【波北朱音】不安
夏休みに入り、先輩と私は毎週月曜日に遊ぶ約束をしていた。それ以外の日私は塾、先輩は駅前の書店にアルバイトへ行っていた。
お付き合いを始めてから一ヶ月経っても、お祝いしよう、なんてことはしない。私たちにとって今の期間はお試し期間。仮契約みたいなものだ。
机に向かい、スケジュール帳を開く。私は毎日このスケジュール帳に、予定だけでは無く、その日の出来事や今の気持ちなどを綴っている。
八月三週目の今日は、私の家で宿題をしようという目的で先輩を家に招いている。さっき、先輩から今から行くという連絡がきたから、もうすぐやってくるはずだ。
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七月。
夏休みが始まって最初の月曜日。七月の末には、私の家の近くの公園で、先輩が作ってきたお弁当を一緒に食べた。先輩が作ってくれたお弁当は、スクランブルエッグか卵焼きかわからないものと、小さなハンバーグと海苔でハートマークが書かれたご飯が入っていた。きっと、海苔に一番時間がかかっただろう。
その日のところには、『先輩のお弁当美味しかった。今度は私が作りたい』と書いてある。
続いてページをめくる。
八月の初めの月曜日は、私の家から歩いて三十分ぐらいのところにある、町で一番大きな公園に行って、二人でどっちがいい写真を撮れるか勝負した。
私は彷徨っている鳩を撮ったり、綿みたいな雲の写真をシンプルに撮ったりした。対して先輩は、しゃがみこんで空を背景に花を撮ったり、落ちている缶ビールのごみを映えさせたりして撮っていた。
まるで絵画みたいだった写真を見て、先輩にはやはり芸術的なセンスあるのだと実感した。
その日のところには、『暑かった。でも楽しかった』と書いてある。
そして先週。
先週は、図書館へ行った。図書館で、喋ること無くお互い別の本を読んでいた。
私は先輩から借りていた本の三回目を読んだ。毎回読む時の意識を変えたりはしなかったが、先輩と同じことをしてみたかった。
三回読むことで、より物語を知れ、少しだけ先輩に近づけた気がした。
やはり、先輩が貸してくれた本は、殺人犯が殺した男の子の恋人である女の子に恋をしている話だった。同性愛のことが抱えうる心理描写が、細かく書かれていた。
先輩が、どの人物に共感して涙していたかはわからないけれど、あの殺人犯みたいに悲しい思いはして欲しくないなと思う。
その日のところには、『読書にハマりそう』と書いてある。
今ではもうその気持ちも薄れてきているんなぁ、と鼻で笑った。
こうして見ると、私たちは、お金のかからないことをしているな、と思う。
先輩も私もお金がないわけではない。私は、ほしいと言えばいつでもお金がもらえるし、先輩もたくさんバイトをしているようだったのでお金に困っていないはず。
でもお金を使わなくても、十分楽しい。むしろ、私たちの幸せはお金では買えない気がする。
私は、スケジュール帳の今日のところに、『お金では買えない幸せ』と書いた。
私の両親は、他の人よりも良いものを与えてくれる。でも、それは私に合っているものではなく、値段の高いもの。お肉もお菓子も必ず日本産。海外のものを食べることは、いつもお父さんが許さなかった。タオルもすべて高級なもので、半年経って手触りが悪くなると、お母さんがミシンを使って雑巾へと変える。私には手触りの違いがわからないけれど、お父さんがいつも敏感に反応する。
私の家では『お金があること=幸福』が決まりだ。けれども、私はその幸福を実感出来たことはない。先輩と過ごす、無料の数時間の方が十分幸せだ。
ぺらっとページをめくり、今後の予定を確認する。来週の月曜日は、私がおばあちゃんの家へ行くから、先輩に会える夏休みは、早くも今日が最後。
ピンク色のペンで記入した予定を眺めているうちに、インターホンが鳴った。私は部屋を出て階段を駆け下り、玄関へ向かった。
ガチャリ、とドアを開けると、先輩はインターホンの前で肩を揺らして、転けそうになっていた。
「いきなり開いたからびっくりした」
どうやら、応答なしに人が出てきたことに驚いたみたいだ。
「あはは、ごめんなさい」
私は、どうぞとドアを大きく開けて先輩を招き入れる。
「おじゃましまーす。おぉー、広い。家政婦とかいそう! 朱音ちゃんはお嬢様だねー」
「ただの一軒家じゃん」
先輩は興奮気味になった犬のように、鼻をふんふんとして家の匂いかいでいる。
「こんにちはー。清水伊織です。おじゃまします」
私のお母さんを目の前にしても、先輩はいつもと様子を変えず小学生のような活きの良い挨拶をする。お母さんは、先輩を不思議そうなじとっとした目で先輩を見ている。
うん。そうだよね。
まるで先輩と初めて会った日の私を見ているようだった。
「先輩。こっち」
先輩を二階の自分の部屋へと案内する。軽くは掃除したものの、雄大や奏以外の人を部屋に入れたことがないから、今になって緊張してきた。
階段を登り、一番手前の自分の部屋のドアをゆっくり開ける。先輩も続いて部屋に入る。
すると先輩は、玄関を通った時よりも目を輝かせていた。
「朱音に包まれてるみたい!」
鼻をクンクン揺らす様子は犬そのもの。
先輩はお構いなしに、部屋の中心に座ってあたりを見回し始めた。何か見つけたのか、膝立ちで私の机の方へ歩いて行く。
「これ小学生の時の朱音!? かわいい!」
先輩が手にもった写真は、初めて奏と雄大と三人でお祭りへ行くことになった年の写真だ。
浴衣を着て浮かれている私が写真の中にいる。
「そうだけど、あんまり見ないで」
「かわいい!」
「わかったから、今日は宿題するんでしょ」
私は鼻息の荒い先輩を押しのけて、折り畳みのテーブルを広げた。
「宿題面倒くさいなー」
先輩は嫌々言いながらも、トートバッグから夏休みのしおりを取り出す。えっと、と言いながらしおりの中身を確認している。
「まだ学校の宿題終わってないの?」
私は塾で出された宿題を広げながら、先輩に問いかけた。
「あと三分の二くらい残ってる」
「えー。夏休み何してたの」
「バイト行って、本読んで、寝てた」
「バイトが休みの日は?」
「映画館行ったり、劇場に劇見に行ったりしたよ」
先輩は創作品ばかりに触れている。そんなに別世界のものばかり見て、現実世界があやふやになったりしないのだろうか。
私たちは、雑談を交えながら、なんやかんやで宿題を始めた。
そして十五分ほど経った頃。
確かに宿題を始めたはずなのに、目の前の先輩は宿題を放り、携帯を見ていた。先輩に気付かれないように姿勢を正し、そろりと携帯の画面を覗く。どうやら携帯小説を読んでいるようだ。
まただ。また先輩は私の部屋の中に存在するのに、脳内では小説の世界へと行っている。
先輩は、携帯の中に精神が吸い込まれているみたいに見えた。
私はわざわざ注意する気もなかったので、黙って自分の宿題を進めた。
静かな時間が続く。
中三の時に雄大と奏と一緒に私の家で宿題をしたときは、ずっと口を動かしていた。というか、雄大が一人でずっと唸っていた。
てっきりおしゃべり好きな先輩も同じで、「勉強をする」と言いながら私の家でずっと喋っているのだろうなと思っていた。
携帯の画面を見ている先輩の、長いまつげを見る。外の光が当たって、まつげが透けている。
静かな先輩を見ていると、まるでここが学校の図書室かのように思えた。聞こえないはずなのに、野球部のならすカキーンという音。吹奏楽部の奏でるクラリネットの音が聞こえてくるような気がした。
再び自分の宿題に手を付ける。
先輩と一緒の時間を共有していて、一緒にいるはずなのに、私たちはそれぞれ違うことをしている。この時間の心地よさは何にも変えられない。自由だけど一人じゃない。ひとりぼっちだけど、孤独じゃない。
幼なじみ三人で楽しく話している時間と同じくらい、この時間は私にとって特別になっていた。
どんどんとペンを進めていく。自分の部屋ではない箱のような空間に閉じ込められたかのような不思議な気持ちさえする。それほどに、集中出来ていた。
すると急にドアがガチャリと開いた。私も先輩もびくりと肩を揺らした。
「勉強進んでる?」
ノックもなしにお母さんが入ってきた。先輩は見ていた携帯をすぐに、自分のトートバッグにしまう。
お母さんはズカズカと中へ入ってきて、テーブルに真っ赤なパッケージのリンゴジュースを二つ、焼いたであろう手作りのクッキーを置いた。
「ありがとうございます」
先輩はニコニコした表情で、お母さんに頭を下げる。
「いえいえ。勉強頑張ってね」
「はい」
礼儀正しい先輩を見るのは新鮮だ。なんだか笑ってしまいそうになる。
お母さんはお菓子とジュースを残して、部屋から出て行った。お母さんにより遮られた宿題を一次中断し、私は真っ赤なパックにストローを刺した。
「朱音とお母さん、あんまり似てないね」
小説の世界から、現実世界に帰ってきた先輩は、軽くあくびをしながらそんなことを言い出す。
「そう? 初めて言われた。いつも似てる似てるって言われるよ?」
「顔自体は似てるけど、雰囲気が違うなって思った」
「自分の雰囲気とか自分じゃわからないよ」
自分がお母さんに似ているかも似ていないかも、自分の雰囲気を知らないからわからない。一体、どのような雰囲気なのだろうか。
先輩は小さく「いただきます」と言いながら、優しくリンゴジュースにストローを刺す。私の家だからか、いつもよりも言動が落ち着いているように見える。
「ね、朱音」
「どうしたの?」
「いつか水族館行こうよ」
先輩はそう言いながら、再び携帯を見始めた。
「水族館? いいよ?」
先輩の珍しい様子をまじまじ見ながら、何の計画性もなく答えを安易に出した。
小学生の遠足で行った水族館が、県内のどこにあるのかも、電車でどうやって行くのかも知らない。
「やったぁー」
先輩はこちらを見ない。先輩の持つ携帯の画面には、やっぱり小説が映っていた。
それにしても、先輩が小説を読みながら話そうとするのは珍しい。いつもは、本を読んでいる先輩に話しかけると、話が噛み合わなくなる。
いつもみたいにのめり込めなかったのだろうか。
私がどれだけ先輩を見ようが先輩は携帯から目を離さない。
これは本当に私の知っている先輩なのだろうか。そう思えるくらい今日の先輩は少し様子がおかしい。いつもおかしいけれど、いつもとは違う方向でおかしい。
いつも私が話すと、穴が空くほど見つめられるのに、今日は私の目を一度も見ていない。部屋に入ってから、先輩が目を合わせたのは、写真の中の小学三年生の私だけ。
初めての先輩の様子に気持ち悪さを感じた。
先輩が興味なさそうに小説を読んでいる。けれど先輩は私よりその小説に興味があるようだ。少し不快感がする。
「何読んでるの?」
私は先輩の持つ携帯に触れようと隣に座り、手を伸ばした。
すると先輩に手をはたかれた。
机に置きっぱなしにしていた先輩のシャーペン肘に当たり、コロコロと転がっていく。
「え、あ。ごめん」
今日の先輩は先輩じゃないみたいだ。
「先輩っておかしいね」
「よく言われる」
苦笑いながら先輩は、床に転がったシャーペンを拾って再び机に置く。そしてゆらゆらと揺れる手で、携帯の画面を向けてきた。
「最近携帯小説にハマってるんだ」
先輩が見せてきた画面を、目で必死に追う。
そこには、『紫色の海になって、』と太く大きな文字で書かれていた。どうやら小説アプリのようで、その小説の隣に、ブックマーク的なものであろう星が塗りつぶされている。
なぜかタイトルが『、』で終わっている。それに、『紫色の海』って何だろう。濁っている海のことかな。
素人が書いている小説みたいだし、全く面白くなさそうだ。でも、それを先輩に言うのは失礼だと思ってこらえた。
「それ、面白い?」
「うん」
「でも先輩。いつもよりあんまりのめり込んで読んでないね。いつもすごく集中して読んでるのに」
「のめり込めないというか、のめり込まないというか……」
先輩は語尾を曖昧に濁す。そして、先輩は言葉の続きを言う前に、ジュースを飲んだ。
「ふーん」
私はそう言いながら立ち上がり、元いた先輩の正面の位置に戻った。そして、うーんと手足を伸ばして伸びをする。
ちょこんと先輩と足がぶつかる。
「あ、ごめん先輩」
目の前の先輩はピクリと肩を揺らし、一瞬こちらを見て小さく頷いてから、また携帯小説を読み始めた。
私はまだ先輩のことが恋愛として好きかわからない。嫌いではない。先輩が私のことを好いてくれているのは伝わってくるし、一緒にいて楽しい。初めてお母さん以外の人のお弁当を食べたときのわくわくは何にも変えられない。先輩に不満はない。
でも不安はある。
付き合ってから先輩は私にむやみに触らなくなった。
前までは髪を触ってきたり、抱きついてきたりしたけど、今はそれがない。さっきも、ちょっと足が当たったなのに、先輩は嫌そうな、気まずそうな顔をしているように見えた。
私は本当に、波北朱音として好かれているのだろうか。女の子が好きな先輩は、女の子なら誰でもよかったのだろうか。
先輩は、無理かもしれないと思っても教えてねと私に言ってきたけれど、先に違う、と思うのは先輩の方かもしれない。
不安で頭がいっぱいになって、ペン先をワークに触れながら時の流れを待った。私のページ数は全く動かなり、時間の過ぎる音と、うるさい蝉の声が外で、鳴っていた。
先輩が帰ってから、携帯で『紫の海になって、』と検索した。一番上に、夜明けで紫になった空が映る海の写真たちが出てきて、それらの綺麗な写真をスクロールしていくと、その下に小説投稿サイトが出てきた。
それをタップして開いた。




