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【谷山雄大】母さんと姉ちゃん

「あら、雄大、おはよう」

 気がつけば眠っていて、木曜日の朝になった。

 七時のアラームで起きると、元気で明るい母さんがキッチンにいた。それを見ると、俺の頭の中で、昨日の出来事が曖昧になっていった。

「おはよう、母さん! 昨日疲れて寝ちゃってたから、俺が部屋まで運んでやったぜ! 重くて腕痛かったけどな」

「ありがとう、ごめんね……。でも一言余計よ」

「ひゃひゃひゃ」

 テーブルには、昨日切りかけにしていた野菜を使ったスープとおにぎりが並んでいた。

 俺は手を合わせて、スープをごくごくと飲んだ。

 美味しい。

 温かくてじんわりする。

 

 きっと母さんは記憶がなくなっているわけでない。

 木曜日の朝、いつも決まって母さんは、少し困った顔で「ごめんね」と口にする。だから多分、昨日のことを掘り返さないだけで、覚えてはいると思う。

 少ししょっぱい塩味のおにぎりをかじりながら、朝の報道番組を見ている母さんをチラリと横目で見た。

 今の母さんに、昨日の呪いの幽霊のような雰囲気はない。どこにでもいるおばちゃんだ。どこにでもいる、母親の顔をしている。

 よかった。

 ほっと、心の中で安堵する。

「今日母さん、朱音ちゃんのお母さんと奏くんのお母さんとカフェに行ってくるからね」

「へー、ママ会ってやつ?」

「そうそう」

 嬉しそうに笑う母さん。次は、実際にほっと一息ついた。


『これっきりだと良いのにな』なんて脳裏に浮かぶ。でもすぐに『そんなことあるはずないよ』ともう一人の自分が囁く。


 テレビで天気予報のキャスターが梅雨明けを発表していた。俺は、暑さで食欲がどんどん無くなっていっているけれど、無理矢理母さんの作ってくれた朝食を詰め込んだ。

「ごちそうさま」

「はーい」

 食器を片付け、制服に着替えに部屋へ行く。

 時間割を確認しながら、カバンに教科書やノートを入れていく。

 自分の二の腕に、痣が何個か出来ていた。

 自分が色黒でよかった。奏みたいに白い肌だったら、この黒に近いような色の痣が目立ってしまう。

 痣はあるけど、押したら痛むだけで、何もしなかった痛みは無い。だから気にすることは無い。

「行ってきます!」

 カバンを持ち、部屋にいる母さんに告げる。

「行ってらっしゃい」

 テレビを見ていた母さんが、こちらを見てにっと笑う。

 母さんが昨日のことを無かったことのように振る舞ってくれていることだけが俺の救いだった。

 頑張って、と言ってくれているような母さんの視線を受けながら、家を出た。

 

「おい。お前また補習決定だぞ」

 ちょうど放課後、職員室で日誌を持って行ったら、担任から言われた。

 なんとなくテストをやりながらそんな気がしていたので、驚きはなかった。

「え! まじすか!」

「『まじすか!』じゃねえよ! お前クラスで最下位だからな! 頼むぜほんと」

 担任が、俺がクラスで最下位だということを職員室中に響き渡るような大きい声で話すものだから、職員室にいる先生が一斉に俺の方を見た。

 恥ずかしくて、早く出て行きたかった。

「波北を見習えよ!」

 担任は少し笑いながら、少し呆れながら大きな声で口にした。

 胸の奥がチクリと痛む。今朝の穏やかな母さんの顔ではなく、昨夜の幽霊のような母さんの顔が頭をよぎる。

「すんませんすんません」

「ほんと頼むぞお前」

 呆れている先生に頭を下げ、職員室を後にする。

 勉強では朱音を見習え、バスケでは奏を見習えとこれまで何回も言われてきた。

 

 職員室を出て、貼ってある期末テストの結果を眺めながら、一番右にある朱音の名前を目で追った。と同時に大きなあくびが出る。

 うまく寝られなくなってから寝不足が続いている俺は、一日の授業の半分を睡眠に当てていた。家で寝なくてはいけない時間に寝ることが出来ないのに、学校では心地よく寝ることが出来た。最悪だ。

 朱音は今日、何やら委員会の先輩と約束があるとかで、先に帰っている。

 門までの道をとぼとぼと一人で歩いていく。

 グラウンドでは、野球部やサッカー部が練習をしている。

 体育館からは、バスケ部やバレー部の声が聞こえてくる。

 自分がバスケをやっていたのは、去年のことなのに、もううまく思い出せない。自分が今見ている人たちと同じように青春を謳歌していたとは思えない。

 一人空を見ても、太陽が俺のことを責めるように照らしているだけだった。

 

 汗を流しながら家へ帰ると、見慣れない高いヒールの靴が玄関に並んでいた。

 俺は走ってリビングに行った。

「姉ちゃんじゃん!」

 久しぶりに見た姉ちゃんはこの家に似つかわしくない容姿へと変わっていた。姉ちゃんの身につけているもの全てが、明らかに高級品だ。

 姉ちゃんは俺の声にビクッと反応して、見つかってしまった猫のような目で俺を見た。今日も、母さんの作り置きのタッパーを紙袋に詰めている。

 姉ちゃんは、去年高校を卒業してから毎日のように彼氏の家で寝泊まりして、二か月に一回ほど家に帰ってきていた。家にある母さんの作り置きを、彼氏の家に持って行っているようだ。母さんはそれを知っているはずだけれど、何も言わない。「自分で作れば良いのに」なんて言わない。だから俺も、黙って見ていた。

「おかえり雄大。最近母さんの様子はどう?」

 姉ちゃんは誤魔化すように自分の背に、紙袋を隠した

 姉ちゃんは前に帰ってきた五月も同じ質問してきた気がする。

「たまーに沈んじゃう時とかあるけど、いつも通りだぜ! 最近たくましくなってきたしな!」

 俺はどうにか姉ちゃんの視界に入るように大きく手を広げるジェスチャーをした。けれど、姉ちゃんは明らかに俺から目をそらした。そして、台所からリビングのへ移動する。俺も後ろをついていった。

「……そっか」

 姉ちゃんは机に置いてあったせんべいの袋を開け、ポリポリと食べ出す。

 爪がとんがっていて真っ赤に色に塗られている。

 開けられた窓から風が拭いてくる。姉ちゃんの明らかに人工的な匂いが鼻につく。香水だろうか。

 姉ちゃんは携帯をいじり出す。画面の奥で男の人らしき名前の人と、連絡を取っている。

「今日姉ちゃん家にいる? 俺今日バイトもないし、母さんと三人で飯食おうぜ! 今日俺の好きなカレーらし――」

「いや、いい。私彼氏ん家行くし」

 姉ちゃんは俺の言葉を遮った。

「そっか。わかった」

 俺は小さく呟いた。

 

 姉ちゃんは断固として母さんに会いたがらない。だんだん母さんの精神が壊れていってしまっていることに、姉ちゃんはきっと気付いている。それでも、姉ちゃんは母さんを断固として避けている。

 その理由を俺は知っている。

 

 姉ちゃんはせんべいの食べていた手をパチパチと払い、立ち上がった。

 そして紙袋と高価そうな小さなバッグを持って玄関へと進んでいく。俺は進んでいく姉ちゃんを無言で追いかけた。

 姉ちゃんは、玄関に置いてあった五センチほどの高さヒール履いて、出て行こうとドアに手をかける。

「姉ちゃ――」

「じゃあね」

 姉ちゃんはそう言い放ち、一度も俺の目を見ずに、出て行ってしまった。

 静かな玄関に、一人立ち尽くす。

 

 父さんが死んでしまって悲しいのは、俺だけじゃない。姉ちゃんもだ。姉ちゃんもいっぱいいっぱいだから、何かに頼らなくちゃ寂しさで溺れてしまう。姉ちゃんは男に頼って、母さんは酒に頼っている。


――なら、俺は何に頼れば良い?

 

 いいや、俺は頼られる側にならなくちゃいけないんだ。父さんみたいにならなくちゃ。

 自問自答を繰り返す。


 俺は家の鍵を閉め、思い立ったように台所へ向かった。すぐ米を炊飯器にセットして、ボタンを押す。そして、母さんの作ってくれた作り置きのスープを火にかける。カレーのルーを入れ、煮込んでいく。

 明日はバイトだ。バイトの制服を洗わなくちゃ。

 そう思い立ち、洗面所へ行く。来ていた制服のシャツと靴下を脱ぎ、下着姿になる。そして、洗濯機に洗剤を入れ、スイッチを押した。がこん、がこんと洗濯機が回り出す。

 ついでにお風呂も洗っておこう。

 風呂場に入り、スポンジを手に取る。浴槽を磨いて、壁一面を磨いて、這いつくばって床を磨いて、髪の毛の絡まった排水口も素手で綺麗にした。

 一度始めたらやめられないのが俺だ。夢中になって、汚れが取れるまで一生懸命磨く。

 

 何かに没頭している間の、頭が空っぽになっていて、気がつけば何時間も経っているときの、夢のような時間が好きだ。バイトを週五でやっているのもそれが理由かも知れない。

 俺は、ラーメンを提供するよりも、洗い物をしたり、ネギをひたすらに切っている時間が好きだ。誰とも話さず、ひたすらに同じ作業をする。そして気がつけば時間が経っていて、給料がもらえる。

 あとから思い返してもその時間は空白だ。何を考えていたのかも思い出せないほど真っ白だ。

 母さんに金なら心配するな、と言われているけれど、俺は学食が食いたいからと理由でバイトをしている。母さんも弁当を作る時間がなくなるし、ラーメン屋でうまい晩飯も食えるし、良いことしかない。

 ドアのがらりも掃除用の歯ブラシで丁寧に磨く。

 かれこれ二十分ぐらい止まらずに動いていた。そういえば、鍋に火をかけたままだった。

 そう思い出し、急いで手を洗い台所へ向かう。そして、火を止めてから、また風呂場に戻った。

 シャワーを出し、洗剤の泡流していくと、お湯の湿気で汗がぶわっと溢れた。

 すべてを流し終えて、足も手も洗い、洗濯機が回っている洗面所へ戻る。

 タオルで水気を拭いていると、ガチャリと玄関のドアが開いた。

「ただいまー。あら、カレーやってくれたの?」

 母さんだ。

「おかえり!」

 俺は洗面所から大きな声で叫ぶ。リビングに戻ると、姉ちゃんの甘ったるい香水の匂いは消えて、カレーの匂いが部屋に広がっていた。

 仕事帰りの母さんが、少しだけ顔に疲れを浮かべながらこちらを見ている。

「米も炊いてあるぜ!」

 俺は親指を立てて母さんにどや顔を向けた。

「ありがとうー。さすが雄大」

 母さんは嬉しそうに笑ってくれた。

「でもさ……、作り置き。お腹空いて食っちゃた」

 俺がそう言うと、母さんは一瞬真顔になって、また笑い出した。

「そっか……。しょうがないねぇ」

 母さんは、笑いながら俺の頭に手を伸ばす。俺は思わずびくりと肩を揺らした。

 叩かれることはなく、優しくコツンと小突かれる。

「ご、ごめんなさい」

「いいよ。また作るね」

 反射的に母さんに殴られたことを思い出して顔が歪む。

 母さんにそれを気付かれるわけにはいかないので、俺はすぐに背を向け、台所に向かった。


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