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【谷山雄大】浄化

 土曜日の朝。蝉のうるさい音で目を覚ました。当たり前だが、何の物音も、誰の足音もない。

 母さんの病院へ行く日が、自分の思っているよりも早くやってきた。

 キッチンへ行き、冷凍してあるご飯を電子レンジで温める。そして、インスタントの味噌汁を作るため、電気ポットに水を入れスイッチを押す。それらを待つ間に、奏のお母さんにもらった煮物の作り置きを皿へと移していく。

 機器や他人が作ってくれた朝食を机に並べ、テレビをつけた。手を合わせ「いただきます」と呟き、箸を持つ。テレビのキャスターたちが、次々とニュースを報道していく。

 子供が亡くなった交通事故の犯人。迷惑動画を投稿した高校生の末路。マンションの屋上から飛び降りて亡くなった中学生の顔写真。芸能人の自殺。

 どの情報もいまいち耳に入ってこない。それほどに衝撃だと思える事柄はない。

 自分の身に起こっていることでなければ、どれも大事とは思えない。

 冷たい煮物を口に運んでいく。箸を持つ手がしっとりと汗で濡れていることに気付く。

 そうか。俺は緊張しているのだ。

 自らの状態を実感し、初めて自分の心情に気付く。

 母さんに会いに行って、俺は何を言えば良いのだろう。何を話せば良いのだろう。俺がいれば、母さんは親をしていなくてはいけなくなってしまうから、出来れば行かない方が良いのではないだろうか。俺の存在は、母さんにとって『マイナス』ではないだろうか。

 行くと前々から決めていたのにギリギリになって躊躇う気持ちが現れる。

 いや、行くんだ。母さんに俺が元気でいるところを見せなくちゃ。

 朝食を食べ終え、冷水で皿を洗いながら、なんとか心を落ち着かせる。自分の胸の中まで洗浄するかのように丁寧に皿を洗った。

 家を出ようと思っている昼の十二時まで時間があったので、勢いで掃除を始めた。周辺に散らかしていた洗濯物を畳み、掃除機をかける。エアコンの中のフィルターも掃除した。そして、お風呂やトイレ、水回りも念入りに掃除する。

 とにかく何かに集中していないと、どんどんお見舞いへ行くのが怖くなりそうだったから、俺は無心で動き続けた。

 気がつけば時間がすぐに経過し、つけっぱなしのテレビから、十二時を知らせる音がした。

 汗を掻いたシャツを脱ぎ、真っ白なティーシャツへ着替える。

 胸の鼓動が、心の奥で鳴っている。大きな音では無く、トクントクンと小さな鼓動が繰り返し鳴っていた。

「行くか」

 誰もいない玄関にそう言い残し、母さんの着替えなどを入れた紙袋を持って家を出た。

 

 最寄りのバス停からバスへ乗り込んでいく。途中海沿いをバスが走るも、海の色はいまいち掴めなかった。緊張しているのか、見ている風景をそのまま脳内に落とし込むことが出来ずにいた。それよりも、母さんに会ったときのことを脳内でシミュレーションしていた。

 母さんに何を言おう。

 最近奏の家でご飯を食べているよ。

 バイトも少なくして、勉強しているよ。

 毎日、ちゃんと楽しいよ。母さん悪くないよ。

 母さんはもしかしたら、これまでのことをひどく気にしているかもしれない。いや、多分母さんの性格的に気にしていないとおかしい。

 少しでも俺が、母さんの気持ちを軽くしてあげないと。父さんの代わりに俺が。

 バスの運転手が、病院前のアナウンスをし始めた。俺は財布から運賃をあらかじめ出し、バスが止まるのを待った。

 

 終点の病院前でバスを降りる。

 無機質で白い箱のような病院が待ち構えていた。ぐっと母さんの服の入った紙袋を握り絞め、唾を呑む。

 そして一歩一歩、踏みしめるようにゆっくり歩いた。


 自動ドアをくぐると、冷たい空気が流れ込んできて、汗を掻いた背中にひんやりとした寒気が走った。

 受付で母さんの名前を言うとすぐに案内してくれ、通してくれた。母さんは三階の談話室で待っているらしい。俺が来ることは、奏のお父さんがあらかじめ病院に伝えているらしい。

 エレベーターに乗り、鏡の中の自分と向き合いながら表情の練習をする。

 笑え。笑え。

 なんでもいいから。とりあえず笑え。母さんを心配させるようなこと、絶対にしない。

 そう心に決め、エレベータから降りる。

 その瞬間、母さんが見えた。こちらを背にして、看護師さんと楽しそうに話している。


――母さんが。母さんが……。笑っている。


 後ろから見える母さんの横顔は、生気が満ちていた。母さんは、身体は相変わらず細くて弱っているものの、顔はキラキラして見えた。

 俺はぐっと涙をこらえて、母さんの元へゆっくり歩いた。

 母さんの隣でしゃがみ込む看護師が、母さんより先に俺に気付いて、「あ」と声を漏らす。その看護師の反応に、母さんがこちらを振り返った。

「あら、雄大」

 ああ。母さんだ。

「来てくれてありがとう」

 母さんはにこりと笑った。看護師は俺に会釈をしてから、その場を離れていった。

 母さんだ。呪いの幽霊なんかじゃない。母さんだ。

 俺は言葉を詰まらせた。呼吸さえ忘れていた。

「ねぇ、雄大。母さんの隣に座ってちょうだい」

 言われるがままに、母さんの座っているソファに隣に座る。そして、母さんは俺の目を柔らかい目で見た。

「本当にごめんなさい」

 それから、母さんは俺に後頭部を見せるぐらい頭を下げた。

 俺はまだ何も言葉を発せずにいた。ただ、頭を下げる母さんを制するように、口をもごもごさせていた。

「頭がいっぱいいっぱいになって、雄大にひどいことした。陽南にも悪いことした。許されるとは思っていないけれど、とにかく謝りたい。ごめんなさい」

 母さんは、息子に対して謝るというよりは、しでかしてしまった子供のように謝った。久しぶりに聞いた母さんの声。母さんの顔。

 それは母さんの歳だけでなく、俺が大人に近づいていることも感じさせた。

 感情が、爆発しそうだった。


「母さん俺のこと好き?」

 

 自分で言ってから、この質問が母さんを困らせるものであることを自覚した。

 久しぶりに母さんに会って、言う言葉がこれだなんて。

 言ってすぐに情けなくなった。でも、誰に悪くないと言われても、やっぱり不安で仕方ない。奏のお父さんに俺の存在を肯定されても、俺の母さんに肯定されなきゃ意味が無い。

 ずっと不安でうまく眠れない。

 

 「あんたが死ねばよかったのに」と、姉ちゃんに言った母さんの声が未だに忘れられない。「死にたい」と言う、呪いの幽霊のような母さんの声が忘れられない。真夏に冬の服を着て俺の受験を応援する母さんの顔が忘れられない。必死になって父さんを探す母さんが忘れられない。

「死んでほしい……って今でも思ってる?」

 俺は確認したかった。他でもない母さんに、自分の存在を肯定して欲しかった。今の度胸の無い自分を肯定して欲しかった。

 母さんは俺の肩をずっしり持った。その手は石みたいに冷たいものでは無く、ホットミルクの入ったマグカップのような、温かいものだった。

「思ってない。ずっと悲しかっただけなの。お父さんがいなくなって、お母さん悲しかっただけなの。本当にごめんね。母さん、雄大も陽南も大好き」

 俺の心にまとわりついていた呪いが取り除かれたかのように、心が軽くなっていく。

 奏のお父さんに、「そんなひどいこと思っている親はいない」と言われても、信用しきれていなかった。母さんの言葉の方を信じていた。信じていたかった。

 だから、他の誰に悪くないと言われても、俺は自分が悪いと、ほんの少しだけ、まだ思っていた。

 張り詰めていたものが、一気に決壊した。

 最初に心に決めていた笑うことなんて頭から飛んでいて、喉からひっと引きつるような声が洩れる。

「母さん、俺もね、父さんいなくなって、寂しかったよ」

「うん。ごめんね」

 ゆらゆらと視界が歪んでいく。

「母さん。俺のこと、ひとりぼっちにしないでよ」

「うん。ごめんね」

「母さん……おれ。かあさんの作るカレーがたべたいよ」

「うん。ごめんね。帰ったらちゃんと作るからね」

 座りながら床を見つめる。ボタボタと床に涙が落ちる。

 母さんを謝らせる言葉しか言うことが出来ない事実に、悔しくて涙が出る。

「おれ、ちゃんとがんばるから。もう死ぬなんて言わないでよ」

「うん……」

 母さんも泣きながら、俺の頭に手を置いた。

 小さい。こんな小さい手に、たくさんのものを持っていたのだ。たくさんの荷物を抱えて、その小さな手が壊れそうになってしまったのだ、痛みに耐えられなくなってしまったのだ。

 人は抱えきれない荷物を、どこかに置いていくか、誰かと一緒に持つかしないと、先へは進めない。

 俺は腕で目を擦り、母さんの丸まった小さな背中を見た。

「おれがんばるから、かあさんもがんばって。大丈夫。ぜったいにだいじょうぶ」

 奏の言葉を思い出す。

 俺たちは、共に、父さんを亡くした悲しみを背負って生きていく。

「……うん。ありがとう」

 母さんの温かい手で俺はやっと、幸せ者になれた。

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