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【谷山雄大】悪夢

 夜中、気持ち悪さで目が覚める。

 俺は一目散にトイレに駆け込んだ。そして、嫌な音を立てながら、口からお米の混じった汚物を吐く。

 胸がつっかえるように痛む。精神的にも、身体的にも。

 げえげえと嗚咽が漏れると同時に、無意識のうちに目からも液体が出る。

 夜の家は、死んだように静かで、寝ている母さんが起きる気配も無い。

 俺は、必死に肩で呼吸を繰り返す。

 ごめんなさい。せっかくのカレーを吐いてしまってごめんなさい。

 母さんを怖いと思ってごめんなさい。

 母さんから父さんを奪ってごめんなさい。

 何かに縋れる姉ちゃんと母さんを羨ましがってごめんなさい。

 

 ずるい気持ちで、今でも朱音の隣にいてごめんなさい。

 

 罪悪感が胸いっぱいに詰まる。俺はそれを口から吐き捨てるかのように、カレーを吐き出した。お腹に何も残っていないんじゃないかと思うくらい、たくさん吐いた。

 それでもまだ、たくさんの罪悪感が俺の胸を飽和していた。

――早くこの時間が終わってほしい。

――なら、俺は何に頼ればいい?

 一度自分の頭に浮かびつつあった汚い感情をどうしても吐き出したくて、何度も唸る。でも、何も出てこなくて、キーンと胸が痛んだ。まるで胸の辺りを爪で引っかかれているような痛みだ。

 苦しい。

 何度も吐いて、もう何も出なくなった。眠気と胸痛で、ボロボロになった。

 トイレットペーパーで口を拭き、汚物を流す。それから、便座の裏に飛び散った汚物も、拭いて綺麗にして、洗剤を使って掃除もした。

 そして、母さんに気づかれないように、足音を忍ばせてと自分の部屋に戻る。

 吐いた後の喉の痛み以上に、母さんに殴られた腕や足の痛みにじっと耐えるように布団に潜った。


「朱音ちゃんまたテストで一位だったんだってね……。いいなー」

 夏休みが始まった初日の朝。

 朝食を食べていると、テレビを見ている母さんがぼそっと呟いた。俺に言っているのか、独り言なのかわからなかった。

「母さん今日仕事は?」

「今日は休み」

 俺のが質問しても、母さんはテレビから顔を離さない。昨日と同じ台詞を、低い声でぼやくだけ。

 昨日は有給なのかと思ったけど、今日も?

 俺が同じ日をループしているのか、母さんが変わっていないのかわからなくなりそうで怖くなる。間違いなく、昨日も母さんは、今日は休み、と言っていた。

 母さんが少し不機嫌な顔をし、テレビの音量を上げる。

 しまった。不快になるようなことを言ってしまった。

「そっか。まぁいつも働きすぎてるんだからゆっくり休めよー」

 母さんは俺の声が届いていないようだった。ぼーっと背中を丸めながら、テレビを見ている。

 母さんに仕事の話をするのはこれ以降やめよう。それに、二日連続ぐらい休んでも良いじゃないか。過度に反応してしまった俺が悪い。

 朝食を食べ終え、食器をシンクへ運ぶ。

「じゃあ俺、バイトいってきます」

 そう言っても、母さんからの返答は無かった。最近、母さんから「いってらっしゃい」と言われなくなった。

 その日以降、母さんが朝、ベッドから立ち上がることは無くなった。

 

 母さんは毎日を家の中だけで過ごすようになった。仕事に行くことも、買い物にいくこともしなくなって、料理をすることも洗濯をすることもなくなった。お風呂も三日に一回になった。最近まで元気だったのに、いきなりだ。母さんはご飯も食べられなくなって、市販の睡眠薬と安い缶のお酒だけで生活するようになった。

 朝、俺がバイトへ行くときも母さんは寝ている。昼間は俺は家にいないのでわからないけれど、夜はリビングでテレビも付けつけずに、お酒を飲んでいる。そして、俺が寝るころにクスリを飲んでいる。

 クスリを飲んだ後の母さんは、まともにまっすぐ歩けないほど千鳥足で、俺は毎晩酩酊している母さんの肩を抱いて、ベッドに連れて行った。

 ベッドの中で死んだように眠る母さんが、本当に死んでしまっているのではないかと不安で夜中何度も確認するようになった。そのたびに、寝息を立てて寝ていて、それでもまだ、恐怖は拭えなかった。

 風呂に入っても、部屋で宿題をしていても、バイトで皿を洗っていても、俺は母さんがその瞬間にいなくなってしまうのではないかという不安が止まらなくなって何も手につかなくなっていた。


――俺を独りぼっちにしないでくれ。

 

 俺が母さんをみじめな気持ちにさせているのに、俺は自分の幸せを押し付けるように願っていた。

毎日毎日、汗をかきながら、ザク、ザク、とネギを切り続けた。


 物音がして、目が覚める。八月の第一週目。補習の最終日だ。俺が受ける補習は、国数英の三教科で、それぞれ二日ずつあった。

 今日は最終日の数学がある。  

 起き上がりたくない気持ちで目を擦りながら、嫌々体を起こす。その瞬間、背筋が凍る感覚がした。

 物音の出所に気付いた。カチャリ、カチャリ、と食器同士がぶつかり合う音が、台所から聞えてくる。

 母さんが起きている!

 ここ最近母さんは、俺が制服を着て学校へ補習に行く時も、帰ってくる時も寝室で、眠っていた。朝食が出されることもなければ、「いってらっしゃい」と言って送り出してくれることもなかった。

 寂しくないと言ったら嘘になる。でも、俺にとって少し都合が良かった。

 母さんに成績が悪くて補習になったことを伝えられずにいたからだ。自分がクラスで最下位であることを、クラスの全員に笑われようが、朱音に馬鹿にされようが、母さんにだけはバレるわけにはいかなかった。母さんをこれ以上みじめな気持ちにさせるわけにはいかなかった。

 

 布団から出て、地面に足を付ける。そして、そーっと、部屋のドアを開けて、台所に向かう。まるで熱いお風呂に入る時のように、昨日までと同じように、音を出さないようにちょんちょんと静かに爪先で歩く。

 台所に立っている母さんとぱちりと目が合った。

 驚きで、目にあり得ないほどの力が入る。

「あら、おはよう雄大」

 そして、再び全身に悪寒が走る。

 

 母さんの様子がおかしい。

 

 真夏なのに、冬用のもこもこの暑苦しいスリッパを履いている。たった数週間でやせ細った母さんは、それでも、汗をかいていなかった。

「お、おはよぅ」

 必死になって喉から声を出そうとしても、惨めな震える声しか出なかった。

 俺は椅子に腰かけた。

 おかしな母さんを前に俺はどうにか平静を装った。

「冷蔵庫に何もなかったけど、頑張って作ったの。雄大も受験勉強頑張ってね!」

 母さんは笑っている。最近全く見られなかった満面の笑みというやつだ。

 母さんの久しぶりの笑顔が見られたというのに、全く嬉しくない。

 心臓が揺れる。

 おかしい。

 母さんがおかしい。

「二人とも起きたらもう家から出て行っていてねぇ……」

 母さんは、真剣な顔で腕を組んだ。

 どういう表情をしたらいいのかわからない。

 今は夏だ。家には、俺しかいないし、俺は高校一年生だ。       

 夢だ。これはきっとおかしな夢だ。

 

 冷蔵庫に何もないのは、誰も家で食事をとらないからだ。昨日も、家には俺と母さん二人しかいなかった。だって、昨日も母さんは叫びながら俺を殴って、いつものように疲れ果てて寝た。酒のせいか、薬のせいか、凶暴性は増す一方だ。母さんの様子からは理性の『り』の字も見られなかった。

 その後俺がいくら泣いても誰にも気付かれなかったというのに、この家に一体誰がいるって言うんだよ。

 俺は椅子に座ったまま、貧乏ゆすりを繰り返した。なんとか平静を保とうと必死だった。

 もうこの家に、父さんが帰ってくることは二度と無い。

 笑顔の母さんは、決して冗談を言っている様子ではなかった。

 目の前のテーブルには、ご飯、卵焼き、みそ汁が並んでいる。おいしいはずの料理を見て絶望する。

 三人分用意されていたからだ。

 父さん、姉ちゃんが去年まで座っていた場所にも料理が置かれている。

 まるで色の無い世界に迷い込んでしまったかのように、目がうつろになった。

 震える手を必死になって合わせる。

「いただきます」

 なんとか声を振り絞る。

 食べなくては。母さんが作ってくれた料理を、食べなくては。

 目の前の味噌汁を口にいれる。

 味がしない。吐きそうだ。

 胃液がこみ上げてきたのを、必死に押し戻す。

「母さん、美味しいよ」

 俺がそう言うと、母さんは涼しい顔で、すっと微笑んだ。

 その笑顔を見て、どうしようもなく泣きたくなったけれど、口いっぱいに米を詰め込んでなんとか耐える。

 俺のせいだ。

 母さんだけ去年の冬に戻っている。母さんが壊れてしまっている。母さんが壊れかけているのに、自分の幸せばかり願うからこうなったのだ。

 姉ちゃんに助けを乞おうとした。母さんと向き合っているふりをして、俺はずっと逃げようといていたのだ。

「今日は雪、降るのかな」

 母さんがフライパンを洗いながら、そう呟く。

 「今は夏だよ」なんて言えない。母さんを否定して悲しませたら、本当に後戻り出来ないほどに何もかも壊れてしまうかもしれない。

 何も言いたくない。そう思い、たくさんの米を一気に口に詰め込んだ。粘土のような固まりを口の中で一気に飲み込む。

 母さんの作った朝食を作業のように、食べていく。これを食べなければ、母さんはもっと壊れてしまう。

「美味しい。美味しい」

 わざとらしく母さんに聞えるように繰り返す。

 味のしない違う食感のものを、必死に詰める。俺が母さんにしてあげられることは、それくらいだった。


 

「ごちそうさまでした」

 そう口にし、母さんの反応も見ず、すぐに自室に戻る。そしてすぐ、制服に着替えた。

 一ヶ月前よりもたくさんの痣が俺の体中にある。足、腕だけではなく、こめかみ、首、の方まで青黒くなっていた。

 俺は部屋の真ん中でうずくまる。膝を抱え丸くなって、ぎゅっと目をつむった。

 次に目を開けたとき、父さんが現われてたりしないだろうか。そんな馬鹿げたことを考えて自嘲した。

 

 一分ほど経って目を開ける。やはり現実は何も変わっていない。

 さあ、行くか。

 俺は家を出るタイミングを見計らった。母さんに見つかってはならない。母さんがトイレに行っている間にでも、母さんが食器を洗っている時間でもいい。見つからずに、補習に行きたい。

 俺は隙を探した。

 ジャー。

 台所で水を流れる音がした。今だろうか? いや、手を洗っただけか。

 ガタン。

 椅子から立ち上がったようだ。トイレに行くのだろうか。のっそりとした足音が鳴り響く。今なら、バレずに補習へ行けるかもしれない。母さんがトイレに入っているうちに大きな声でいってきますと言えば良い。俺は勢いよく部屋のドアを開けた。


「どうしたの。そんなに慌てて」

 心臓が止まった。母さんがひょこりと現われ、俺を不思議そうに見ている。俺が補習を受けるようなバカだと知ったら、母さんは……。

「……学校行ってくる!」

 やけになって、逃げるように玄関へ向かった。とりあえず、走れ。走れ。

 朝だというのに、ドンドンと足音を立てとにかく家の廊下を走る。そして、ドアを開けた。とりあえずもう、いってきますと一言言ってしまおう。どこに、と聞かれる前にドアを閉めよう。

「いってきます」

 情けない声でぼやく。ドアの隙間から母さんを見る。

「寒いから気を付けてね。いってらっしゃい」

 

 満面の笑みで笑っていた。

 俺は、うまく笑えなかった。母さんの背にあるテレビの中のキャスターは、「八月八日。今日の予想気温は三十六度、猛暑日となるでしょう」なんて言っている。

 俺は感情を隠すように、母さんに無理矢理笑いかけ、すぐ背を向けた。

 母さんの久しぶりに聞いた「いってらっしゃい」は、俺に罪悪感と空虚感を与えた。

 

 ごめん。ごめん母さん。

 

 外は、俺を責めるような陽が差していた。

 母さんはいつ夢から覚めるのだろう。母さんはいつ幸せになれるのだろう。


――いつまで俺は呪われながら生きていかなくちゃいけないのだろう。


 暑さで頭痛がして、頭を抑えながらなんとか学校に着いた。

 そしてすぐ、気持ち悪くなって一番にトイレへ行った。個室へ入る。

 無意識に息をたくさん吸う。これが、吐くことの準備動作とも知らずに。

 さっき食べた、朝食が便器に流れていく。汚物にお米が混じっていて、味噌汁の味がする。

 母さんが、早起きして作ってくれた朝食の味をここで初めて感じてしまった。俺は、なんて最低なんだろう。

 罪悪感で頭がパンクしそうになる。

 さっき考えてしまった、自分の幸せだけを願う汚い感情も一緒にトイレに吐き出す。胸が軽くなるまで何度も胸を叩いた。

 出ろ。出ろ。全部出ろ。俺の汚いところ、全部消えろ。

 咳が止まらなくなるまで、思いっきり叩く。そして、咳の反動で酸っぱい胃液が出てくる。でも、どれだけ吐いても何も楽になれない。むしろどんどん首が絞まるように辛くなっていく。

 腕で乱雑に目を擦り、それからトイレを流した。ゴゴゴゴ、と個体が流れていく音がした。

 そして手を洗ってから、ふらふらして歩き、補習が行われる教室へと行った。

 

 おはよう、ととりあえず知り合いに声をかける。出来ればもう、声を出すことすらしたくなかった。

 補習には全く身が入らず、ぼんやりと過ごし、先生の声が先週よりも遠くに聞こえた。まるで、夢の中で自分を見ているかのような感覚になる。自分の意識だけが、抜けていくような、ずっとあくびしているときのような感覚。

 自分の話す声は頭に籠もって、他人の声を受け付けない。

 頬杖をつきながら、うつろな頭で考える。

 

 あぁ、もうダメかもしれない。

 

 補習もろくに聞かず、ただじっと、頭の痛みに耐えた。 

 何が夢で何が現実かも、もう考えたくなかった。


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