【谷山雄大】沼
二十一時になり、高校生の俺だけが、他の人たちより先にバイトから上がる。
「谷山くん来週も休みなくて大丈夫? お盆は毎年人手足りないから、こっちとしては嬉しいけど、五連勤しんどくない?」
タイムカードを押していると、店長が俺に尋ねてきた。
「余裕っすよ! お盆でも毎日稼いじゃいます!」
「ありがとう。助かるよ。今日もいっぱい食べて帰って。今まかない作るから」
店長はこんな俺にも目をキラキラと輝かせてくれる。
俺はここならなんとか生きている意味があった。
休憩室の椅子に座り、ラーメンを待つ。
バイトは楽なものじゃない。楽じゃないから、何も考えずに動き続けられる。
俺は、お客さんの注文を取ったり、商品を運んだり、ネギを切ったり、皿を洗ったり、比較的簡単な作業を任せてもらっている。簡単な作業だが、このラーメン屋の商売の一部分でも、役に立っていると思うと、嬉しい。
俺はまだ、人の役に立てる。
どこか安堵するような気持ちで携帯を開く。九時を少し回ったところ。母さんは今日もまた、寝ているだろうか。それともお酒を飲んでいるだろうか。一人で泣いていたししないだろうか。暴れていたりしないだろうか。
ぐるぐるぐる。
家に帰る時間が近づくにつれて、不安な気持ちが膨らんでいく。
コンコン、とノックが聞こえ、ラーメンを持った店長が入ってくる。
「お待たせー」
店の中が忙しいのか、店長は机の上に、ガコンと少し雑にラーメンを置いた。端っこのチャーシュー。少量のネギ。そして、ぷかぷかとナルトとメンマが浮かんでいる。
「あざっす! 今日もうまそう!」
「急いで来たから雑になっちゃってごめんね。じゃあ、明日もよろしくね」
「はい! いただきます」
店長は急ぎ足で、でもこちらに笑いかけるのは忘れずに、休憩室から出て行った。
一人静かに手を合わせる。そして、割り箸をポキッと折る。あ。失敗した。
お箸が左右非対称の太さになる。
持ちにくいお箸でラーメンをすする。しょうゆの濃い匂いだけで吐きそうになる。
ダメだ。ちゃんと食べないと。忙しい中作ってもらったから、ちゃんと食べないと。
無理矢理詰め込んでいく。味がしない。
母さんのカレーが食べたい。父さんと母さんと姉ちゃんと四人でカレーを食べたい。
食事をしている真っ最中なのに、頭の中が『カレーが食べたい』と叫んでいる。
食欲があるわけではない。ただ、カレーを家族四人で囲みたい。
目の前に父さんがいて、俺の隣に姉ちゃんがいて、その前で母さんが笑っている。そんなあの頃は、何とも思わなかった日常を、今は喉から手が出るほど欲している。
メンマをガリガリと噛む。独特の味わいに、思わず胸がつっかえる。俺は勢いで飲み込んだ。ただただ無心で、ラーメンを食べる。ほとんど噛まずに、飲み込んでいく。
なんとか、スープの最後の一滴まで完食した。
さあ、帰るか。
「店長! ごちそうさまでした!」
休憩室を出て、ラーメンのどんぶりを洗い場まで持って行く。
「わざわざありがとう。お疲れ様」
鍋の中をぐるぐるかき混ぜながら、額の汗をTシャツの袖で拭っていた。相変わらず、笑顔が眩しい。
「お疲れっす!」
店長と、これからまだ深夜までバイトをする大学生の集団に挨拶をし、更衣室へ行く。
自分のロッカーを開け、これまで来ていたシャツを脱ぐ。赤みの強い、皮膚の奥から血が滲み出ているような傷があらわになる。
更衣室には俺以外誰もいないけれど、傷跡を隠すように着替えた。
ハンガーを振り回す母さんを、必死になって止めた時に出来た腕の傷。目覚まし時計を投げつけられたときに出来た内出血。
それぞれの傷跡を見るだけで、脳裏に過去の映像が再生される。
母さんはどんどん痩せ細っていくのに、凶暴性と怖さはどんどん増していっていた。
俺の体は、もうすでに呪われているかのように重い。そんな体をずるずる動かしながら、ラーメン屋を出た。
街灯がポツポツとついている。その先に見える空は、夜なのに目に見えてたくさんの雲があった。怪しい空模様だ。
寝不足の目をゴシゴシと擦る。
そういえば宿題やらなくちゃ。
バイトばかりの日々だし、宿題のことはすっかり忘れていた。
ぽつ、ぽつと頭皮を突かれるようなこそばがゆさを感じた。雨だ。早く帰らなくちゃ。
早く母さんの元に帰らなくちゃ。
早足で、団地の前にたどり着く。幸いまだ鈍い人なら雨を感じないレベルの調子で、濡れることはなかった。
俺の帰るところは母さんのところだと決まっている。俺は母さんがいないと生きていけない。無力で弱い俺は、母さんが必要だ。
鍵をくるりと回す前に、一息深呼吸する。そして、扉を開けた。
「ただいまー!」
声を張って挨拶をする。
いつからか「おかえり」と言われることもなくなった。
ただ薄暗い静かな部屋に、俺はいつも帰ってきている。朝食を作ってくれたのは、補習の最終日から三日間だけで、母さんはすぐに、元の寝たきりの状態に戻った。
おかえり、が無くとも、俺は何度もただいまと言い続ける。俺はちゃんと帰ってきたよ、と示すかのように俺は毎日声を張っていた。
カバンを玄関の床に置く。靴を脱ごうと、屈んだ。
??
その時、異変に気付いた。
玄関に母さんの靴がない。
どこ行った?
酒を買いに行った?
いや、ネットスーパーで大量買いしていたのがこの前届いていた。市販の睡眠導入剤が母さんの部屋にあるのを、一昨日見たばかりだ。
疲れ果てた頭を、必死に回転させる。無理に思考を動かす。
行き着く先は一つ。
母さんが、呪いの幽霊になった時にいつも言う言葉を思い出す。
「もう、ダメだ」
「死にたい」
「つかれた」
まさか。
俺は最悪のことを考えた。気がつけば、家を飛び出し、団地の階段を駆け下りていた。
そして、走り出す。
外では傘を差している人が、いた。でも俺は、何も傘も差さず、全力で走る。
母さんごめんな。俺が追い詰めてごめんな。
頭の中で母さんへの謝罪を続ける。息を吐くように謝ることの出来る俺のその言葉には、もう重みがないのかもしれない。
ひたすらに走り続ける。きっと今の俺はひどい顔をしている。汗なのか、涙なのかわからないものが目を覆う。潮の味がする。
きっと今は二十一時半を過ぎたところだろうか。ポケットに入れていた携帯を取り出し、母さんに電話をかける。
呼び出し音が、規則的に鳴り、そして止む。鳴って止んでを繰り返し、ツーツー、と諦めたように息を止める。それがまるでバイタルサインみたいに聞こえて、俺は怖くなって思いっきり息を吸い込んだ。
続けて姉ちゃんにも電話をかけるが、同じように出る気配はない。
ただ走る。暗くて足元が見えず、石に躓き足をぐねった。
痛い。
痛い。
でも母さんはもっと痛い。もっと辛い。
俺なんかの非じゃ無いくらい頑張っている。なのにその結果が、俺だ。母さんの頑張りを、『こんなん』にさせているのは俺だ。
構わず走り続ける。走り方が気持ち悪いことになっているのが自分でもわかる。すれちがう人たちに見られる。
母さんごめんな。
俺が『こんなん』でごめんな。
目から溢れた何かが、ぼたりと地面に落ちる。
――俺が死ねば良かったのにな。
ついに雨が、俺を殴りつけるみたいに土砂降りになる。
いつも登校している道を走り抜け、学校を通り過ぎる。学校の職員室は真っ暗で、人の気配は無い。俺
ラーメンがもう喉元まで戻ってきている。
気持ち悪い。
気がつくと、父さんが事故にあった駅のロータリーにいた。
涙で濡れた目を腕で擦る。二十分ほど全力で走り続けたから、喉から血の味がする。
膝に手を付き下を見ながら、昔のことを思い出す。
父さんが死んだ日も、こんなひどい雨の日だった。
世の中がキラキラしている去年の十二月二十四日。
父さんがこのロータリーを歩いているところを、車が突っ込んできた。高齢者の暴走車が、父さんたまたま、父さんにぶつかった。
父さんは仕事帰り、俺たちへのクリスマスケーキを買って、バスに乗って家へ帰ろうとしているところだった。その日、ケーキも父さんも帰ってこなかった。
父さんが死んでしまった場所には、今でも花が置かれている。
下を向いていた顔を上げ、雨の中動き出す。
バス停の方を見たと同時に、俺は声を上げた。
「母さん!」
母さんが、バスを待つかのようにベンチに座っていた。
走って母さんの方に駆け寄る。
母さんは、やけに姿勢を正して、うつろな目をして座っていた。
「母さん。帰るよ」
母さんの肩を揺らす。やっと俺に気付いたのか、母さんと初めて目が合う。
よかった。母さんだ。
きっと久しぶりの散歩で疲れて休憩でもしているだけだ。
俺が考えた最悪の事態ではない、と自分に言い聞かせる。
息を整えながら、ゆっくりと母さんの手を掴もうとした。
「ねえ、雄也さんいつ帰ってくるの?」
俺をじっと見つめたまま、母さんは言った。母さんの表情は怒りでも、悲しみでもない。ただの疑問だ。小学生が先生に質問するような、そんな幼い口調で俺に問いかけてきた。
「え……」
父さんの名前を呼ぶ母さんの目が怖くなり、伸ばした手を引っ込めた。
母親の顔ではなく、女の顔をしている。父さんの帰りだけをひたすらに待っていた母さんは、父さんを追いかけようとしていたのだ。待ちきれなくなって、会いに行こうとしていたのだ。
最悪の事態になっていなかったのではない。もうすでに何ヶ月も前から、最悪の事態という沼に母さんは足を突っ込んでいたのだ。
それに気づき、寒気がして身震いをする。
「帰ろう。俺帰ったら母さんいなくて寂しかったよ」
母さんは何も反応しない。
母さんは疲れ果てていて、立てないようだ。止まっていたタクシーに声をかける。
「二人、お願いします」
そう言って母さんのいるバス停まで車を回してもらった。運転手は、びちょびちょの俺を見て、怪訝そうな顔をしていたが、そんなこと気にしてられない。
母さんの肩を抱き、タクシーに乗せる。ドアは勝手にバタンと閉まる。
「団地まで、お願いします」
俺が身を乗り出し伝えると、運転手はわかったかわかっていないのか返事もなしに車が発進した。
母さんの隣に座ると、アルコールの匂いが鼻についた。またお酒を飲んでいたようだ。
ガタガタと震える母さんの手に触れる。真夏なのに、母さんの手は氷のように冷たい。まるで、銅像みたいに、冷え固まっている。
――いつから待ってたの?
母さんの体が心配になってそう聞こうとしたがすぐにやめた。
母さんが父さんを待っているのは、たった三十分や一時間でないことを、俺はよく知っている。
赤信号で車が停止すると、運転手はバックミラー越しにガタガタと震える母さんを一目見てから、怪訝そうな顔をしていたのを一変させ、俺に同情の視線を向けてきた。
外ではさっきより、より一層強い雨が降っており、風がビュービューと鳴っている。
――もうこのまま、母さんと俺をどこかに連れて行ってくれたらいいのに。
外を見ながら、変な考えに陥る。俺まで沼にはまってどうする。俺がちゃんとしていないと。
沼にハマりかけた足を必死に抜くように、濡れた頭をぶんぶんと振った。
「ありがとうございました」
母さんが持っていた財布から二千円を出し、運転手に渡す。そして、眠りかけている母さんを、タクシーから降ろす。
タクシーの運転手はこちらに向かって、軽く会釈してから、スピードを出してタクシーを走らせて視界から消えていった。
母さんを連れて、エレベーターに乗りこむ。もうどうやって歩いているのかもわからない。ぐねった足をずるずると引きずって、団地の廊下を歩いて行く。
俺たちの家に着き、ドアに手をかける。
鍵を開けなくても家は開いていた。急いで出てきたから、鍵をかけるのを忘れてしまっていた。
家につくなり母さんを布団に下ろす。そしてタオルで、濡れた母さんの顔や身体、髪の毛をゆっくり拭いていった。母さんは赤子のように目をぼやけさせ、うつらうつらしている。
母さんを拭いた後、自身の濡れた髪の毛をタオルで拭いていると、一気に疲れがやって来た。おぼつかない足取りでリビングに向かった。
着替えることもなく、濡れた服のまま、リビングの冷たい床で横になる。服が身体に貼り付いて気持ち悪い。でも、もうここまで来たら、濡れていることを気にする意味もない。
カチリ、カチリ、と秒針の音が鳴っていて、窓の外から見える雨はもう弱くなっていた。
時計の針が二十三時を表している。
明日もバイトがあるのに、制服を洗濯する元気がない。
もうダメだ。疲れた。しに……
プルルルル。
ポケットに入れていた携帯が振動する。寝転がりながら、ポケットから携帯を出し、相手が誰かも確認せずに、応答ボタンを押した。




