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【谷山雄大】後悔

「もしもし」

 消え入りそうな声で呟く。

「電話なんかかけてきて何。なんかあったの?」

 電話の相手は姉ちゃんだった。後ろでゲームしているであろうカチャカチャ音と、彼氏の声であろう「クソォ!」という低い声が聞こえる。

 一瞬思考が停止する。

 そうだ。母さんを探しながら、姉ちゃんに電話をかけていたんだった。

 必死に頭を回転させる。今ここで、正直にことを話してもどうしようもない。

「え……。あ……! 姉ちゃんもうすぐ誕生日だからなんかほしいもんないのかなあーって! 俺何でも買うし!」

 必死に声を荒げる。

 それから電話越しに姉ちゃんのため息が聞こえた。それを聞くだけで心臓がひゅんとなった。無言が続く。

 ああ、ダメだ。姉ちゃんの機嫌を損ねてしまった。

「……あんた母さんの面倒を見てくれる人がほしいだけでしょ」

「ちげぇよ」

「私は嫌われてるけど、あんたは母さんに好かれてるんだからいいじゃない」

 姉ちゃんは淡々と話していく。姉ちゃんがそう思っている原因を、俺は知っている。

「そんなんじゃねぇよ……。母さんも元気だし、姉ちゃんのことも好きだから祝いたいだけで……」

「家に大量のお酒と薬置いておいてどこが元気なのよ。ずっと寝てるし、ろくに料理もしてないんじゃないの?」

 姉ちゃんが家の様子を知っている。姉ちゃんは俺がいない間に帰ってきていたようだ。

 母さんは料理だけでなく、全ての家事が出来ない状態だ。もちろん作り置きもしていない。

 俺は何も言えなかった。

 電話越しに、男の人の声がする。

陽南ひな。誰と電話してんの?」

「弟。しょうもないことで電話してきたの。うるさくしてごめんね。すぐ切る」

 電話越しの会話が聞こえてくる。姉ちゃんの声色は、俺に向けられているものより随分と明るい。

「可愛いじゃん弟」

「可愛くなんかない」

「一人っ子の俺からしたら羨ましいけどな。帰ってやれば弟のとこ?」

「嫌。あんなとこ、帰りたくない」

 俺は姉ちゃんたちの会話を聞きながら、歯を食いしばった。

 電話越しには再びカチャカチャと、ゲーム機をいじる音が聞えてきた。

「誕生日も帰るつもりないし、お祝いとかいいから」

 姉ちゃんの口調が、再び鋭い物に変わる。

「ごめん。こんなことで電話して」

 俺が言い終わる前に、ツーツー、と携帯から音が鳴る。

 もう頭が回らない。疲れた。足が痛い。もう立てない。何もしたくない。寒い。明日なんてこなければいいのに。

 縮こまりながら、気がつけば、眠りについていた。

 昔の夢を見た。

 夢だとすぐにわかったのは、家に姉ちゃんがいたからだ。

 

 今年の一月に入ってすぐのこと。姉ちゃんと母さんは喧嘩をしたときの夢。

 母さんが初めて呪いの幽霊になった日のことだ。

「やだ! 死にたい! あたしもうダメだ」

 リビングで、酒を飲んだ母さんが泣き叫ぶ声が聞こえる。俺はその様子を、自分の部屋のドアから覗いていた。

 初めて見る母さんのラリった姿を見て、当時の俺は恐怖で震えていた。今思えば、今よりは幾分もマシだった。昔の母さんには凶暴性は無く、理性がギリギリ残っているような状態だった。

 姉ちゃんが俺に向かって言う。

「早く寝なさい」

 そう言って俺の部屋の扉を姉ちゃんは強引に閉めた。その時の俺は、姉ちゃんの言うとおり、すぐに布団に入った。

 布団に潜っても、リビングからは母さんと姉ちゃんのぶつかり合う声が響いていた。

「そんなに言うなら死ねば?」

 姉ちゃんの声に躊躇は感じられなかった。

 中学生の俺は、ただ自分の部屋でガタガタと怯えているだけだった。どんなに耳を塞いでも居間での二人の会話が俺の耳に届いた。

「なんでそんなこと言うの? あんたなんかあたしの子供じゃない……」

 母さんの荒い呼吸が、耳元まで届いていた。

「あんたが死ねば良かったのに」

 母さんの冷たい声を、俺は今でも覚えている。

 

 母さんは確かに小さい声で言ったはずだ。でも、俺の耳にはまっすぐ届いていた。その言葉が、姉ちゃんだけでなく、俺にもかけられていたものだったからだ。

「ッ……。もういい」

 姉ちゃんはそのあと母さんに対して、何も言わなくなった。

 俺の向かいにある姉ちゃんの部屋のドアがバタンと閉まる音がした。それが、何かを分断するような、大事な何かがプチンと切れてしまったような音に聞こえてならなかった。

 

 その夜、姉ちゃんは隣の部屋で朝型まで泣き狂っていた。ずっと、ビービーと鼻をすする音が、俺の部屋まで聞こえていた。母さんも、自分の言ったことの意味に後々気付いて後悔したのか、ひたすらワンワンと泣いていた。

 俺も、姉ちゃんも母さんも、誰一人として一晩中寝ていなかった。すやすやと寝られるような環境じゃなかった。

 

 この出来事を唯一止められたとしたら、俺だけだった。あの時あの家には、もう俺しかいなかった。

 でも、俺は何もしなかった。

 俺は止めることが出来たはずなのに、自分が傷つくことが怖くて隠れていた。

 

 そのことを今でも後悔している。

 

 姉ちゃんと母さんはよく喧嘩していた。けれど、そのたびに父さんが仲裁してくれていた。そのおかげで今まで楽しく生きてこられた。毎年母の日には、姉ちゃんが買ってくれてカーネーションを、俺が母さんに渡していた。

 姉ちゃんは母さんが大好きだ。

 けれどあの日から、母さんと姉ちゃんはもう繋がりを持たなくなった。姉ちゃんはずっと母さんに言われた「あんたが死ねば良かったのに」という言葉を信じている。

 

 二人は俺を通じてだけ、互いがまだ生きていることを確認している。

 

 どうしてこうなったんだ。

 俺が姉ちゃんも母さんも守れないから。

 俺が弱いから。

 俺が自慢できるような子供じゃないから。

 俺が何も出来ないから。

 

 そうか。

 どれもこれも俺のせいか。

 

 寒さで凍っていくような感覚がした。

 足下から順に、膝、太もも、腰、胸、と順に身体が固まっていく。

 顎先に差し掛かったとき、身体がビクンと跳ねた。それと同時に、俺は夢の世界から現実へと帰ってきた。

 

 時計の針は、午前二時を回っていた。カチリ、カチリ、と一秒ずつ秒針が回っている。

 家には、死んだように眠る母さんと俺の二人。

「……ごめんなさい」

 俺は何回繰り返したかわからないその言葉を、息を吐くように出した。

 

 今日のこと、全部夢だったらいいのに。

 そう思いながら、立ち上がろうとする自分の足首に痛みを感じる。脳裏に足をぐねった瞬間のことがよぎる。

 夢なんかじゃ無い。そう一瞬にして悟った。

 

 足を引きずりながら台所まで行き、水道水をコップに汲み一気に飲み干す。

 俺は死んだ父さんが帰ってきたり、仲の悪くなった親子がわかり合えたり、急に俺に何かの才能が振ってきたり、好きな女の子と何かの拍子で結ばれたりする夢のような出来事をずっと待っていることしかできなかった。


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