【谷山雄大】水曜日の夜
「ただいまー!」
バイト先でのまかないでお腹を満腹にさせてから、家へ帰る。家の中は真っ暗。人がいる気配がまるでない。
台所には切りかけの野菜が寂しそうにぽつんと並んでいた。包丁が、まな板の上に無防備に置かれている。
そのままリビングに向かう。
リビングには、泥棒が入ったのかと思えるほどに洗濯物が散乱していて、テレビはつけっぱなし。テーブルの上にはお酒の缶が散らばっている。
小さくため息をついた。
――ああ、もうこの日か。
もうこれに慣れてしまっている自分がいた。
俺たち家族は、母さんと姉ちゃんと俺の三人で、朱音と奏が住む住宅地とは少し離れた団地で暮らしている。去年の冬、父さんが交通事故で亡くなってから、母さんは一人で俺たち姉弟二人を育ててくれている。
いつも優しい母さんだ。
「もう、ダメだ。し、しにたい。つかれたぁ。ハハハッ」
ただ今、テレビの前に座っている母さんは、うつろな目でバラエティーショーを見ながら、力なく笑っている。
母さんは週に一回、母さんではなくなる。
俺が高校に入ってから母さんは変わってしまった。毎週木曜日は仕事がないからと、水曜日、帰宅するとすぐ大量のお酒を飲むようになった。俺がバイトから帰ると、呪文のように一人ボソボソと呟く母さんがいる。それが毎週水曜日の夜の決まりだ。
母さんの言うことはいつも同じだった。死にたい。疲れた。もうダメだ。
そんなになるのに、母さんはお酒を飲むことをやめない。俺も最近では止めなくなった。止めたらもっと悪化する事例があったからだ。
母さんの『ラリった』状態を初めて見たとき、泣くほど怖かった。これまでに見た、どんな怖い映画の幽霊よりも怖かった。
悲しんでいるのに、ずっと口角は上がっていて目には光がない。まるで、幽霊だ。
「母さん。ただいま」
俺は大きな声を上げた。
目の前の幽霊が俺に気付く。真っ黒な目が俺を捕らえる。俺は恐怖で固まって動けなくなる。
そして幽霊は、俺に向かって呪いをかける。
温かい『おかえり』の一言なんてものは無い。
「いいよね、朱音ちゃんのお母さんも、奏くんのお母さんも綺麗で。優しいお父さんと頭の良くて可愛い子供がいて幸せだろうな。いいなぁー。何で私だけ『こんなん』になっちゃうんだろうね」
母さんは独り言のように呟き、テレビを見ながら泣いていた。
『こんなん』の中には、父さんが死んでしまったことだけでなく、出来の悪い息子である俺のことも含まれているのだろう。
クーラーのガタガタという音が、静かに響く。俺はバイトに持って行ったカバンを床に置いて、母さんに近付いた。
「母さんも綺麗だよ。俺、母さんが大好きだよ」
母さんに近付きながら語りかける。
大丈夫だから。俺頑張るからね。母さん死んじゃったら俺悲しいよ。綺麗だから。
必死に呪いを解こうと、肩をさする。
綺麗だ、大好きだよといつも幼なじみの隣で出せずにいる言葉を、俺は家で精神を削って口にしていた。
母さんの言うとおり、奏のお母さんも朱音のお母さんもいつもどんなときでも綺麗な服を着ていて、色づいた化粧をしている。それに比べて母さんは、ジャージを着ていることが多く、顔にはしわやシミがあり、いつからかおばさんという言葉が当てはまるようになった。
でも、父さんがいなくなってからも、俺は人より我慢させられたことなんてない。母さんは自分の身なりを気遣うよりも、俺たち、子供のことを気にしてくれる。
俺は自分の母さんと他の母さんと比べて惨めに思ったことなんて一回もない。そもそも『母さん』という唯一無二の存在を、他の誰かと比べようと思ったことなんて一度もない。
「寂しいよ。辛いよ。助けてよ」
母さんは右手で俺の腕をぐっと掴みながら、俺ではない何かに必死に訴えかけている。
父さんの幻覚だろうか。
俺の腕を必死に掴んでいるのに、どう頑張っても視線は合わない。
母さんは俺の腕から手を離し、テーブルに置いていたグビグビと酒を飲んでは、また口を開く。
「あたしこんなに頑張ってるのに。あたし頑張ってるのになんで?」
何を言えば良いのかわからなくて、口をつぐんだ。
週に一回、母さんは一人称を『母さん』から、『あたし』へと変える。
子供ように鼻水を垂らし泣きわめく母さんは、左手で父さんの写真を強く握りしめていた。
母さんはいなくなった父さんの帰りを今でも待っている。
「雄大はちゃんとあたしのとこに帰ってきてね」
母さんはそう言って、今度はちゃんと俺を見た。
強く訴えかける目。それはまるで呪いだ。俺はこれを破れば死ぬ。母さんに呪われて死ぬ。姉ちゃんは死なないけれど、俺は死ぬ。姉ちゃんは呪いにも負けない強い心を持っているけれど、俺にはそれがない。
「大丈夫だよ」
「うるさい! 大丈夫じゃない!」
俺の頭に強い衝撃が走る。右のこめかみに、母さんの拳が当たる。
痛い。
まただ。
また今日も叩かれた。
母さんはだだをこねる子供のように俺の肩や腹を叩き続けた。言動は子供のようでも、身体は大人。女の人だと言ってもそれなりに力は強く、俺は何度も嗚咽を漏らした。
ひとしきり俺を殴ったあと、母さんは下を向いてまた泣き出した。
うわーん、うわーんとまるで失敗をしでかしてしまった子供みたいに泣き喚く。
「ごめんね。母さん。母さん頑張ってるのにごめんね。優しい母さん俺は好きだよ。俺はどこにも行かないからね。母さん死んだら俺生きていけないからね」
俺も呪いように母さんに訴えてしまう。
もっと頑張らなくちゃ。母さんが俺を自慢に思ってくれるぐらいに頑張らなくちゃ。。
口にすると同時に自分に強く言い聞かせる。
勉強で躓いている場合じゃ無いのに、何しているんだ俺。
俺は強く目を擦った。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
――早くこの時間が終わってほしい。
ダメだ。こんなことは考えてはダメだ。
頭に浮かんだ想いを払拭させるかのように、機械みたいに一定のリズムで母さんの肩をさすっていると、気付けば母さんは眠っていた。
良かった。終わった。
安堵して、俺は散らばっているお酒の缶と洗濯物を直すため立ち上がった。テレビの中のお笑い芸人がいじられて笑っている。そんな笑いを聞きながら、腰を下ろし、洗濯物を拾う。自分がまるでテレビの中にいるような、自分の行動が自分の意志と伴っていないようなぼんやりとした感覚がする。まただ。最近よくこの感覚を味わう。
明日になればきっと母さんの記憶も曖昧だから、俺がしっかり笑っていればいい。
俺にできるのはそれぐらいだ。唯一の取り柄は明るさ。それを取ったら俺には何も残らない。
母さんが過去に戻ろうとした日をなくして、何事もなかったかのように日常を進めていく。
そうすれば、俺の頭の中だけに恐怖の時間は残る。
それでいい。
母さんが散らかしたリビングを綺麗にし、寝てしまった母さんを寝室まで運ぶため、母さんに触れる。
先週運んだときよりも軽い。肩も前より骨張っているような気がする。それに、まるで本当に幽霊になってしまったかのように、母さんの肩の体温が俺の手に伝えわってこない。
叩かれた太ももがじんじんと痛むも、なんとか力を入れ立ち上がる。そして、母さんの寝室に入った。
母さんをベッドに下ろし、手に握られた父さんを抜き取って自分の机の引き出しを開ける。笑っている父さんの写真、ぽかんとしている父さんの写真、俺たちと一緒に写っている父さんの写真、父さんと母さんの結婚式の写真。
俺の机の引き出しの中には、ストーカーのように父さんの写真が大量に入っている。全て母さんから抜き取ったものだ。
あと何枚になれば、俺はこの恐怖から抜け出せるだろう。
週に一回。夜の二十一時頃から母さんが寝るまでの約一時間。
それは次が来るまでの期間よりも長い時間に感じられた。
俺はラーメンの匂いのする髪の毛をそのままにして、布団に突っ込んだ。
臭くて涙が出てくる。
『朱音ちゃんと奏くんのお母さんがうらやましい』
母さんが寝ても、母さんから言われた言葉は俺の心に突き刺さったままで、じんわりと血が滲むような痛みが胸に走る。
出てくる鼻水をすすり上げた。
俺は父さんのように大きくなれなかった。身長は百七十センチに満たなかった。声も男らしく低くならなかった。奏や朱音のように優秀にはなれなかった。
涙が一気に頬を伝ってボタボタと落ち、枕を濡らす。
そうだよな。うらやましいよな。俺が『こんなん』で。ごめんな。そりゃ精神もおかしくなっちゃうよな。母さんは悪くないんだよ。俺が悪いんだよ。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
限界まで頭の中で母さんに謝り続ける。
毎日、毎日懺悔を繰り返すのはベッドの上。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
眠気が限界を迎え、意識を失うように眠りにつくのはいつも深夜の三時頃。それまで俺はひたすら脳内で母さんに謝る。
惨めに泣きながら、もう夏だというのに布団に潜る。そして、汚い汗をかきながら、自分の嘆きを夜の海に沈める。毎回同じことを考えて、同じように泣く。
あと何回繰り返せば、母さんは元気になってくれるだろうか。
希望を見いだすために頭を悩ますのに、結局絶望の中から抜け出せないまま、夜は明ける。




