり、テレビのリモコンを顔面に投げつけられたりした。
確か小学二年生の時、お茶碗を割ってしまい、ちょうど父親の機嫌が悪くて、外に追い出されたことがあった。俺は、真冬に上着も持たず裸足で外をほっつき歩いた。足が凍るように冷たくこのまま死んでしまうんじゃ無いかと思った。
どこに進んでいるかもわからない。冷たい空気が目を刺し、視界がぼやけていた。
すれ違う人の視線が痛かった。ただ、兄貴みたいにみっともない真似はしたくなかったから、家とは逆方向に歩いていた。
それから何時間も家の近くをぶらついていると、息を切らした兄貴がやってきた。鼻を真っ赤にしながら、「帰るよ」と俺に上着と手袋を渡してきたのを覚えている。自分は手袋もせず、急いできたからか上着も着ていなくて、真っ赤な手をしていた。
そうして家に帰ってから、兄貴に「ありがとう」も言わず、父親に「ごめんなさい」と謝ることもしなかった。台所に割れていたお茶碗は、跡形もなく消えていた。
俺は人生でありがとうとごめんなさいを心から言えたことがなかった。
その心は父親の遺伝だと思う。父親は何をされても当たり前という人で、人には感謝と謝罪を求める癖に自分は何一つしなかった。
俺と兄貴が誕生日にプレゼントをあげた時も、「これはセンスが悪いな」の一言。
俺の誕生日に日和がくれたお菓子を勝手に食べたときも、「あんなところに置いていたお前が悪い」の一言。
俺はそれを見て育ったからか、感謝と謝罪がうまくできなかった。見本を見たことがなかったから、言おうと思ってもうまく口に出来なかった。
俺の家は父親にいつもコントロールされていて、母親、兄貴、俺の三人は父親の支配下にあった。外側の人間はいつもそれに気づかなかった。
蒼空は俺の父親をよく好きだと言うことがあった。俺は蒼空にそれを言われることが嫌いだった。
お前にとってはいい人でも、決していい父親ではないんだよ。
と言いたくても声に出す勇気はなかった。
父親に怒られるかも、と言うより良い人だと思っている父親をけなして、蒼空に幻滅されるかもしれないという不安で言葉に出来なかった。
怒られるのは嫌だった。またあんな寒い思いをするのは嫌だった。
だから俺は自分の身を守るためにみんなに好かれる自分を作り出した。兄貴は演じなくても好かれたけれど、わがままな俺は俺じゃなくならないとみんなから好かれることは出来なかった。
だから小学五年生になりクラスが変わったと同時に、俺は昔の自分を隠した。本心を思ったままにさらけ出す自分を、隠した。
自分の大嫌いな女にも吐きそうな思いで優しくボディータッチをし、汚いクラスの男にも話を合わせにこにこ笑った。まるで自分が望んでそうしているように振る舞った。
文句や不満を言いたいときはすべて唾と一緒に飲み込む。
担任にも優しく文句も言わずに、手を挙げて発表。先生の言うことはすべて正しい。
そういう姿勢で学校に行くとまんまと成績が上がった。
そして蒼空よりも女に好かれるようになった。テストの結果も身体能力も、以前と大して変わらないのに、全てにおいて完璧だと褒められるようになった。自然と父親から叱られることも減った。
――人生ってこんな簡単なのか。
そう思ったと同時に、やはり大人には、表面だけしか見られていないのだと悟った。
他人から嫌われないと、何かと生活がしやすかった。
幼稚園の頃に、日和とやったおままごとのように、俺は毎日毎日、完璧な自分を演じていた。
全てを完璧に行うわけではない。完璧すぎると逆に敬遠されるから、完璧すぎない自分を完璧に演じた。
完璧なおままごとが出来るようになった頃には、俺は中学生になっていた。




